――第 027 幕 繰り返す光の箱――
深夜四時二十分。 「私」は、三十七度前後の生温かい微熱を持つ窓ガラスに額を押し当てていた。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 心臓の重い拍動に合わせて、網膜の裏で秒数を数え続ける。 直前の光から、正確に三分。
「……来る」
窓の外の漆黒が、唐突に切り裂かれた。
閃光。
網膜の表面がジリッと音を立てて焼けるような、暴力的な白い蛍光灯の光の帯。 再び、猛烈な速度でプラットホームが流れていく。 無人のベンチ。 文字の崩れた、赤茶けた駅名標。 自販機の前でひしゃげた、一本の赤い缶。 壁に貼られた剥がれかけの選挙ポスター。 政治家の笑顔。
画鋲の錆の広がり方から、右下の紙のめくれ方、三日前に付けられたであろう黒いシミの形まで。 すべてが、先ほど見た風景とミリ単位で重なり合っていた。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう。どうでもいい。 この不快な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
ボタンを弾く。カチッ。
「またかよッ!」
金髪の男が、窓枠をゴム底の靴で乱暴に蹴り上げる。
ズンッ。
ゼリーのように粘度の高い空気に、衝撃音が瞬時に吸い込まれる。 鈍く短い摩擦音だけが落ちた。 カビの臭いと、床にぶちまけられた嘔吐物の酸っぱい臭いが車内に充満している。 息を吸い込むたび、気管支が細かく引き攣り、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。
この不潔な嘔吐物の臭気が邪魔だ。
なぜ同じ光景が反復されるのか、その法則性を論理的に計算しようとする思考の結線が、ドロドロに溶け落ちていく。 まともな論理が組み上がらない。
「複製品だ。……映画のセット、あるいは特殊なガスによる……」
後方で、ヨレたカーディガンを着た助手が、早口で音素の羅列を吐き出していた。 彼は震える指で左腕の腕時計を引き寄せ、ストップウォッチのガラス盤を凝視する。 秒針は前へ進んでいなかった。
チチ、チチチチチ……。
秒針が、猛烈な速度で逆回転を始めている。 摩擦熱で文字盤のインクがドロドロに溶け出し、「12」や「3」という数字が黒い液滴となって、ガラスの裏側をドロリと流れ落ちていく。
左手でボタンを弾く。カチッ、カチッ。
三分だった間隔は、二分になり、一分になった。
ゴォォォォォォッ。
車体に叩きつけられる風切り音が波長を激しく圧縮し、耳を劈く高周波へと変わる。 外の景色は線となり、駅の光が激しい明滅となって車内を舐め回し始めた。
点滅。光。闇。光。闇。
連続する白い暴力が、眼球の裏側でバチバチと火花となって弾ける。 瞼を固く閉じ合わせる。 薄い皮膚を光の粒子が容易く貫通してくる。 眼球の裏側に、赤い缶とポスターの残像がこびりついて離れない。 光のコマ送りの間に、網膜にこびりつく微細なズレが混ざり始めた。
光が当たるたび。ポスターの政治家の笑顔が変化していく。 一回目の光。引きつった笑い。 二回目の光。口角が物理的な限界を超えて裂ける。 三回目の光。眼球が、猛スピードで通り過ぎるこちら側の「私」を睨みつけている。 四回目の光。顔面の皮膚がドロドロに腐り落ち、剥き出しの歯茎が笑っている。
「う、あ……、オエッ」
警官が床のカーペットに這いつくばり、両手で目を覆いながら乾いた嘔吐を繰り返す。 彼女の胃袋が激しく収縮と弛緩を反復し、未消化の胃液の酸っぱい臭いが立ち上る。
私は、彼女の狂乱や助手の錯乱を止めようとはしない。 彼らが絶望的なループにパニックを起こし、無様に嘔吐する姿をただ薄目で見下ろしていた。 他人が限界を迎えて惨めに壊れてくれればくれるほど、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 彼らが狂っていれば、あの病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧になるからだ。
そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
車内の暗赤色の非常灯と外の白い光が交錯する。 通路を挟んだ向かいの座席に深く沈み込んでいた数十体の肉袋たちの影が、デタラメな方向へ長く伸びては縮む。
ボタンを弾く。カチッ。
光が射す、一瞬のコマ。 のっぺらぼうだったはずの彼らの顔の粘膜に、光の加減で影が落ちる。 次のコマ。影の形が変わる。 次のコマ。その影は、裂けた口の形を構成している。 光が明滅するたびに、彼らは少しずつ姿勢を変え、関節のない首をこちらへ向けている。
チカ、チカ、チカ、チカ。
光の点滅が幾何級数的に加速する。 眼球の筋肉が硬直を繰り返し、視界の端が白くチカチカと明滅を始める。 重力の方向がドロドロに溶け落ちる。
「私」は、右手のポケットの奥に指を押し込む。
熱傷。
佐渡赤玉石が、掌の皮膚をチリチリと焦がすほどの高熱を発し続けている。 融けた皮下脂肪が沸騰し、タンパク質の焦げる香ばしい臭いが、車内の嘔吐物とカビの臭いを強引に上書きしていく。
痛覚のパルスが脳髄の表面を直接削る。
左手でパジャマのボタンを弾く。カチッ。カチッ。 三十七度の生温かい微熱がこもる空間に、ただ肉が焦げる臭いと、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




