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――第 024 幕 蠢く配列――

 天井の端に並んだ非常灯が、ドス黒い赤色の光を吐き出している。 エアコンの吹き出し口は完全に沈黙し、カビの臭いと腐った獣脂の甘ったるい臭気が、ゼリー状の重い空気となって車内を満たしていた。 息を吸い込むたび、気管支の粘膜(ねんまく)にその臭気がべっとりと張り付き、肺の奥に細かい砂利が沈殿していく。

 ポタリ。ポタリ。

 天井のプラスチックの継ぎ目から滲み出した黄色い粘液(ねんえき)が、水分を過剰に含んだ床のカーペットへ滴り落ちる。 極めて粘着質な水音が、空間の圧力を微細に揺らす。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 数メートル先の暗がり。 紺色のパンツスーツの女の肩の筋肉が不規則に収縮(しゅうしゅく)し、上下の歯が激しくぶつかり合っている。 警官だ。 彼女は、両手でスマートフォンを強く握りしめ、親指の腹で液晶画面を擦り続けていた。

 摩擦(ズリ……ズリ……)

 画面に付着した見えない汚れを拭き取る。

 ズリ。ズリ。

 彼女の荒い呼気が、カビと酸の入り混じった空気に白く濁って溶けていく。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 なぜ、あの女は無意味に画面をこすり続けているのか。 彼女の異常な行動を論理的に分析し、声をかけるべきなのかのかもしれない。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った獣脂の臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考がドロドロに溶け落ちていく。

「何よ、これ……」

 極度に乾燥した喉から、掠れた摩擦音が漏れ出す。 「私」は床に這いつくばったまま、右手のポケットの底で皮膚を焦がし続ける佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の高熱に奥歯を軋ませ、彼女の手元を見た。

 液晶画面が放つ青白いバックライト。 そこにあるのは、「圏外」というフォントではない。 文字の「はらい」や「とめ」の先端が、黒い糸くずのように細かく分岐し、ウネウネと波打っている。 画数の多い漢字は、ガラスの下に押し込められた無数の潰れた虫の死骸の塊だった。 彼女が親指で画面を擦るたび、その「虫」たちは液晶の奥へとウゾウゾと這って逃げていく。 画面から生温かい獣脂の臭いが立ち上り、気管支が細かく引き攣る。

 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう。どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 彼女の眼球の毛細血管が充血(ちゅうけつ)し、ドアの上部に設置されたLEDの案内表示板を捉えた。 赤いドットの文字列。 無数の「赤いダニ」の群れが、一列に並んで蠢きながら移動していく。

「なんて書いてあるのよ!」

 彼女は立ち上がり、壁に貼られた路線図へと飛びついた。 両手の爪を立て、紙の表面を力任せに引っ掻く。

 剥離(ビリリッ)

 日焼けして浮き上がった人間の背中の皮を、無理やり剥ぎ取るような、ひどく湿った摩擦音が車内に響く。 路線図に印字されていた黒いインクが、彼女の爪の間に「垢」のようにねっとりと詰まり、指先をどす黒く汚していく。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 私は、彼女の狂乱を止めることもせず、ただ薄目を細めて観察していた。 彼女が恐怖に支配され、不潔な壁を這いずり回れば回るほど都合が良かった。 彼女が完全に壊れてくれれば、あの病室で暴かれた自分自身の罪の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰される。 他者の無様な姿を見下ろすことで、自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいという、極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。

 私の視神経から、冷たい泥水が直接流れ込んでくる。 胃壁が力任せに雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、鉄錆の味を伴った酸っぱい液体が食道を逆流する。 大きく顎をずらし、過剰な唾液(だえき)と共にそれを無理やり飲み下す。

 壁の上の、汚物の羅列。しかし。

『――次ハ、黄泉平坂よもつひらさか――』

 視界に映る蠢く死骸の群れが、網膜の裏側で強制的に配列を組み替える。 頭蓋骨の内側に、日本語の音素が物理的な圧力を持って張り付く。

『――消化ノ為ノ……停車――』

「私」の呼吸が、肺の入り口でピタリと止まった。

 口を半開きにしたまま、瞬きが停止する。 警官が爪を立てているその汚物の模様。 網膜の裏側でチカチカと白い光が明滅し、眼球の奥で微小な火花が弾ける。 私の脳の毛細血管が、あの顔のない肉袋たちと同じ脈動で拍動を始める。 上下の歯が激しくぶつかり合い、カチガチと硬質な音を立て続ける。

 ポタリ。

 天井から落ちた黄色い粘液(ねんえき)が、「私」の頬に命中した。 微かな酸の刺激臭と、三十七度前後の生温かい体温。 「私」はそれを拭おうともせず、床に伏せたまま、右手のポケットの奥底へ指を押し込んだ。

 熱傷(チリチリ)

 石札が爆発的な熱を発し、掌の皮膚を焼き焦がしている。 融けた皮下脂肪が沸騰する臭いが、車内のカビの臭いを強引に上書きしていく。 焼け焦げる肉の激痛(ペイン)。 痛覚のパルスが脳髄の表面を直接削る。

 この熱と激痛に耐えているからといって、私が状況に立ち向ているわけではない。 自らの肉体を自傷の炎で焼いていれば、自分が犯した罪の清算を終わらせた気になり、これ以上誰からも追及されずに済むという、浅ましい逃避行動にすぎない。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、鉄錆の臭いが混ざる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 三十七度の微熱がこもる空間に、ただ肉が焦げる臭いと、プラスチックの反復音だけが充満していた。


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