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――第 025 幕 破綻の反復――

 深夜四時十分。 ゼリー状に澱んだ空気は、底なしの泥沼のように重く肺の奥底にへばりつき、気管支をヒューヒューと細かく引き攣らせている。 天井の端に並んだ赤い非常灯が、不規則な周期で光を落とす。 ドス黒い赤色が空間を舐め回すたび、座席に深く沈み込む肉袋たちの丸い影がデタラメな方向へ伸び縮みし、息を吸い込むための胸郭の余白を物理的に削り取ってくる。 腐った獣脂の甘ったるい匂いと、床にぶちまけられた酸っぱい嘔吐物(おうとぶつ)の臭いが分厚い層を作って混ざり合い、鼻腔の粘膜(ねんまく)にべっとりとこびりついて取れない。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 ドンッ、ドンッ。

 数メートル先で、鈍い衝撃音が連続して響いた。 金髪の男が、ゴム底の靴で、真っ黒に塗りつぶされた窓ガラスを力任せに蹴りつけている。 ガラスの表面に硬さはなく、三十七度前後の生温かい微熱と水風船のような弾力を持って、彼の靴底を「ボヨリ」と押し返す。 ヒビ一つ入らない。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「痛ぇ。痛ぇよな。……痛い、痛い、痛い」

 男の眼球が眼窩の中で小刻みに震え、視界の端が白くチカチカと明滅を始める。 彼は震える右手で、自分自身の頬を全力で殴り始めた。

 打撃(ビチャッ、ビチャッ)

 彼自身の顔面から滲み出た冷たい体液と、指先にこびりついた黄色い消化液(ペプシン)が、頬を叩くたびにひどく湿った水音を立てる。 頬の肉が赤く腫れ上がり、口の端から切れた粘膜(ねんまく)の血がドロリと滲み出す。 彼は自分を殴る手を止めない。

 ビチャッ。ビチャッ。

 ただその肉の衝突音だけが反復される。 彼の行動は自罰による精神の救済なのか、それとも……いや、違う。 なんだろう。どうでもいい。 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 その後方の暗がり。 ヨレたカーディガンを着た痩せ型の男が、四つん這いになって床のカーペットを這いずり回っていた。 彼は、水分を含んでブヨブヨに膨張したアクリル繊維の中から、粉々に砕けた銀色の破片を、震える指で一つ一つ拾い集めている。 「酸素、濃度……二酸化炭素……」 男は、口の端から透明な唾液(だえき)を垂らしながら、ブツブツと早口で音素の断片を吐き出していた。 拾い集めた破片を握りしめ、開かない窓のアルミ枠に自らの爪を立てる。

 摩擦(ガリガリガリ)

 乾燥した爪が金属を引っ掻く、極めて高い周波数の波が空間のゼリーを切り裂く。 爪の間から生温かい血が滲み、アルミの枠に赤い筋を残す。 それでも、彼の指は止まらない。

 ガリガリガリ。

 自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。 カリッ、カリッ。 爪が皮膚を削る振動が骨を伝う。 通路を挟んだ向かい側。 紺色のパンツスーツを着た女が、床の濡れたカーペットにへたり込んでいた。 乱れた髪が額に張り付き、彼女は乾燥してささくれた唇の皮を、血が滲むほど執拗に犬歯で噛みちぎっている。 「どこよ。カメラ……隠し、カメラ……」

『たすけて』

 その音波が、ゼリー状の空気を震わせる直前。

 嚥下(ゴクリ)

 彼女の喉の奥の筋肉が激しく引き攣り、気管から漏れそうになった呼気が胃の底へと押し戻された。 乾いた嚥下音(えんげおん)だけが鳴る。 酸っぱい嘔吐物(おうとぶつ)の臭いが立ち上り、気管支がヒクッと痙攣(けいれん)する。 なぜ、彼らは一様に無意味な反復行動に陥っているのか。 私は彼らに声をかけ、この集団的狂気から引き戻すための論理的な対話を試みるべきなのだろう。 だが、足元から絶え間なく立ち上る酸っぱい嘔吐物(おうとぶつ)の臭いと獣脂の腐敗臭(ふはいしゅう)が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 臭気が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 「私」は、右手のポケットの底へ指を押し込んでいた。

 熱傷(チリチリ)

 佐渡赤玉石(さどあかだまいし)の札が、皮膚をチリチリと焼くほどの熱を発し続けている。 融けた皮下脂肪が沸騰する臭いが、車内の嘔吐物(おうとぶつ)と獣脂の臭いを強引に上書きしていく。 耳の奥で、自分自身の心臓の拍動が、「ドクン、ドクン」と、分厚い水槽の底から響くように重く反響している。 左手でパジャマのボタンを弾く。

 カチッ。カチッ。

 私は恐怖から彼らを助けないのではない。 ただ、彼らが完全に狂って理性を手放し、この不潔な空間で惨めに壊れていく様を観察することで、他者を見下ろしている自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだという錯覚にすがりつきたいだけなのだ。 彼らが異常であればあるほど、あの病室で暴かれた私自身の罪悪感から目を背けられる。 自らの掌を焼く痛みに没頭していれば、これ以上誰からも過去の罪を追及されずに済む。 そんな極めて卑小で醜い自己保身の欲求が、彼らに手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。 三十七度の生温かい微熱がこもる空気の中で、ただそれぞれの肉が反復動作を繰り返す擦れ音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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