――第 023 幕 録音された奈落――
天井の非常灯が、チリッと微細な電気音を立てて光量を落とした。 どす黒い赤。 内出血を起こした血管の裏側に閉じ込められたような暗赤色が、ゼリー状に澱んだ空気を重く染め上げる。
それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。 どうでもいい。 この不潔な極彩色の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
大きく顎の関節をずらし、過剰な唾液をゴクリと飲み下す。
エアコンの吹き出し口は完全に沈黙し、天井のプラスチックの継ぎ目から、黄色い粘液が滲み出していた。
ポタリ。ポタリ。
水分を過剰に含んだカーペットに落ちる粘着質な水音。 腐った獣脂の甘ったるい臭いと青カビの臭いが、分厚い層を作って肺の底にドロリと沈殿する。 息を吸い込むたび、気管支の壁にその臭気がべっとりと張り付き、細かい砂利が蓄積していく。 左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「……マッセン・エアハルトゥングス・ゲゼッツ。エネルギー保存則……」 壁際で、ヨレたカーディガンを着た痩せ型の男の気管支から、ヒューッ、ヒューッと浅い摩擦音が漏れ続けている。 割れかけた銀縁眼鏡のレンズは、彼の額から絶え間なく滲み出る生温かい水分と、車内の高密度な結露によって完全に白濁していた。
目の前の床で、重い回転式拳銃がただの生首のように弾かれ、脈打っている。 男の眼球が眼窩の中で小刻みに震え、視界の端が白くチカチカと明滅を繰り返す。 口から酸っぱい唾液の泡を飛ばしながら、単語の羅列を吐き出す。 自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、ガリッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 彼は、震える両手で銀色の機械を握りしめ、親指の爪が白く変色するほどの力で、ボタンを押し込んだ。
駆動。
液晶ディスプレイのデジタル数字のセグメントが、ドロドロの液状に溶け出す。
『死死死死死死』
真っ黒な画面の裏側に赤黒い漢字の羅列が敷き詰められ、脈を打つようにチカチカと点滅する。 スピーカーから、音が吐き出された。
咀嚼。
泥の中で無数の羽虫が濡れた肉を食い破るような摩擦音。 それに重なって、「ゴボッ、ゴボボボ」と、深い水底で気泡が弾ける破裂音が響く。
「……助けて。痛い。溶ける、溶けるゥッ!」
未知の激痛に喉の粘膜を焼かれ、声帯をすり潰しながら絞り出したような、ひどく掠れた摩擦音。 男は裏声を上げ、ボタンを乱暴に連打する。
カチ、カチ、カチ。
だが、機械の隙間から滲み出した黄色い体液が、内部の基盤の奥でベットリと絡みついている。 指を離しても、絶叫は止まらない。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ。
スピーカーから流れる音声の背景に、「ドクン、ドクン」という重く粘り気のある心拍音が混ざり始めた。
なぜ、私は彼のこの無意味な自傷行為と暴走を止めないのか。 彼の手からあの機械を奪い取り、論理的に状況を整理すべきだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った獣脂と青カビの混合臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線がドロドロに溶け落ちていく。 私は、ただ床に這いつくばって彼の怯える姿を横目で見下ろしていた。 恐怖で動けないのではない。 彼が完全に狂って理性を失ってくれれば、他人の異常な姿を観察している自分だけはまだ「正常な側の人間」なのだと錯覚できるからだ。 彼が壊れれば壊れるほど、あの不潔な病室で暴かれた自分自身の罪悪感から目を背けることができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べるエネルギーを根こそぎ奪い去っていく。
男は、その銀色の機械を両手で掴み、自分自身の右耳に強く押し当てる。
吸着。
硬いプラスチックの筐体が、三十七度前後の生温かさと、水分を過剰に含んだ分厚い肉のような弾力を持った。 スピーカーの網目から分泌された獣脂のような油分が、男の耳介にヌルリと吸い付く。 耳の奥底へ、機械の心臓の音が直接ねじ込まれる。 男の全身の毛穴が一斉に収縮し、ドロリとした冷たい体液が分泌される。 手首の関節を軋ませて機械を引き剥がす。
剥離。
耳から機械が離れる際、吸盤を無理やり剥がしたような湿った水音が鳴る。 引き離されたスピーカー部分には、墨汁のような黒い粘液がベットリと付着し、酸っぱい排泄物の臭いの糸を引いていた。 銀色の塊が、水分を含んだカーペットの上にドサリと落ちる。
画面の『死』の文字は消えず、そこから漏れる「ギチチ……」という音が、腐肉の臭いが充満する車内に反響し続ける。
「私」は、床に這いつくばったまま、右手のポケットの奥底へ指を押し込んでいた。
熱傷。
佐渡赤玉石の札が爆発的な熱を発し、掌の皮膚を焼き焦がす。 融けた皮下脂肪が沸騰する臭いが、車内のカビと腐肉の臭いを上書きしていく。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。
ジワリと血が滲み、鉄錆の臭いが混ざる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ。
三十七度の微熱の中で、ただその反復音と、肉が焦げる臭いだけが充満していた。




