――第 137 幕 同化の安らぎ――
ザッ、ザッ、ザッ。
無数の革靴が、白く粉を吹いたコンクリートの床を削り取る摩擦音が響く。 インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
右肩の関節からミシミシと軟骨が擦れる音が鳴り、背中から生温かい体温がのしかかる。 革ベルトが手に食い込む。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
ベルトの先で、二つの肉の塊が歩いている。 瞳孔は散大し、明滅する青白い光を反射している。 背中に張り付いた男の浅い呼吸音が耳元を撫でる。 ウール生地が擦れ合う「カサカサ」というノイズが、空間の水分を奪い取る。 「私」は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
目の前のグレーのスーツの踵が、床から離れる。 サイズの合わない革靴が、その座標に寸分違わず着地する。 無数の靴底が床を叩く振動。 空気の圧縮と膨張が、肋骨を外側から押し広げ、気管支に乾燥した空気を押し込む。 カビの臭気が鼻腔を塞ぐ。
なぜ私は、この狂った首なしの行列にこれほどまで完全に同調し、彼らと同じ歩幅で歩き続けているのか。 その心理的退行と肉体の反射プロセスを論理的に分析し、直ちに自我を取り戻すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく酸化したインクの酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、背中の男やベルトの先の彼らを導き、安全な場所へ脱出するために歩みを進めているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、この終わらない行進の中で自らの意志を完全に放棄し、ただ前の背中と同じ動きを反復するだけの空っぽの『部品』になり下がることで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭を相対的に曖昧に塗り潰していたかっただけだ。 彼らという重荷を引きずり、機械的に歩を刻めば刻むほど、自分だけはまだ「正常で、ただ過酷な環境に耐えているだけの被害者」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この行列から外れて自らの足で立とうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この胃酸の逆流と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
首の角度が、斜め下四十五度へと傾き、固定される。 背中が丸まり、歩幅が数センチ縮む。 透明な唾液がポタリと零れ落ち、床の白く粉を吹いたコンクリートに黒い染みを作った。
インクの酸っぱい臭いとカビた紙の悪臭がこもる空間に、ただ無数の足音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




