――第 135 幕 廃人たちの荷物――
駅のコンコース。 白く粉を吹いたタイルの上を、無数の革靴が同じリズムで削り取っていく。 首のないグレーのスーツの群れが、分厚いウールの壁となって四方を塞いでいる。 腹の裂け目から漏れ出す「ブツブツ」という極めて低い周波数のノイズが、空気をビリビリと震わせる。 酸化したインクの酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「私」は、ズボンから引き抜いた革ベルトを、紺色のスーツの女の骨張った右手首に巻き付けた。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ベルトの端を、四つん這いになってタイルの目地をなぞり続けている男の左腕へ回し、金属のバックルを通して縛り上げる。 骨膜が軋む鈍い音が鳴る。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
女のパンプスの爪先が、タイルの段差に引っかかった。 彼女は、そのまま前のめりに傾き、硬いコンクリートの床に、膝と顔面が激突した。
ゴンッ。
張り詰めた革ベルトが、倒れた彼女の身体をそのまま前方へ引きずっていく。
摩擦。
片方のパンプスが脱げて転がった。 タイルの表面が、ストッキングの繊維を引き裂き、皮膚を削り取っていく。 赤い真皮が覗き、血の筋が白い床に引かれる。 彼女は濁った眼球で虚空を見つめ、「……逮捕」という単語の残骸を、血の混じった唾液と共に吐き出し続けている。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
紺色のスーツが床の埃を吸い込み、白く変色していく。 胸元のプラスチックボタンがタイルの目地に引っかかり、「パチン」と弾け飛んで無数の革靴の下へ消えた。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
なぜ私は、完全に機能不全に陥った彼らを切り捨てず、物理的な重荷として引きずり続けているのか。 その疲労対効果を論理的に分析し、直ちにベルトを切り離すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼らを見捨てないことで自らの人間性を証明しようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、かつて私を裁こうとした彼女や知性を誇った彼が、自らの足で歩くことすらできず、私の引くベルトに繋がれて床の汚れを啜る無様な荷物へと成り下がる様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が尊厳を完全に喪失し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが惨めであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、彼らの命を牽引する側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この重荷を切り離すという合理的な選択を根こそぎ奪い去っていくのだ。
「……へっ、様にならねえな」 背中の金髪の男から、空気が漏れる音が鳴る。 彼の顎から生温かい液体が滴り、「私」の首筋を濡らす。 古い皮脂と酸っぱい汗の臭気が、カビた紙の臭いと衝突する。 「私」の右肩の関節が、三人分の重みと摩擦抵抗で「メキッ」と軋む。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と重みに没頭していれば、自分が加害者ではなく、他者を背負う無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
右の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が膨張する。
インクの酸っぱい臭いと古い汗の悪臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、骨が擦れる音だけが充満し続けていた。




