――第 134 幕 狂人の法廷――
背中の男の喉から弾け飛んだ血の混じった飛沫と、摩擦音が空気を震わせる。 密集していたグレーのスーツの壁に、数センチの細い亀裂が走る。 「私」は軋む膝の痛みに耐え、前傾姿勢のまま、その隙間へ強引に身体をねじ込んだ。 酸化したインクの酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
すり鉢状になった広大なコンコースの中心。 頭上の遥か高みから、「灰色の光」が、円形に切り取られて床のタイルに落ちている。 その光の円を取り囲むように、何万という首なしの男たちが幾重にも重なって見下ろしている。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
そのスポットライトの中心に、泥にまみれた紺色のスーツと、酸でボロボロになった白衣が転がっていた。
「……第百三十二条、違う、私は手順を、あの時……ッ!」
紺色のスーツを着た女が、乾燥してひび割れたコンクリートの床を、自らの爪が根本から剥がれるまで掻きむしっている。 彼女は自らの髪を根元から引き抜き、枯れ果てた右腕をデタラメに振り回す。 彼女の口の端から透明な唾液がツーと垂れ、泥で汚れたブラウスにシミを作る。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
アンモニアの臭いが立ち上る。
数メートル離れた場所では、ヨレたカーディガンを着た男が四つん這いになっている。
「四百十二、四百十三……素数が、いや、目地の幅が……」
彼は床のタイルの線を、毛細血管が破裂して真っ赤に染まった眼球で、数ミリの狂いもなく辿り続けている。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 二人の喉から漏れる「ヒュー、ヒュー」という浅い喘鳴と、「ブツブツ」という単語の羅列が、アンモニアの悪臭と共にコンコースの底に澱んでいる。
なぜ彼らはこの広大なスポットライトの中で無様に狂態を晒し、周囲の亡者たちから無言の裁きを受けているのか。 その心理的崩壊のメカニズムを論理的に分析し、直ちに彼らをこの包囲網から救い出すルートを構築すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとアンモニアの強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼らを助けるために群衆の隙間から救出の機会をうかがっているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、かつて法と知性を盾にしていた彼らが、無数の亡者たちに見下ろされて完全に理性を手放し、汚物に塗れて狂っていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が社会的な尊厳を完全に喪失し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが愚かであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、裁く側に立つ人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らに手を差し伸べようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と空気の乾燥に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
異常に乾燥した冷たい空気が、「私」の欠けた奥歯の穴を通り抜け、微かな風切り音を鳴らしていた。 インクの酸っぱい臭いとアンモニアの悪臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、爪が皮膚を削る音だけが充満し続けていた。




