――第 133 幕 野良犬の仁義――
背中に、重く湿った肉と骨の塊が乗っている。 「私」の膝の軟骨が擦れ合い、「バキッ」と乾いた音を立てた。 腰椎の隙間がミシミシと潰される痛みが、背骨を伝って延髄を直接突き上げる。 ひび割れたコンクリートの床に、サイズの合わない革靴を踏みしめる。 足元には、誰かの靴底から剥がれた黒いガムの跡と、赤黒い泥の染みがこびりついていた。 視界の先を、無数のグレーの壁が埋め尽くしている。
酸化したインクの酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、肺の奥の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
ザッ、ザッ、ザッ。
首のない男たちが、寸分の狂いもない同じ歩幅でコンコースを行進している。 彼らのスーツの布地が擦れ合う「カサ、カサカサ」という異常乾燥した摩擦音が、耳の穴を塞ぐ。 カビた紙の悪臭が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
首筋に、生温かい他人の体液が付着する。 古い汗と鉄錆の臭いがコンクリートの冷気と混ざり合う。 「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
背中の男は、自身の泥だらけのスカジャンの袖を、振り下ろした。 スカジャンの袖口にある硬い刺繍の糸が、「私」の額の皮膚の表面の角質を、ガリガリと削り取る。
摩擦。
「前だけ見てろ、ボケ」 耳元で、荒い息遣いが「ヒュー、ヒュー」と鳴っている。 男は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
粉砕骨折した右足がぶらんと揺れ、折れた骨の断面が擦れ合う「ゴリッ」という振動が、「私」の太腿に直接伝わってくる。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。
なぜ、私はこの重く汚れた男を背負い続けているのか。 彼の数十キロの質量を論理的に分析し、最も効率的な生存ルートを確保するために、直ちに彼を床へ降ろすべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく酸化したインクの酸っぱい臭いと古い汗の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼を哀れみ、純粋な救済の意志から背中を差し出しているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、この醜く骨を砕かれた彼の物理的な重みを背負い、彼が血と泥に塗れて「私」にすがりつく様を実感することで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭を相対的に曖昧に塗り潰していたかっただけだ。 彼が弱く惨めに私に依存すればするほど、自分だけはまだ「正常で、他者を救済する側の人道的な人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼を置き去りにするという合理的な選択を根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」は、右の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石の微熱を感じる。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、インクとカビの臭気に衝突する。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
この冷徹な物理的激痛と背中の重みに没頭していれば、自分が加害者ではなく、過酷な状況に耐える無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
「私」は泥と血に汚れた革靴を、開かれた数センチの亀裂の中へねじ込んだ。 ザッ、ザッ、という無数の革靴の行進音に混じって、背中の男が、喉から血の泡を吹きながら遠吠えを上げ続けていた。
インクの酸っぱい臭いと古い汗の悪臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、骨が擦れる音だけが充満し続けていた。




