――第 132 幕 背中の重み――
ザッ、ザッ、ザッ。 乾燥しきったコンクリートの床を削り取っていた無数の革靴の摩擦音が、途切れる。 酸化したインクの酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
コンクリートの冷気が足元から這い上がる。 血と腐葉土が混ざった赤黒い水たまりの中心で、泥にまみれたスカジャンの背中が微かに上下している。 右足のスネから、白く尖った脛骨の断面が外気へ露出している。 黒い泥と硬化したガムの残骸で汚れきり、元の金髪は赤黒い汚泥に染まりきっている。
ズリッ。ズズッ。
男は、上半身だけで這いずろうとしている。 爪の割れた指先で、白く粉を吹いたコンクリートの床を掻きむしる。 千切れた右足が引きずられ、折れた骨の断面が床と擦れる。
ゴリリッ。
骨がコンクリートを削る微小な振動が、空気を震わせ、「私」の足の裏から脛の骨へと直接伝播する。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 カビた紙の悪臭が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
「私」は、サイズの合わない革靴を水たまりに沈め、彼の目の前に立った。 欠けた右下の奥歯の穴から湧き出す、生温かい血の味を飲み込む。 男の喉から、濁った排気音が漏れる。 彼の眼球の毛細血管が充血し、瞳孔が激しく痙攣している。 口の端から粘り気のある透明な液体が垂れ落ち、水たまりに波紋を作る。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
「黙って捕まってろ」 「私」の喉から、砂を噛んだような乾いた摩擦音が漏れた。 「舌を噛むぞ」
なぜ、この足を砕かれた彼を背負うのか。 彼の重傷を論理的に分析し、最も効率的な運搬方法を探るべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼を哀れみ、純粋な救済の意志から背中を差し出しているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、この醜く骨を砕かれた彼の数十キロの物理的な重みを背負うことで、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭を相対的に曖昧に塗り潰していたかっただけだ。 彼が血と泥に塗れて私にすがりつけばすがりつくほど、自分だけはまだ「正常で、他者を救済する側の人道的な人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼を置き去りにするという合理的な選択を根こそぎ奪い去っていくのだ。
背中の男が、震える両腕で「私」のコートの生地を、強く握りしめる。 指の関節が背中に食い込む物理的な圧迫感。 男の顔からこぼれ落ちた生温かい液体が、「私」の背中を伝い落ちる。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この生温かい他者の血と痛みを背負う物理的な負荷に没頭していれば、自分が加害者ではなく、過酷な状況に耐える無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
右手の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、インクとカビの臭気と衝突する。 「私」は、血と泥で汚れた革靴を上げ、再び、乾燥したウール生地が擦れ合う「カサカサ」というノイズが渦巻く灰色の壁の中へと、重い一歩を踏み出した。
インクの酸っぱい臭いと腐葉土の生臭さがこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、骨が擦れる音だけが充満し続けていた。




