――第 131 幕 噛み砕かれた足――
グレーのスーツの波が、極度に乾燥したコンクリートの床を削る。
ザッ、ザッ、ザッ。
インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、肺の奥の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
目の前のスカジャンの背中が、上下する。 バタフライナイフを握る右手が微細に跳ねる。
ミシッ。
硬い木の枝をへし折るような乾いた音が響く。 金髪の男の右足の脛の中ほどから、白く尖った骨の断面がズボンの生地を突き破って外界へ露出する。 千切れた筋肉の繊維の隙間から、どす黒い血が噴き出す。 ひび割れたコンクリートの床に、血と腐葉土の混ざった赤黒い水たまりが広がる。 古い血の鉄錆臭が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
「ア゛、ガッ……!」
男の口から濁った摩擦音が漏れる。 彼の体が、自らが流した血と泥の混ざる水たまりの中へ、顔面から突っ込んだ。 黄色い汚水が跳ね、「私」のズボンの裾を濡らす。
首なしの群集の革靴が、男の体を踏み越えていく。 黒い革靴のヒールが、泥に沈んだ男の頬骨に激突する。 靴底の溝にこびりついた黒い泥と硬化したガムの残骸が、口元へ押し付けられる。 開いた口の隙間に、腐葉土と鉄錆の味を持った汚泥が入り込む。
「ガハッ……、ヒューッ」
男の肺から空気が押し出され、気管支から笛の音が漏れる。 砂利が歯の間に挟まり、ギリギリと擦れる音が骨を伝う。 別の革靴が、ズボンから突き出た右足の白い骨の断面を、上から直接踏み荒らす。
神経が剥き出しになった傷口を、硬いゴム底がすり潰す。 血の泡が口の端から吹き出す。 男は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が頭蓋骨を揺らす。 上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
なぜこの異常な行進の中で、彼が首なしの群衆に踏み躙られていくのをただ見過ごしているのか。 この不条理な物理法則と彼の負傷を論理的に分析し、直ちに彼を安全な場所へ引きずり出すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、倒れた彼を助けるために手を伸ばそうとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼が不条理な暴力に蹂躙され、骨を砕かれて泥水を啜り、無様に這いつくばる様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が尊厳を完全に失い、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼が血と泥に塗れて悲惨であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、踏みつけられない側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
男は、上半身だけで床のコンクリートを掻きむしり、「私」の革靴へと血まみれの左手を伸ばしてきた。 指の皮が剥け、爪が割れた手が、「私」の足首を掴もうと宙を這う。 彼の折れた足から噴き出す血が波紋を広げ、「私」のサイズの合わない革靴のつま先をドス黒く濡らす。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
右手の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと肉を焦がす微熱を放っている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、インクとカビの臭気と衝突する。
インクの酸っぱい臭いと鉄錆の生臭さがこもる空間に、ただ革靴が骨を踏み砕く音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




