――第 130 幕 剥がれる壁と熱――
壁の表面が、ペリペリと乾いた音を立てて剥がれ落ちる。 腰に絡みついていた泥の重量が消え、サイズの合わない革靴の底から、粉を吹いた硬いコンクリートの冷気が神経を直接冷やす。 欠けた右下の奥歯の隙間から、どす黒い血が湧き出し、舌の粘膜にこびりついていた腐葉土を洗い流す。 鉄錆の生温かい味が広がる。 酸化したインクの酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、肺の奥底にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
目の前に、薄汚れたスカジャンの背中がある。 右手にバタフライナイフを下げた金髪の男が、少し前屈みの姿勢で立ちはだかっている。 彼の足元から、古い皮脂の悪臭と、血の臭いが立ち上る。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
「ぐ、ぅ、オォォォッ!」
男の口から濁った排気音が押し出される。 唾液と血が混ざった糸が切れ、コンクリートの床にドス黒い染みを作る。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼の肩の筋肉が不規則に跳ねる。 カビた紙の匂いが鼻腔を塞ぐ。
なぜ泥の空間が突如としてコンクリートへと変質し、彼が目に見えない何かに押し潰されようとしているのか。 その不条理な物理法則を論理的に分析し、彼を救う手立てを考えるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく酸化したインクの酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。 欠けた奥歯の穴から流れる血を飲み込みながら、石札と完全に癒着した右手を微かに持ち上げる。 ミシミシと押し潰されゆく男の背中から、極端に高い体温が空間を歪ませて伝わってくる。 男の毛穴から噴き出す酸っぱい汗の悪臭が、カビた紙の匂いと衝突する。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
私は、彼が一人で不可視の重圧に耐えかねているのを見かねて、共にその負荷を背負おうと手を伸ばしかけたのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼が不条理な暴力に押し潰され、醜く汗と血を流して無様に苦しむ背中の後ろで、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 彼が盾となり、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼が防波堤として苦しめば苦しむほど、自分だけはまだ「守られるべき被害者であり、安全な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
この冷徹な物理的激痛と口の中の鉄錆の味に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
インクの酸っぱい臭いと古い汗の悪臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、爪が皮膚を削る音だけが充満し続けていた。




