――第 129 幕 泥を払う手――
腐葉土と排泄物が混ざった冷たいペーストが、腰の高さまで絡みつく。 右足首を掴む誰かの指先から、絶対零度の冷気が這い上がる。 皮膚の表面の水分が急速に凍りつき、毛細血管が次々と破裂して細かい紫色の斑点を作る。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
ちゃぶ台に置かれた茶碗から、真っ黒な泥の塊を割り箸で掬い上げ、半開きの口へと運ぶ。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 排泄物の悪臭が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
ドガッ。
右の頬骨に硬質な質量が激突する。 頭蓋骨全体が激しく揺さぶられる。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 「私」の肉体は泥の中へ吹き飛ばされた。
ガリッ。
右下の奥歯が根元から砕け散った。 エナメル質の欠片が舌の粘膜に突き刺さり、ドクドクと血が湧き出す。 生温かい鉄錆の味と腐った泥の臭いがドロドロに混ざり合う。 血と骨の欠片を、口の中の泥水ごと吐き出す。 気管支に空気がねじ込まれ、「ゴハッ」と濁った摩擦音が漏れる。
「寝ぼけてんじゃねえぞ、クソがッ!」
異常乾燥した空気を直接震わせる音波が鼓膜を叩く。 泥だらけのちゃぶ台の上に、薄汚れたスニーカーが乗っている。 金髪の男が、手に持ったバタフライナイフの金属の柄を全力で振り下ろした。
バキィッ。
水を含んで腐りきった丸太をへし折るような破壊音。 腕のシルエットが不自然な角度に折れ曲がり、黒い泥水が噴き出す。 部屋の壁紙がペリペリと剥がれ落ちる。 裏側から赤黒く錆びついた鉄板が露出し、古い機械油と酸化した鉄錆の臭いが空気を侵食する。
なぜ彼が突然私を殴りつけ、このちゃぶ台の泥を物理的に破壊したのか、その暴力の意図と空間の変質プロセスを論理的に分析し、次にとるべき行動を導き出すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく古い機械油と酸化した鉄錆の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
男は荒い息を吐きながら、泥の中に倒れ伏す「私」の襟首を掴み、上半身を引きずり起こした。
「汚ねえ面しやがって」
スカジャンの袖で、「私」の口の周りの泥を力任せに拭い取る。
ズリッ。
肌が擦り剥ける。 異常に分泌された酸っぱい汗と安いタバコのヤニ、血の臭いが鼻腔を塞ぐ。 男の左手が痙攣している。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
「……俺を」
喉仏が不規則に上下に動く。 彼は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
「俺を、置いていくな」
ひび割れた唇。 濁った瞳孔。 血走った眼球が小刻みに揺れる。
私は、彼の怯えに応え、共に生き抜こうという連帯の意志から、彼の手を握り返そうとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼の吐き出す酸っぱい汗とタバコのヤニの生々しい悪臭にすがりつき、この泥沼から私を暴力で引きずり出す「乱暴な他者」という存在を利用して、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭を相対的に曖昧に塗り潰していたかっただけだ。 彼が暴力的で下品であればあるほど、自分だけはまだ「不条理に殴られ、無理やり生かされているだけの無力な被害者」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、自らの足で立ち上がろうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。 襟首を掴む彼の腕を、泥だらけの手で握り返す。 左腕のホッチキスの針が肉を引き攣らせる。 右手の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリッと微熱を放っている。 焦げた肉の悪臭が、機械油とタバコのヤニの匂いに衝突する。
この冷徹な物理的激痛と口の中の鉄錆の味に没頭していれば、自分が加害者ではなく、他人の暴力に巻き込まれた被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
安いタバコのヤニと古い機械油の臭いがこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、爪が皮膚を削る音だけが充満し続けていた。




