――第 128 幕 触れられない温もり――
頭上から、粘着質で真っ黒なタールが絶え間なく垂れ落ちてくる。 アルコール度数が異常に高い安物の焼酎の揮発臭と、カビた畳の腐敗臭が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
重力が下へ引く。 「私」の膝の軟骨が折れ、水気を吸ってドロドロに腐敗したイグサの上に四つん這いになる。 サイズの合わない革靴のつま先が、泥濘と化した畳の表面をズリッと滑る。 大腿部の筋肉が痙攣を起こす。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 焼酎の臭気が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
この腐敗した四畳半の空間構造とタールの成分を論理的に分析し、次に来る現象に備えるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくカビた畳の腐敗臭と焼酎の揮発臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
視界の端。 タバコの紫煙と灰色の霧が入り混じる部屋の隅に、色褪せた花柄の割烹着のシルエットが浮かんでいる。 「私」の喉の奥から、泥と唾液に塗れた濁った排気音が漏れる。 首から上のパーツは、黒い霧に覆われて見えない。 左腕の、錆びたホッチキスで縫合された傷口が引きつり、ドクドクと脈を打つ。 「私」は泥だらけの畳を爪で掻きむしりながら、その白い割烹着の足元へと這いずる。 「私」は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
割烹着のシルエットがしゃがみ込み、袖から真っ白な手を伸ばしてくる。 その手から、絶対零度の冷気が這い出してくる。 皮膚の表面から急速に水分が奪われる。 足首の関節がギリリと軋む。 気管支を激しく痙攣させ、首を横に振る。 「私」は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 タバコのヤニの悪臭が鼻腔を塞ぐ。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
私は、その冷たい手にすがりつき、かつての家族の温もりと許しを乞おうとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、顔を失った彼女が私の前に現れ、私を拒絶するような絶対零度の冷気を放って無様に私を脅かしてくれる様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が過去の残滓となり、自分以上に惨めな怪物へと成り下がってくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼女が異質で恐ろしければ恐ろしいほど、自分だけはまだ「正常で、理不尽な怪異に怯える側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女の手を握ろうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
安い焼酎の揮発臭と古いタバコの紫煙がこもる空間に、ただタールが畳を焦がす音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




