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――第 127 幕 父のスーツ――

「パァンッ!」という破裂音が響く。 カビた畳の臭いが膨張(ぼうちょう)する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。 頭上の丸型蛍光灯が「ジジッ……ジジジッ」と羽虫が焼けるような音を立てて明滅する。 青白い閃光が落ちる。 四畳半の空間と、ステンレスの壁が、網膜の上で重なり合ってブレる。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。

 目の前に立っているのは、グレーのウールスーツに、毛玉だらけの茶色いカーディガンを着込んだ首なしの男だ。 袖口は擦り切れ、細い糸が何本も垂れ下がっている。 胸元には、赤茶けたコーヒーのシミ。 安物の整髪料と、カビた線香の臭い、安い焼酎の揮発臭が鼻腔を塞ぐ。 胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 男の首の断面から、粘着質で真っ黒なタールが絶え間なく垂れ落ちる。 タールがカビた畳表に直撃し、「ジュッ」とイグサの繊維が黒く焦げ、酸っぱい煙が上がる。 安い焼酎の揮発臭と、タバコのヤニ、防虫剤のツンとする臭気が膨張(ぼうちょう)する。

 なぜ、私はこの首のない男を前にして、空間の歪みやタールの成分を論理的に分析し、脱出の糸口を探そうとしないのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく安い焼酎の揮発臭とカビた線香の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気(ガス)が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 大腿部の筋肉が硬直する。 「私」は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

「……ごめんなさい。……ごめんなさい」 泥にまみれた唇から、摩擦音が漏れる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 私は、彼に対する純粋な贖罪のために、反射的に謝罪の言葉を口にしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、無意味な謝罪を反復して見せることで、彼がタールを垂れ流し続ける異様な怪物として私の前に立ち塞がっているという状況に、自らを「怯える被害者」として置きたかっただけだ。 彼が不気味で理不尽であればあるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼が怪物であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、脅かされる側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この状況に抗おうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

 左腕のホッチキスで縫合された傷口が脈打ち、熱を発する。 右手の掌で、完全に癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)が、チリチリと微熱を放っている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、カビた畳と焼酎の臭気に衝突する。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。

 男は首の断面からタールを垂れ流し続ける。

 カビた畳の臭いと安い焼酎の揮発臭がこもる空間に、ただタールが畳を焦がす音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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