――第 124 幕 霧の侵入――
白く粉を吹いたコンクリートの床。
助手の鼻から、粘り気のある透明な粘液がツーッと細く垂れ下がる。 砕けたボイスレコーダーの銀色のプラスチックの残骸と、緑色の基盤から外れた極細の金属のバネ。 それが彼の震える指先でデタラメに弄られ、ぶつかり合う。
カチャ、カチャ。
極度に乾燥したコンコースの空気を震わせる、ひどく乾いた音が鳴る。 インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭いが、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。
「私」は左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマの第一ボタンを左手の指先で弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
石札が完全に癒着した右手で、自らの口を強引に塞ぐ。
密着。
真っ黒に炭化した肉と、融けた皮下脂肪の混ざった右の掌が、両唇に力任せに押し付けられる。 焼け焦げた肉の痛覚が、顔面の神経を直接ヤスリで削る。
痛い。
だが、この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、不条理な霧に襲われた無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
焦げた肉の香ばしい悪臭が、唐突に漂ってきた鰹出汁の効いた味噌汁の匂いと、鼻腔の奥で激しく衝突する。 「私」は、自らの口を塞いだまま、自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 ボタンを弾く。
カチッ。
なぜ、この乾燥した地下のコンコースで、生活の象徴である温かい味噌汁の匂いと、雨に濡れた土の匂いが立ち込めてくるのか。 その異常な空間の変質と嗅覚のバグを論理的に分析し、次に来る現象を予測すべきなのだろう。
だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく味噌汁の匂いと、焦げた肉の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この生温かくて不快な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
白く冷たい霧が、どこからともなく足元を這い上がり、「私」の足首を包み込み始めた。 ドライアイスの白煙のように重く、絶対零度の冷気を伴った霧。 それが、靴下を透過し、皮膚の毛穴から直接、血管の中へと侵入してくる。
冷却。
白く冷たい霧が、血管を通って全身を巡る。 血液が急速に温度を奪われ、ドロリとした重い泥水へと変質していくような錯覚。 視神経が点滅し、視界の端が白くチカチカと明滅する。
鼓膜の奥で、数千匹の羽虫が硬い羽を擦り合わせるような高周波が、デタラメに乱反射する。
キィィィィィン……。
私は、この足元から這い上がる異常な霧から逃れ、生き延びるために口を塞いでいるのだろうか。 いや、本当は違う。
私はただ、この懐かしくも不潔な味噌汁の匂いと雨の匂いが、あのちゃぶ台の惨劇の記憶を暴き立てるのを恐れ、自らの呼吸を物理的に遮断してでも過去から目を背けたかっただけだ。
視界が霧に覆われ、周囲の狂人たちすら見えなくなってしまえば、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が、真っ白な闇の中に相対的に曖昧に塗り潰されていく。
自分がただ過去の亡霊に怯え、口を塞ぐだけの哀れな肉塊であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、守られるべき被害者」なのだという錯覚にすがりつくことができる。
そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この霧の中から逃れようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「ウウッ……」
口を塞いだ掌の奥から、濁った排気音が漏れる。 指の隙間から、赤い血と唾液が混ざった液体がツーッと垂れ下がる。
雨に濡れた土の匂いと、焦げた畳の悪臭。 そして味噌汁の匂いが、濃密な冷気となってコンコースを満たしていく。
雨に濡れた土の匂いと焦げた畳の悪臭がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、爪が皮膚を削る音だけが充満し続けていた。




