↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

124/186

――第 123 幕 記録の停止――

 助手の周囲だけ、空間を構成する大気の密度が歪む。

 ザッ、ザッという無数の革靴がコンクリートを削る硬質な足音が、極端に輪郭をぼやけさせる。 インクが酸化した酸っぱい臭気(ガス)膨張(ぼうちょう)する。

 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 毛細血管が破裂した助手の眼球は、自らの右手に握りしめられた銀色の機器だけに固定されている。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。

 カチッ。

「……人類は、脳という欠陥構造を捨てるべきだ。この僕自身が、それを証明する」

 裂けた両唇から、血の混じった唾液(だえき)の泡と共に、日本語が押し出される。 彼はボイスレコーダーのマイク部分を、赤く腫れ上がった口元に力任せに押し当てる。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 助手の声帯の震えが止まる。 彼の視線が、レコーダーの側面にへばりついている。

 常に点滅していた赤いランプが沈黙し、黒く濁ったプラスチックと化している。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。

「……あれ?」

 彼は、録音ボタンを右手の親指で連打し始める。

「嘘だ。僕の、僕の声が……僕の、存在が……!」

 彼は両目から血の混じった涙を溢れさせ、レコーダーを硬いコンクリートの床に向かって全力で叩きつけた。

 ガシャンッ。

 銀色のプラスチック外装が砕け散り、緑色の基盤と細いバネが四方へ弾け飛ぶ。 飛び散った黒い腐敗液(ふはいえき)が、助手の革靴と、白く粉を吹いた駅の床を汚す。 助手は床に這いつくばる。

 腐敗液(ふはいえき)悪臭(におい)が鼻腔を塞ぐ。

 彼は、砕け散ったレコーダーの破片を、震える両手で拾い集め始める。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 ガリッ、メキッ。

 骨を噛む硬質な振動が空間を揺らす。

「直さなきゃ……直さなきゃ、僕が、僕が消えちゃう……」

 彼の鼻から、粘り気のある透明な鼻水がツーと垂れ下がる。 基盤の破片と外装の欠片を、無理やり組み合わせようとしている。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 指先は黒い腐敗液(ふはいえき)と自らの血で汚れる。 彼は泣き喚く。

 この機械への異様な依存と自己同一化の崩壊プロセスを論理的に分析し、彼に何らかの言葉をかけるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いと腐敗液(ふはいえき)悪臭(におい)が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不快な臭気(ガス)が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。

 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

「私」は、数メートル離れた場所から、右の掌に完全に癒着(ゆちゃく)した石札の微熱を感じながら、その姿を見下ろしている。

 私は、彼を哀れみ、救いの手を差し伸べるために見下ろしているのだろうか。 いや、本当は違う。

 私はただ、かつて知性を誇っていた彼が、自身の存在証明である機械を壊し、ただの幼児のように鼻水と涙を流して無様に壊れていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。

 他人が理性を完全に手放し、自分以上に惨めに狂ってくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。

 彼が泣き喚けば喚くほど、自分だけはまだ「正常で、冷静な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼に手を差し伸べようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

「私」の胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的痛覚(ペイン)とコンクリートの冷気に没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 コンクリートの冷気が、足元から「私」のサイズの合わない革靴を冷やしていく。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 助手の泣く摩擦音が、分厚い空気の層に吸い込まれ、耳鳴りのように薄れていく。

 新たな匂いが「私」の鼻腔を掠めた。 雨に濡れた土の匂い。 そして、鰹出汁の効いた、温かい味噌汁の匂いだった。

 インクの酸っぱい臭いとコンクリートの冷気がこもる空間に、ただプラスチックの反復音と、出汁の匂いだけが充満し続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。