――第 119 幕 インクの虫――
コンクリートの冷気が足の裏から骨を伝い、這い上がる。
周囲を隙間なく埋め尽くす、首のないグレーのスーツの壁。 極度に乾燥したウール生地が擦れ合うノイズが、インクが酸化した酸っぱい臭いと混ざり合う。
腹の裂け目から絶え間なく吐き出される「ブツブツ」という低周波が、空気を震わせる。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
「……あ」
前方で、ヨレたカーディガンを着た助手が、自身の革カバンから取り出したA4サイズのキャンパスノートを両手で持ったまま、硬直している。 ノートの表面に印刷された黒い罫線。 その線が、乾燥した空気に触れた途端にウネウネと波打ち、無数の「黒い虫」となって紙面から這い出してきた。
「私」の視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
黒い斑点の群れが、網膜の裏側へと潜り込む。
「あ……!」
助手はメモ帳を落とし、両手の親指を自らの両目に押し当てる。
ゴリゴリ、と骨と眼球が擦れ合う音が頭蓋骨に響く。 彼は親指を押し当て続ける。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間を揺らす。
プチ、プチプチ。
毛細血管が千切れ、眼球の表面が真っ赤に染まる。 目尻からどす黒い血の雫が溢れ、頬を伝い、口の端へと流れ込む。 鉄錆の味が舌に広がる。
この紙面から這い出したインクの虫の異常な生態系や、それがもたらす視神経への浸食プロセスを論理的に分析し、直ちに彼の手を引き剥がして制止すべきなのだろう。
だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いと、変質したホルマリンの化学臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、自らの眼球を抉る彼の自傷行為を止めるために声をかけようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。
私はただ、知性を誇っていた彼が、得体の知れない黒い染みに怯え、自らの視覚を物理的に破壊して無様に狂っていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。
他人が理性を手放し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。
彼が狂えば狂うほど、自分だけはまだ「正常で、観察する側に立つ人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。
そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
右の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、インクとホルマリンの臭気と衝突する。
インクの酸っぱい臭いとホルマリンの悪臭がこもる空間に、ただウールが擦れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




