――第 118 幕 砕ける警棒――
空間の光の屈折が遅延し、網膜に届く映像がコマ送りのように途切れる。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
バキィッ。
コンクリートの床に、硬質な破壊音が反響した。 紺色のスーツを着た女が握りしめていた重く硬い特殊合金の塊が、斜めにへし折れ、コンクリートの床へ転がり落ちる。 乾いた音が響く。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼女の眼球は毛細血管が限界まで膨張し、赤く染まっている。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。
周囲をすり鉢状に囲むグレーのスーツたちの腹の裂け目から、腐った玉ねぎと古い胃液が混ざったような生温かい息が、一斉に吐き出される。 ウール生地が擦れ合う「カサ、カサ」というノイズが、耳の穴へ吹き込む。 彼女の頬の筋肉が痙攣し、口の端から透明な唾液が垂れ落ちる。 腐った玉ねぎの悪臭が膨張する。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 ボタンを弾く。
カチッ。
なぜ彼女の持っていた強靭なはずの合金が、何の外力も受けずに突然砕け散ったのか。 その物理的な崩壊のメカニズムを論理的に分析し、彼女の身を守る術を考えるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく腐った玉ねぎとインクの強烈な悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼女の唯一の武器が砕け散ったのを見かねて、共に抗うために手を差し伸べようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼女が頼りにしていた力を失い、無数の亡者たちに取り囲まれて無様に怯え、壊れていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が完全に無力化され、自分以上に惨めに絶望してくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼女が弱く惨めであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、冷静に傍観する側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
右の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、インクとカビの臭気と衝突する。
腐った玉ねぎの息とインクの酸っぱい臭いがこもる空間に、ただウールが擦れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




