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――第 116 幕 制服の汚れ――

 ホームの端。 赤黒く酸化した錆が浮き出た鉄柱の根元に、紺色のスーツを着た女がへたり込んでいる。 サイズの合わない革靴が、粉を吹いたコンクリートの床を踏む。 前後左右を、首から上がないグレーのスーツたちが完全に塞いでいる。 インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜(ねんまく)にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。

 カチッ、カチッ。

 プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。

 彼女は、震える手で、胸元に広がった真っ黒なインクのシミを、袖口で擦り続ける。

 摩擦(ゴシッ、ゴシッ)

 布の繊維が削れる音が鳴る。 異常に乾燥した空気の中で、黒いインクの泥は瞬時に繊維の奥深くまで染み込んでいく。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。

 ガチガチガチ。

 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 乾燥したウールの生地が擦れ合う「カサ、カサカサ」というノイズが耳の穴へ吹き込む。 インクの酸っぱい臭気が膨張(ぼうちょう)する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。

 カチッ。

 周囲を取り囲むグレーのスーツたちの腹が、一斉に「パクリ」と縦に開いた。

「……汚い」 「……だらしない」

 腹の裂け目から、黒い粉塵と共に、低い周波数のノイズが吐き出される。

「やめて……見ないで……」 警官は、汚れたブラウスのボタンを、自らの指でブチブチと引きちぎり始めた。

 破断(ブチッ)

 引きちぎられたプラスチックのボタンが、乾いたコンクリートの床に弾けて「カラン」と転がり、無数の革靴の下へ消えていく。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。

 カリッ、カリッ。

 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。

 なぜ彼女が自らの制服を引き裂き、このような自傷的な露出行為に没頭しているのか。 その心理的メカニズムを論理的に分析し、直ちに彼女の両手を引き剥がして制止すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。

 この不潔な臭気(ガス)が邪魔だ。

 気管が細かく痙攣(けいれん)し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。

 どうでもいい。

 この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。

 私は、彼女の異常な行動を止めるために声をかけようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼女が過去の権威の象徴である制服を自ら破り捨て、周囲の亡者たちから浴びせられる言葉に怯えて無様に壊れていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が社会的な尊厳を手放し、自分以上に惨めに狂ってくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼女が汚く愚かであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、服を着ている側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。

「私」の胃壁(いへき)が雑巾を絞るように激しく収縮(しゅうしゅく)し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液(だえき)をゴクリと無理やり飲み下した。

 この冷徹な物理的激痛(ペイン)と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。

 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。

 カリッ、カリッ。

 爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。

 カチッ、カチッ。

 右の掌に完全に癒着(ゆちゃく)した佐渡赤玉石(さどあかだまいし)が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。 焦げた肉の香ばしい悪臭が、カビた紙の臭気と衝突する。

 インクの酸っぱい臭いとカビた紙の悪臭がこもる空間に、ただウールが擦れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。


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