――第 115 幕 皮膚の粉塵――
コンクリートの壁の表面に、黒い脂の染みが無数に浮かび上がっている。 渦巻き状の細かい線。 インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、極度に乾燥した空気の中で濃縮され、気管支の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
摩擦。
乾燥した皮膚が削れる音。 数メートル先で、紺色のスーツを着た女が、自らの両手の指の腹を激しく擦り合わせ続けている。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
摩擦で皮が剥け、赤い血が滲む。 異常に乾燥した空気の中で、その血は瞬時にどす黒い痂皮となってこびりつく。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
彼女の濁った瞳孔に、壁を埋め尽くす黒い染みだけが映っている。 彼女の浅い呼吸のリズムが、周囲の無数の革靴が刻む「ザッ、ザッ」という硬質な打音と重なる。 ウール生地が擦れ合う「カサ、カサカサ」というノイズが耳の穴へ吹き込む。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
なぜ彼女が自らの皮膚を削り落とすような自傷行為に没頭しているのか、その心理的メカニズムを論理的に分析し、直ちに彼女の両手を引き剥がして制止すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼女の異常な行動を止めるために声をかけようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼女が過去の残滓に怯え、自らの皮膚を削り落として無様に壊れていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が尊厳を手放し、自分以上に惨めに狂ってくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼女が愚かであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、冷静な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女を助けようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
右の掌に完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。 肉の焦げる香ばしい悪臭が、カビた紙の臭気と衝突する。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 削り落とされた彼女の皮膚の粉が、乾燥した風に乗って、「私」のサイズの合わない革靴の足元へ舞い落ちる。
インクの酸っぱい臭いとカビた紙の悪臭がこもる空間に、ただ皮膚が削れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




