――第 114 幕 手錠の逆説――
見えない壁に弾き返され、冷たいコンクリートの床へと乱暴に押し戻される。
サイズの合わない革靴が、粉を吹いた表面をズルリと滑る。 前後左右を、首から上がないグレーのスーツたちが完全に塞いでいる。
息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
ザッ、ザッ、ザッ。
無数の革靴が同じリズムで床を叩く。 乾燥しきったウールの生地が擦れ合う「カサ、カサ」というノイズが耳の穴へ吹き込む。
インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、肺の奥の粘膜にザラザラと張り付く。
ボタンを弾く。
カチッ。
数メートル先で、紺色のスーツを着た女が立っている。 彼女の右足は靴を失い、皮の剥がれた足裏から微かな血が滲む。
その血液は、極度の乾燥によって瞬時にどす黒く硬化し、皮膚にへばりついている。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 インクの酸っぱい臭気が膨張する。
一人の首なし男の硬い革鞄が、彼女の腰骨に擦れた。 彼女の筋肉が不規則に跳ねる。
彼女は、腰のベルトから銀色の手錠を引き抜いた。
カチャン。
金属の擦れる音が、乾燥した空気を切る。 彼女は、その手錠の輪を、自らの左手首に押し込んだ。
視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 彼女は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼女の肩の筋肉が下へ垂れ下がる。
なぜ彼女は、自らの手首にあの拘束具をかけるのか。 その狂気と自己罰の心理的メカニズムを論理的に分析し、彼女の自傷行為を直ちに止めるべきなのだろう。
だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭気が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。
なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、自らを拘束し、無力化していく彼女を救うために手を伸ばそうとしているのだろうか。 いや、本当は違う。
私はただ、かつて私を法で裁こうとした彼女が、自らの手首に手錠をかけ、狂気の中で自己を罰して無様に壊れていく様を、薄目で見下ろして安堵していたかっただけだ。
他人が尊厳を完全に喪失し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。
彼女が自ら自由を奪う愚かな肉塊であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、自由な側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。
そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼女を止めようとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
右の掌で、完全に癒着した佐渡赤玉石が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。
この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、不条理な暴力に巻き込まれた無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
インクの酸っぱい臭いとカビた紙の悪臭がこもる空間に、ただウールが擦れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




