――第 113 幕 降りられない改札――
プシュウゥゥゥ、と古タイヤから空気が抜けるような乾いた摩擦音が響き、電車のドアが左右に開く。 車内に圧縮されていたウールの塊が、ホームへと吐き出される。 「私」は、自分の足で歩いていない。 前後左右を首のないグレーのスーツに挟み込まれ、サイズの合わない革靴の底が冷たいコンクリートから数センチ浮いたまま押し流されている。 息を吸うための、肋骨が膨らむ隙間すらない。 インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭気が、肺の奥の粘膜にザラザラと張り付く。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
乾燥しきったスーツの生地が擦れ合う「カサ、カサ」というノイズが、耳元で渦を巻く。 警官の乱れた髪が「私」の肩に擦れる。 背後で、金髪の男が上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼らは自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 古い皮脂の悪臭が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
ザッ、ザッ、ザッ。
無数の革靴が同じリズムで床を叩く。 前方には、ずらりと並んだ自動改札機が、冷たい蛍光灯の光を反射して青白く光っている。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
裁断。
改札機から、分厚い紙幣の束を数える音と、硬い骨をノコギリで断ち切る音が混ざり合ったような摩擦音が響く。 改札機を通過する先頭の背広たちがゲートに足を踏み入れた瞬間、彼らのスーツと肉体が、微細なブロック状のミンチへと裁断される。
血は出ない。
細かく切り刻まれた肉と布の破片が改札機の中で舞い上がり、出口側で「ザザッ」と音を立てて元のサラリーマンの姿へと再構築されていく。
なぜこの改札機が彼らの肉体を分解し、再構築しているのか。 その不可解な処理プロセスを論理的に分析し、次に来る自分自身の運命に備えるべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いと古い皮脂の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼らが没個性なミンチに成り下がり、無様に再構築されていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が尊厳を完全に失い、均質化された部品へとすり潰されてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが空っぽの記号であればあるほど、自分だけはまだ「正常で、意味を持った側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この異常な事態に抗おうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の番が来る。 ゲートへ押し出される。
ブブーーッ。
硬質なブザー音が鳴る。 再構築のプロセスは作動しない。
見えない壁が「私」の肉体を直接殴打する。
「私」は宙を舞い、冷たいコンクリートの床へ叩きつけられた。 肺から空気が搾り出される「ヒューッ」という濁った音が漏れる。 この冷徹な物理的痛覚に没頭していれば、自分が加害者ではなく、不条理に弾かれた無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
インクとカビの臭気が鼻腔を塞ぐ。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
インクの酸っぱい臭いと古い皮脂の悪臭がこもる空間に、ただウールが擦れる音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




