――第 110 幕 古新聞の臭い――
車内の空気が一変する。 喉の粘膜が急激に干からびる。 息を吸い込むたびに、水分を失った気管支がパリパリと乾いた音を立てて軋む。 インクが酸化した酸っぱい臭いと、カビた紙の甘い臭いが、肺の奥から強引に水分を削り取る。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
空間の光の屈折が停止する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 インクの酸っぱい臭いが膨張する。 ボタンを弾く。
カチッ。
灰色の紙に印刷されたインクの染みが、網膜をチリチリと焼く。
「痛ッ」と、空気が擦れる短い摩擦音が鳴る。
隣の紺色のスーツを着た警官の筋肉が不規則に大きく跳ねる。 彼女は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 カビた紙の臭気が鼻腔を塞ぐ。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
周囲のウールの壁から、極度に乾燥した冷気が流れ込む。 グレーのスーツの集団はピクリとも動かない。 皮膚から急速に熱が奪われていく。 男は、自らの顔を爪で執拗に掻きむしる。 ボロボロと乾燥した皮膚が剥がれ落ちる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が頭蓋骨を揺らす。
この急激な大気の変質と乾燥のメカニズムを論理的に分析し、彼らに何らかの打開策を促すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつくインクが酸化した酸っぱい臭いとカビた紙の甘い臭いが、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼らが極度の乾燥に苦しむのを見かねて、共に耐え抜くための言葉をかけようとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼らが水分を奪われ、無様に顔の皮膚を掻きむしって壊れていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が限界を迎え、自分以上に惨めに干からびてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが弱く惨めであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、冷静に耐え忍ぶ側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、彼らを気遣おうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
「私」の胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と喉の渇きに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
インクの酸っぱい臭いとカビた紙の悪臭がこもる空間に、ただ乾燥した布擦れの音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




