――第 109 幕 首なしの満員電車――
落下していたはずの重力が、唐突に足の裏から真っ直ぐに突き上げてきた。 「私」の膝の軟骨が衝撃でカクンと鳴る。 前後左右を隙間なく囲む分厚いウールの壁が、「私」の肉体を不自然に傾いた角度のまま固定する。 息を吸う。 ひどく乾燥した古い紙の匂いと、合成香料、そして何日も洗われていない頭皮の酸化した脂が混ざったドライな臭気が、鼻腔の奥の粘膜にザラザラとへばりつく。 息を吸い込むたび、肺の奥底に細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
耳鳴りの奥で、雑音が鳴る。 頬に押し付けられた隣の男のワイシャツの第2ボタンの隙間――縦に裂けた肉の隙間――から、ドブ水のような生温かい呼気が、「私」の顔面に直接吹き付けられる。
「……遅れる」 「……ローンが」 「……死にたい」
頭皮の脂の臭いとドブ水の臭気が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
なぜ、この首のない男たちの群れの中で、私は彼らの異常な呟きの法則を論理的に分析し、脱出経路を模索しようとしないのか。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく古い紙の匂いとドブ水のような呼気の悪臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
いや、本当は違う。 私はただ、彼らが首を失い、意味のない愚痴をこぼしながら、ただの灰色の肉の壁となって押し潰されていく様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が知性と尊厳を完全に喪失し、自分以上に惨めに壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが空っぽで愚かであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、痛みを抱える側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、この状況に抗おうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
隣に立つ首なしの男の体重が、「私」の右半身にのしかかる。 胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この冷徹な物理的激痛と息苦しさに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。 右の掌で、完全に癒着した石札が、チリチリと微熱を放つ。 焦げた肉の悪臭が、古い紙と合成香料の匂いに衝突する。 左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
古い紙の匂いと頭皮の脂の悪臭がこもるウールの海に、ただドブ水のような呼気と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




