――第 103 幕 選別の酸欠会議――
視界の縁が、黒いクレヨンで乱暴に塗りつぶされていく。 光の届く範囲が極端に狭まる。 暗紫色の腸管の壁が、遅い脈動を繰り返している。 吸い込む大気が、肺の底まで届かない。 半透明の水飴のような粘度を持つ空気が、気管支の内側にねっとりとへばりつく。 肺を満たそうと肋骨を持ち上げても、自身の肋骨が内臓の柔らかい部分に深く食い込む寸法不足の軋みが生じる。 古い血の鉄錆臭と、排泄物を煮詰めたような腐敗臭が、肺の底にヘドロのように沈殿していく。 息を吸い込むたび、細かい砂利が沈殿していく。 「私」は左手の指先で、パジャマの第一ボタンを何度も弾く。
カチッ、カチッ。
プラスチックの微小な音が顎の骨を伝う。
前方の肉の窪み――人間の顔の型を取ったデスマスクの形状が、無数の触手をチロチロと動かしている。 触手が空気を探るたびに、透明な液体が糸を引き、濡れた舌で皮膚を舐め回すような湿った摩擦音が、狭い袋小路に反響し続けている。 排泄物の悪臭が膨張する。 視界の端が白くチカチカと明滅し、眼球の裏側で青白い火花が弾ける。 ボタンを弾く。
カチッ。
「僕が、残るよ」 緑色の胆汁に塗れた助手が、ひび割れた唇から黄色い泡を吹きながら、ふらふらと肉の窪みへ手を伸ばす。 酸で爛れた皮膚の下で、無数のピンク色の肉芽がヒクヒクと蠢いている。 彼は上下の歯を不規則なリズムで激しくぶつかり合わせる。
ガチガチガチ。
彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
ガシッ。
「ふざけんなッ!」 背後から伸びたチンピラの泥まみれの手が、助手の首根っこを力任せに掴み、後方へ引き倒した。 首の骨が「メキッ」と鳴る。 助手は床の粘液の中に転がった。
「お前がいなきゃ、この先の道がわかんねえだろ……!」
チンピラの顔面はどす黒く変色し、顔の毛穴から透明な体液が絶え間なく滲み出している。 彼の眼球の毛細血管が破裂し、白目が赤く染まる。 彼は自身の親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
ガリッ、メキッ。
骨を噛む硬質な振動が空間のゼリーを揺らす。 鉄錆の悪臭が鼻腔を塞ぐ。 ボタンを弾く。
カチッ。
足元では、紺色のスーツを着た警官が膝をつき、激しく痙攣している。 彼女は枯れ枝と化した右腕を抱え込み、口をパクパクと開閉させる。 空気が擦れる摩擦音だけが漏れる。 彼女の濁った瞳孔は、床の粘液に反射する暗紫色の光をデタラメに映し出している。 彼女は自らの親指の爪を犬歯で激しく噛みちぎる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。
「私が……」 乾燥しきった声帯から擦れた摩擦音が漏れる。 視神経が点滅し、網膜にザラザラとした砂嵐が走る。
なぜこの密室で誰かが窪みの犠牲にならなければならないのか、その生存確率と論理的な選別メカニズムを計算すべきなのだろう。 だが、息を吸い込むたびに鼻の奥へへばりつく排泄物を煮詰めた腐敗臭と古い血の鉄錆臭が、脳細胞間のシナプスの接続を強制的に切断していく。
この不潔な臭気が邪魔だ。
気管が細かく痙攣し、まともな思考の結線が組み上がらず、ドロドロに溶け落ちていく。 それはまるで、かつて泥の底に沈めた見知らぬ死体の……いや、違う。 なんだろう、あれは。
どうでもいい。
この不快な視界の明滅の奥にある連想に、意味などあるはずがないのだ。
私は、彼らを救うために自らを身代わりとして差し出そうとしているのだろうか。 いや、本当は違う。 私はただ、彼らが生き残るために互いを引きずり下ろし、本能に支配されて醜く争い合う様を、薄目で見下ろしていたかっただけだ。 他人が理性を手放し、自分以上に惨めで利己的に壊れてくれればくれるほど、あの不潔な病室で暴かれた私自身の罪悪感の輪郭が相対的に曖昧に塗り潰されていく。 彼らが汚く愚かであればあるほど、自分だけはまだ「正常で、自己犠牲の精神を持った尊い側の人間」なのだという錯覚にすがりつくことができる。 そんな極めて卑小で醜い自己正当化の欲求が、誰かを本気で庇おうとするエネルギーを根こそぎ奪い去っていくのだ。
胃壁が雑巾を絞るように激しく収縮し、舌の裏側に強烈な酸っぱい味が広がる。 「私」は大きくずらした顎を戻し、過剰な唾液をゴクリと無理やり飲み下した。
この胃酸の逆流と左腕のホッチキス傷の鈍い痛みに没頭していれば、自分が加害者ではなく、無力な被害者であるかのように振る舞えるという、浅ましい自己欺瞞。
左手の親指の爪で、人差し指の腹を強く引っ掻く。 ジワリと血が滲み、微かな鉄錆の味が口内に広がる。
カリッ、カリッ。
爪が皮膚を削る。 パジャマのボタンを弾く。
カチッ、カチッ。
誰を。殺セ。
頭蓋骨の裏側で、ノイズがエコーのように反響する。 右手の掌に癒着した石札が、チリチリと肉を焼く微弱な熱を放っている。 肉の焦げる香ばしい悪臭が、排泄物の臭気と衝突する。
鉄錆と排泄物の悪臭がこもる空間に、ただ粘液の滴る水音と、プラスチックの反復音だけが充満し続けていた。




