第九話 なんとかなるっしょ
六回目の百年は、沙紀の声で終わった。
「真人は、一緒に歩いてくれなかった。」
その言葉が、白い床の上を何度も歩いた。
真人が歩かなかった道を。
真人が見なかった現実を。
真人が先に送った話し合いを。
その言葉だけが、白い空間の中で、ずっと歩いていた。
男は、動かなかった。
大戸屋の写真。
焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
湯のみ。
箸袋。
画面の端の、沙紀の指先。
大学の雨の日。
一本の傘。
喫茶店の水のグラス。
改札に消える背中。
それらを、何度も見た。
何度も思い出した。
何度も忘れようとした。
忘れられなかった。
何度目かの三月十一日。
午後三時四十七分。
声がした。
「おかえりなさいませ」
男は顔を上げた。
赤いボタン。
黒い箱。
白石。
グレーと青のストライプのネクタイ。
「ご判断を」
男は、沙紀の言葉を持ったまま、面談室に戻った。
戻ったはずだった。
だが、面談室の真人は、何も知らなかった。
沙紀の声も。
大戸屋の写真も。
白い床も。
百年も。
何も知らない顔で、赤いボタンを見ていた。
「押せばいいんですよね」
その声は、あまりにも軽かった。
「はい」
白石が答える。
「じゃあ」
押すな。
男は思った。
今度こそ、押すな。
沙紀の声を思い出せ。
片桐の声を思い出せ。
契約書を思い出せ。
白い床を思い出せ。
だが、面談室の真人には届かない。
何も届かない。
「押しますよ」
カチッ。
七回目。
男は、白い床の上に立っていた。
もう叫ばなかった。
笑いもしなかった。
ただ、口の中で呟いた。
「なんとかなるっしょ」
その言葉は、もう冗談ではなかった。
明るさでもなかった。
癖でもなかった。
呪いだった。
男は白い床に座った。
スマホを取り出す。
二〇二五年三月十一日。
午後三時四十七分。
六十三パーセント。
圏外。
右上のひび。
いつもの画面。
いつもの数字。
いつもの自分。
写真フォルダを開く。
七枚。
いつもの七枚。
CR大富豪。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
どの写真を見ても、同じ言葉が浮かんだ。
なんとかなるっしょ。
CR大富豪。
なんとかなるっしょ。
大戸屋の定食。
なんとかなるっしょ。
バス停の時刻表。
なんとかなるっしょ。
契約書の一部。
なんとかなるっしょ。
営業会議のホワイトボード。
なんとかなるっしょ。
間違えて撮った天井。
なんとかなるっしょ。
本人確認用の自撮り。
なんとかなるっしょ。
全部、その言葉につながっていた。
清都レジデンスにいた頃。
契約書を読まなかった。
重要な書類を下読みしなかった。
管理規約を開かなかった。
わからない条項を、あとで確認すればいいと思った。
客に聞かれたことを、その場で答えられなくても、後で何とかすればいいと思った。
何とかなる。
ならなかった。
片桐への相談を遅らせた。
わからないことがある。
書類が足りない。
客に確認していない。
ローンの事前審査がまだ。
修繕積立金の資料が古い。
そのたびに、片桐に言えばよかった。
「わかりません」
「遅れています」
「助けてください」
そう言えばよかった。
だが、言わなかった。
言うと、できていないことが見えてしまう。
見えてしまうと、自分がだめだと認めることになる。
だから、黙った。
あとで言えばいい。
明日言えばいい。
間に合えばいい。
なんとかなるっしょ。
ならなかった。
沙紀との話し合いもそうだった。
仕事のこと。
お金のこと。
これからのこと。
結婚するのか。
しないのか。
どこで暮らすのか。
仕事を続けるのか。
辞めるのか。
何が苦しいのか。
何を怖がっているのか。
沙紀は、何度も話そうとした。
真人は、そのたびに笑った。
「今日はやめようぜ」
「また今度」
「落ち着いたら」
「大丈夫だって」
「なんとかなるっしょ」
ならなかった。
大戸屋の写真には、沙紀の顔がなかった。
顔を撮らなかった。
見ていなかったからだ。
声を聞いていなかったからだ。
真人は、沙紀と一緒にいたつもりで、沙紀を見ていなかった。
話し合っているつもりで、話を避けていた。
歩いているつもりで、同じ場所に立ち止まっていた。
なんとかなるっしょ。
ならなかった。
七回目の百年で、男はその言葉ばかりを拾い集めた。
なんとかなるっしょ。
なんとかなるっしょ。
なんとかなるっしょ。
大学時代には、人を笑わせた。
清都レジデンスでは、確認から逃げる言い訳になった。
沙紀の前では、話し合いを避けるための壁になった。
白い床の上では、呪文になった。
いや。
呪文ですらなかった。
呪文なら、何かを起こす。
この言葉は、何も起こさない。
何も見ないための言葉だった。
何も決めないための言葉だった。
何も変えないための言葉だった。
七回目の百年目。
また声がした。
「おかえりなさいませ」
赤いボタン。
白石。
「ご判断を」
男は言った。
届かないと知りながら。
「なんとかならないぞ」
面談室の真人は聞かなかった。
「押せばいいんですよね」
「はい」
「じゃあ」
「押しますよ」
カチッ。
八回目。
男は、もう立ち上がらなかった。
白い床の上に座り込んだまま、スマホを開いた。
写真フォルダ。
七枚。
どれを開いても、同じ言葉に戻る。
なんとかなるっしょ。
契約書を開いても。
大戸屋を開いても。
ホワイトボードを開いても。
バス停の時刻表を開いても。
全部、同じだった。
何とかなると思って、見なかったもの。
何とかなると思って、読まなかったもの。
何とかなると思って、話さなかったもの。
何とかなると思って、押したもの。
男の指は、CR大富豪の写真で止まった。
金色のポスター。
笑う大富豪。
札束。
派手な文字。
一撃。
逆転。
人生を変えるチャンス。
その写真を撮った日のことを、男は思い出した。
仕事を辞めたあとだった。
退職した直後は、少しだけ自由になった気がした。
朝、決まった時間に起きなくていい。
片桐から電話が来ない。
営業会議に出なくていい。
ホワイトボードのゼロを見なくていい。
客に頭を下げなくていい。
真人は昼過ぎまで寝た。
コンビニで弁当を買った。
スマホを見た。
求人サイトを開いた。
閉じた。
また開いた。
気になる求人にブックマークをつけた。
応募はしなかった。
履歴書を書こうと思った。
職務経歴書を開いた。
何を書けばいいのかわからなかった。
営業経験。
不動産販売。
接客。
顧客対応。
契約関連業務。
どれも嘘ではなかった。
だが、どれも自分のものではない気がした。
一件も売れなかった営業。
契約書類を揃えられなかった人間。
確認を先送りした人間。
それを書類にきれいに書き換えることができなかった。
真人はパソコンを閉じた。
明日やればいい。
なんとかなるっしょ。
ならなかった。
貯金は減った。
家賃。
光熱費。
スマホ代。
食費。
税金。
健康保険。
何もしなくても、数字は減っていく。
通帳を見ればわかった。
アプリを開けばわかった。
カードの利用明細を見ればわかった。
だが、真人は見なかった。
見なければ、まだ大丈夫な気がした。
通知が来る。
支払予定日。
引き落とし不能。
再振替のお知らせ。
重要なお知らせ。
真人は通知を横に払った。
あとで見る。
明日見る。
落ち着いたら見る。
なんとかなるっしょ。
ならなかった。
倉庫のバイトを始めた。
夜勤だった。
段ボールを運ぶ。
商品を仕分ける。
バーコードを読む。
誰とも深く話さなくてよかった。
契約書もない。
客もいない。
片桐もいない。
ただ、言われた場所に物を運べばよかった。
最初は気が楽だった。
考えなくて済む仕事だった。
だが、体は疲れた。
昼夜がずれた。
眠れない日が増えた。
朝方に帰って、コンビニで酒を買う。
安い弁当。
缶チューハイ。
ベッドに倒れる。
起きると夕方。
スマホには、督促の通知がある。
求人サイトのメールがある。
家族からの不在着信がある。
沙紀の名前は、もうなかった。
真人は、通知を見ないようにした。
パチンコ屋の前で立ち止まったのは、たぶん偶然だった。
駅前の商店街。
雨の日だった。
入口の前に、新装開店のポスターが貼られていた。
CR大富豪。
金色の文字。
札束。
笑う男。
一撃。
逆転。
人生を変えるチャンス。
新装開店まで、あと三日。
真人は、その文字を見た。
入るつもりはなかった。
その日は、まだ。
ただ、写真を撮った。
予定を覚えておくだけ。
そう思った。
行くと決めたわけではない。
打つと決めたわけではない。
ただ、三日後に新しい台が入る。
それを忘れないようにしただけ。
なんとかなるっしょ。
その日から三日間、真人は何度もその写真を見た。
求人サイトを開いたあと。
カードの利用明細を閉じたあと。
督促の通知を横に払ったあと。
夜勤明けの布団の中で。
三日後。
行くとは決めていない。
でも、行かないとも決めていない。
新装なら、少しは出るかもしれない。
五千円だけなら、まだ大丈夫かもしれない。
勝てば、少し楽になるかもしれない。
写真を見るたびに、行かない理由は薄くなった。
行く理由だけが、少しずつ濃くなった。
三日後、真人はパチンコ屋に入った。
五千円だけのつもりだった。
五千円なら、まだ大丈夫。
勝てば増える。
負けても、まあ、何とかなる。
ならなかった。
一万円。
二万円。
三万円。
財布が軽くなる。
ATMに行く。
戻る。
また打つ。
当たりそうな演出が来る。
金色の光。
大富豪が笑う。
あと少し。
もう少し。
次こそ。
真人は席を立てなかった。
負けたまま帰ることができなかった。
取り戻せばいい。
今日の負けを取り戻せば、なかったことになる。
なかったことになれば、大丈夫。
なんとかなる。
ならなかった。
白い床の上で、男はCR大富豪の写真を拡大した。
ポスターの中の大富豪は、相変わらず笑っている。
男は、その笑顔を見ていた。
一億円。
清都レジデンスのトップ営業の年収。
ボタンの金額。
パチンコの演出。
全部、同じ色をしていた。
金色。
安っぽい金色。
まぶしいだけで、温度のない金色。
真人は、負けるたびに思った。
次で戻せばいい。
次の給料で返せばいい。
次のバイトを増やせばいい。
次に勝てばいい。
次。
次。
次。
その次は、いつも来なかった。
借金は最初、小さかった。
カードのリボ払い。
キャッシング。
後払い。
家賃の遅れ。
友人には言えなかった。
家族にも言えなかった。
沙紀には、もう言う相手ではなかった。
ひとりで何とかするしかない。
そう思った。
ひとりで何とかできると思った。
なんとかなるっしょ。
ならなかった。
督促の電話が増えた。
知らない番号から何度も着信が来る。
真人は出なかった。
留守電も聞かなかった。
郵便受けには封筒がたまった。
重要。
至急。
最終通知。
ご連絡ください。
真人は、封筒を開けなかった。
開けたら終わりだと思った。
見なければ、まだ終わっていない気がした。
借金は、見なくても増えた。
利息は、真人が目をそらしているあいだにも進んだ。
電気が止まった日があった。
夕方、部屋に戻ると、スイッチを押しても明かりがつかなかった。
冷蔵庫の音もしていなかった。
テレビもつかない。
スマホの充電もできない。
真人は暗い部屋に立っていた。
払っていなかった。
わかっていた。
わかっていたが、見ていなかった。
三日ほど、水だけで過ごした。
ただ、腹が減っていた。
喉は渇いていた。
眠かった。
右足は痛くなかった。
その頃の真人は、まだ白い床を知らなかった。
だが、もう似たような場所にいたのかもしれない。
暗い部屋。
動かない冷蔵庫。
通知のこないスマホ。
開けていない封筒。
誰にも言えない借金。
どこにも行かない時間。
なんとかなるっしょ。
ならなかった。
八回目の百年は、金色で過ぎた。
CR大富豪の金色。
一億円の金色。
赤いボタンの向こう側にあるはずの金色。
その金色は、白い床の上では何の光にもならなかった。
百年目。
また声がした。
「おかえりなさいませ」
「ご判断を」
男は、もう怒らなかった。
もう抵抗もしなかった。
ただ、面談室の真人の声を聞いた。
「押せばいいんですよね」
その声には、金色の匂いがした。
「はい」
「じゃあ」
「押しますよ」
カチッ。
九回目。
男は、また白い床にいた。
立っていたのか。
座っていたのか。
最初は、わからなかった。
気がつくと、白い床に座っていた。
もう、始まり方さえ曖昧だった。
赤いボタン。
白石。
「ご判断を」
「押しますよ」
カチッ。
その断片だけが、どこか遠くに残っていた。
ポケットからスマホを取り出す。
二〇二五年三月十一日。
午後三時四十七分。
六十三パーセント。
圏外。
右上のひび。
写真フォルダを開く。
七枚。
CR大富豪。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
男は、バス停の時刻表を開いた。
古い写真だった。
清都レジデンスにいた頃に撮ったものだ。
アパートから駅へ向かうバスの時刻表。
ネットで調べればよかった。
毎朝、検索すればよかった。
だが、真人はその写真を見ていた。
一度撮った写真。
それで十分だと思っていた。
男は、画面を拡大した。
朝の時間帯。
七時台。
八時台。
九時台。
いつも見ていた数字が並んでいる。
ふと、画面の下の端に、小さな文字があることに気づいた。
指で広げる。
文字が少しだけ大きくなる。
有効期間。
2020.4.1〜2020.9.30。
男は、しばらくその文字を見ていた。
2020.9.30。
その写真は、半年で終わっていた。
とっくに終わっていた。
それなのに、真人は見続けていた。
十月になっても。
十一月になっても。
年が明けても。
何度もその写真を開いた。
何度もその時刻を信じた。
何度も遅れた。
「また遅れたのか」
片桐に言われたことがある。
「すみません、バスが遅れていて」
「前もバスって言ってたよな」
「はい」
「時刻表、確認してるのか」
「しています」
真人は、そう答えた。
嘘をついたつもりはなかった。
本当に確認していると思っていた。
スマホに写真がある。
朝、家を出る前にそれを見る。
七時台。
八時台。
九時台。
そこに数字が並んでいる。
それを見ている。
だから、確認している。
そう思っていた。
片桐は、しばらく真人を見ていた。
「確認って、見ることじゃないぞ」
真人は頷いた。
「はい」
そのときは、意味がわからなかった。
わかったふりだけをした。
写真の中に、最初から書いてあった。
ここまでだ、と。
この先は使えない、と。
だが、真人は見ていなかった。
時刻表を見ていたのではない。
確認した気になっていた。
一度撮った。
だから大丈夫。
保存してある。
だから大丈夫。
なんとかなるっしょ。
ならなかった。
男は写真を閉じた。
契約書の一部を開いた。
小さすぎて読めない。
画面を拡大する。
文字がぼやける。
さらに拡大する。
読めない。
なぜ撮ったのかは覚えている。
仕事用に、あとで確認するためだった。
あとで読むためだった。
だが、あとで読めるようには撮っていなかった。
写真を撮ったことで、確認した気になっていた。
残した気になっていた。
読んだ気になっていた。
読めないものを撮って、安心していた。
期限切れの時刻表を見て、確認した気になっていた。
読めない契約書を撮って、読んだ気になっていた。
どちらも同じだった。
男は、画面を見つめた。
白石の契約書も同じだった。
見た。
めくった。
署名した。
だから、わかった気になった。
約款は見なかった。
読むべきところを読まなかった。
「いいですって」
その一言で、百年が始まった。
いや。
何度も始まった。
男は天井の写真を開いた。
間違えて撮っただけの写真。
白っぽい天井。
蛍光灯の端。
何の意味もない写真。
撮った覚えすら、ほとんどなかった。
ポケットから出すときに、勝手にシャッターが切れたのかもしれない。
スマホを持ち上げたときに、指が触れただけかもしれない。
見つけたとき、消そうと思った。
あとで消せばいい。
そう思った。
だが、消さなかった。
消すほどの写真でもない。
残すほどの写真でもない。
だから、そのままにした。
何の意味もないものを、何の判断もしないまま残した。
だが、その白さが、白い空間と重なった。
男は、天井の写真を閉じた。
最後に、自撮りを開いた。
本人確認用の写真。
疲れた顔。
笑っていない目。
無精ひげ。
少し開いた口。
真人の顔だった。
だが、男には他人に見えた。
「誰だよ」
呟いた。
画面の男は答えない。
「五味真人」
言ってみる。
「三十二歳」
言ってみる。
「なんとかなるっしょ」
画面の男は、笑っていなかった。
笑っていないのに、そう言いそうな顔をしていた。
男は、スマホを置いた。
白い床を見た。
もう、何かを残そうとは思わなかった。
写真も残らない。
言葉も届かない。
傷も消える。
反省も、面談室の自分には届かない。
それでも、男は考え続けた。
ここが先延ばしの最終形なら。
自分は、何を先延ばしにしてきたのか。
契約書を読むこと。
片桐に相談すること。
沙紀と話すこと。
借金を見ること。
パチンコ屋の前を通り過ぎること。
電話に出ること。
封筒を開けること。
助けてと言うこと。
やめること。
決めること。
押さないこと。
全部、先延ばしにしてきた。
そして最後に、押した。
考えずに。
読まずに。
聞かずに。
見ずに。
「押せばいいんですよね」
一億円が欲しかったのだと思っていた。
借金を返すため。
人生をやり直すため。
楽になるため。
だが、本当に欲しかったのは、一億円だったのか。
男は白い床を見つめた。
一億円は、面談室の外にある。
百年は、ここにある。
真人は、金を得るために百年を選んだ。
そう思っていた。
だが、逆かもしれなかった。
百年を得るために、一億円を理由にしたのかもしれない。
何も決めなくていい百年。
誰にも会わなくていい百年。
返事をしなくていい百年。
確認しなくていい百年。
話し合わなくていい百年。
督促されない百年。
失敗しない百年。
何もしない百年。
白い床の上で、男は膝を抱えた。
「なんとかなるっしょ」
小さく言った。
その言葉は、もう自分のものではないように聞こえた。
大学時代には、人を笑わせた。
清都レジデンスでは、確認から逃げた。
沙紀の前では、話し合いを避けた。
パチンコ屋では、負けを取り戻す呪文になった。
借金の前では、封筒を開けない理由になった。
白石の前では、契約書を読まない理由になった。
そして、ここでは。
百年を生き延びる言葉になった。
いや。
百年を死なずに腐る言葉になった。
「なんとも、ならなかったな」
男は言った。
今度は、はっきりと。
「なんとも、ならなかった」
白い床は、何も答えない。
だが、男はもう、答えを待っていなかった。
百年目の三月十一日。
午後三時四十七分。
声がした。
「おかえりなさいませ」
男は、顔を上げた。
赤いボタン。
白石。
グレーと青のストライプのネクタイ。
「ご判断を」
その言葉を、もう何度聞いただろう。
判断。
真人が避け続けたもの。
契約書を読むか。
片桐に言うか。
沙紀と話すか。
借金を見るか。
パチンコ屋に入らないか。
電話に出るか。
封筒を開けるか。
助けを求めるか。
やめるか。
押すか。
押さないか。
全部、判断だった。
全部、避けてきた。
男は、面談室の自分を見た。
見えるわけではない。
だが、そこにいることはわかった。
三十二歳の五味真人。
何も知らない真人。
一億円を見ている真人。
契約書を読まなかった真人。
別途約款を止めた真人。
「押せばいいんですよね」
その声が聞こえた。
男は、白い床の上で呟いた。
「なんとも、ならないぞ」
届かない。
知っている。
届かない。
「はい」
白石の声。
「じゃあ」
三十二歳の真人の声。
男は、目を閉じた。
もう叫ばなかった。
もう笑わなかった。
ただ、言った。
「なんとも、ならなかったな」
「押しますよ」
カチッ。




