表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/12

第十話 押さない方法

十回目。


男は、白い床の上にいた。


カチッ、という音の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。


赤いボタン。


白石。


「ご判断を」


「押しますよ」


そして、白。


何度繰り返しても、そこだけは変わらなかった。


右足が痛い。


腹は減っている。


喉は渇いている。


眠い。


全部、同じだった。


男は、しばらく動かなかった。


叫ばない。


笑わない。


写真も見ない。


床も殴らない。


ただ、立っていた。


九回目の終わりに、わかったことがある。


なんとかならない。


本当に、なんともならない。


この白い空間は、先延ばしの最終形だった。


百年分の、あとで。


百年分の、また今度。


百年分の、なんとかなるっしょ。


それなら、もう、先に延ばしてはいけない。


次に面談室へ戻ったとき。


押さない。


それだけだった。


一億円をもらうかどうかではない。


百年を避けるかどうかでもない。


押さない。


赤いボタンを押さない。


男は、声に出した。


「押さない方法を考えろ」


白い床は、何も答えなかった。


いい。


答えはいらない。


考えるのは自分だ。


まず、記憶は届かない。


これまで、何度も試した。


「押すな」と叫んだ。


百年言い続けた。


写真を撮った。


床に傷をつけた。


正の字を刻んだ。


沙紀を思い出した。


片桐を思い出した。


契約を思い出した。


借金を思い出した。


なんともならなかった。


面談室の真人は、何も知らない。


何も知らないまま、赤いボタンの前に座る。


白石を見る。


一億円を考える。


そして言う。


「押せばいいんですよね」


だから、記憶ではだめだ。


言葉でもだめだ。


写真でもだめだ。


傷でもだめだ。


なら、何が残る。


男は、自分の胸に手を当てた。


恐怖。


恐怖なら残るのではないか。


記憶は消えても、理由のわからない怖さなら残るかもしれない。


初めて会った人間を、なぜか怖いと思うことがある。


行ったことのない場所を、なぜか嫌だと思うことがある。


説明できない違和感。


直感。


虫の知らせ。


そういうものが、あるのではないか。


白い空間に入ったとき、前回までの記憶は戻る。


なら、現実に戻った瞬間にも、何かの残りかすくらいはあるかもしれない。


完全には消えない。


白石も言っていた。


記憶の保持。


消去。


例外的残存。


別途約款。


例外的残存。


その言葉が、まだある。


何かは残る。


なら、恐怖を残す。


赤いボタンへの恐怖。


白石への嫌悪。


面談室への拒否感。


押すことへの吐き気。


それを、百年かけて作る。


男は白い床に座った。


目を閉じる。


赤いボタンを思い浮かべる。


黒い箱。


その上の赤。


丸くて、つるりとしている。


押せば一億円。


押せば百年。


押せば白い床。


男は、赤いボタンを恐ろしいものにしようとした。


毒だ。


爆弾だ。


棺桶だ。


地獄の入口だ。


赤いボタンは、自分を百年殺す。


死なせずに殺す。


眠らせずに腐らせる。


空腹も渇きも眠気も痛みも、そのまま百年固定する。


赤いボタン。


赤いボタン。


赤いボタン。


男は、その色を頭の中で血の色に変えた。


だが、血は出ない。


ここでは、血すら出ない。


男は、白石の顔を思い出した。


穏やかな目。


薄い唇。


グレーと青のストライプのネクタイ。


丁寧な声。


「ご判断を」


白石を怖がれ。


あれは人間ではない。


あれは悪魔だ。


あれは、百年を売るものだ。


あれは、自分をここに戻すものだ。


男は白石の顔を何度も思い浮かべた。


笑っているようで、笑っていない顔。


責めない顔。


止めない顔。


嘘をつかない顔。


それが、逆に怖かった。


「怖い」


男は言った。


「白石は怖い」


声に出す。


何度も出す。


「赤いボタンは怖い」


「押したら終わる」


「押すな」


「白石を見るな」


「ボタンを見るな」


「逃げろ」


「押すな」


百年あれば、体に染み込むかもしれない。


記憶ではなく、反射にする。


ボタンを見た瞬間、手が止まるように。


白石を見た瞬間、喉が詰まるように。


「ご判断を」と言われた瞬間、吐き気がするように。


男は、それを繰り返した。


赤いボタンは怖い。


白石は怖い。


押すな。


押すな。


押すな。


何年も。


何十年も。


男は、同じ言葉を繰り返した。


立っているときも。


座っているときも。


スマホを見るときも。


目を閉じるときも。


日付が戻るときも。


赤いボタンは怖い。


白石は怖い。


押すな。


押すな。


押すな。


そのうち、男は赤い色を見ただけで身構えるようになった。


スマホの充電アイコンの赤。


通知の赤い丸。


写真の中のCR大富豪の金色に混じった赤。


それを見るたびに、男は言った。


「押すな」


白石の顔を思い出すと、胸が冷えるようになった。


いや、冷えた気がした。


ここでは身体感覚も固定されている。


本当に冷えたのかはわからない。


それでも、男は自分に言い聞かせた。


これは恐怖だ。


これは残る。


これは届く。


百年目。


三月十一日。


午後三時四十七分。


声がした。


「おかえりなさいませ」


男は、赤いボタンを見た。


心の中で叫ぶ。


怖がれ。


今だ。


怖がれ。


白石を見るな。


ボタンを見るな。


押すな。


「ご判断を」


面談室の真人は、白石を見ていた。


男には、それがわかった。


真人の胸に、何かがかすかに引っかかった。


本当に、引っかかった気がした。


「……」


面談室の真人が、一瞬だけ黙った。


男は息を止めた。


届いた。


いま、届いた。


真人の眉が、ほんの少し動いた。


赤いボタンを見る目が、わずかに揺れた。


白石が何かを待っている。


「どうされましたか」


白石の声。


真人は、赤いボタンを見た。


それから、白石を見た。


胸の奥に、薄い違和感があった。


理由はわからない。


赤いボタンを見た瞬間、何かが嫌だった。


白石の顔を見た瞬間、少しだけ気味が悪かった。


なぜか、ここにいたくない気がした。


男は叫んだ。


それだ。


それを信じろ。


逃げろ。


押すな。


面談室の真人は、軽く笑った。


「いや、ちょっと緊張して」


男は凍った。


真人は肩をすくめるように笑った。


「一億円ですもんね」


白石は微笑んだ。


「ご判断は、お客様にお任せしております」


「ですよね」


違和感は、言葉にならなかった。


恐怖は、理由を持たなかった。


理由のない恐怖は、真人にとって邪魔なものだった。


邪魔なものは、いつも笑って流してきた。


大丈夫。


気のせい。


緊張しているだけ。


寝不足だから。


変な会社だから。


金額が大きいから。


そう処理した。


男は叫んだ。


違う。


気のせいじゃない。


百年だ。


押すな。


「押せばいいんですよね」


真人の声。


「はい」


白石の声。


男は、白い床の上で膝をついた。


「じゃあ」


やめろ。


「押しますよ」


カチッ。


十一回目。


男は白い床の上にいた。


失敗した。


恐怖は届いた。


たぶん、届いた。


だが、止められなかった。


現実の真人は、それを「気のせい」にした。


緊張。


違和感。


寝不足。


金額の大きさ。


怪しい会社。


そういう説明をつけて、処理した。


真人は、理由のない感覚を信じない。


理由のない怖さより、一億円の方を信じる。


男は、白い床に座り込んだ。


「じゃあ、もっと強く」


声は、すぐに出た。


恐怖が弱かったのだ。


もっと強ければいい。


気のせいでは済まないほどの嫌悪。


吐き気。


手が震えるほどの拒否。


白石の顔を見ただけで、逃げ出したくなるほどの恐怖。


男は、十一回目の百年を使って、さらに強く刻むことにした。


白石を怪物にする。


赤いボタンを死体にする。


面談室を墓場にする。


一億円を腐った札束にする。


男は、頭の中で何度も映像を作った。


赤いボタンから白い手が出る。


ボタンの下に自分の顔が埋まっている。


白石の口が裂ける。


ネクタイが蛇になる。


一億円の札束が、全部、白いタイルに変わる。


押した瞬間、沙紀の指先が消える。


片桐の声が消える。


自分の名前が消える。


五味真人が消える。


男は、怖いものを作ろうとした。


だが、作れば作るほど、どこか嘘っぽくなった。


白石は、怪物ではなかった。


赤いボタンは、ただのボタンだった。


面談室は、ただの面談室だった。


一億円は、一億円だった。


嘘の恐怖は、弱い。


男はそれでも繰り返した。


押すな。


白石は怖い。


赤いボタンは怖い。


一億円は罠だ。


押したら百年。


押したら白。


押したら戻れない。


何十年も続けた。


言葉は擦り切れた。


恐怖は形だけになった。


だが、他に方法がなかった。


百年目。


また声がした。


「おかえりなさいませ」


赤いボタン。


白石。


「ご判断を」


面談室の真人は、前よりも強く違和感を覚えた。


胸がざわつく。


手のひらが少し冷たい気がする。


喉がつまるような気がする。


白石の顔が、妙に気持ち悪い。


赤いボタンが、なぜか嫌だ。


男は叫んだ。


そうだ。


そのまま逃げろ。


立て。


帰れ。


押すな。


真人は、眉をひそめた。


「すみません」


白石が顔を上げた。


「はい」


「これ、押したあとって、本当に現実の時間は進まないんですよね」


白石は、丁寧に頷いた。


「ほとんど変わりません」


「ほとんど」


「はい」


真人は、赤いボタンを見た。


嫌な感じがある。


だが、理由はわからない。


理由がわからないものは、信じにくい。


それに、いまさらやめるのも変だった。


ここまで説明を聞いた。


契約書にもサインした。


一億円。


借金。


家賃。


督促。


スマホ代。


封筒。


全部が頭に浮かんだ。


気持ち悪い。


でも、押せば一億円。


怖い。


でも、現実時間はほとんど変わらない。


嫌だ。


でも、ここで帰ったら何も変わらない。


男は、白い床の上で叫んだ。


変わらなくていい。


押すよりましだ。


押すな。


帰れ。


「まあ」


真人は小さく笑った。


「こういうのって、緊張しますよね」


白石は、何も否定しなかった。


「大きなご判断ですので」


「ですよね」


真人は、自分の違和感に名前をつけた。


緊張。


それで終わった。


男は、その瞬間にわかった。


名前をつけられた恐怖は、処理される。


「押せばいいんですよね」


「はい」


「じゃあ」


「押しますよ」


カチッ。


十二回目。


男は、白い床に倒れていた。


倒れていたのか、座っていたのか、わからなかった。


ただ、白かった。


恐怖ではだめだ。


嫌悪でもだめだ。


身体反応でもだめだ。


違和感は届く。


たしかに、少しは届く。


だが、真人はそれを処理する。


気のせい。


緊張。


寝不足。


金額が大きい。


怪しい会社。


そうやって、全部、言葉で片づける。


片づけて、押す。


押す自分を止められない。


男は白い床に頬をつけた。


痛くない。


冷たくもない。


何も感じない床。


「じゃあ、何なら止まる」


声は床に吸われた。


何なら、押す自分を止められる。


恐怖ではない。


嫌悪ではない。


反射でもない。


言葉でもない。


記憶でもない。


傷でもない。


写真でもない。


男は、白い床を見つめた。


面談室の真人は、怖くても押す。


気持ち悪くても押す。


違和感があっても押す。


なぜなら、押したいからだ。


一億円が欲しいから。


いや。


百年を、欲しがっているから。


何も決めなくていい百年を。


何も見なくていい百年を。


先延ばしできる百年を。


恐怖で止めようとしても、欲望が勝つ。


嫌悪で止めようとしても、逃げたい気持ちが勝つ。


白い空間を怖がらせても、現実の真人は白い空間を知らない。


知らない恐怖は、気のせいになる。


男は、ゆっくり起き上がった。


「怖がらせるんじゃ、だめだ」


声はかすれていない。


喉は壊れない。


それでも、かすれているように聞こえた。


「押したくなくさせないと、だめなんだ」


押すのが怖い、では足りない。


押す必要がないと思えなければ、止まらない。


一億円よりも。


逃げる百年よりも。


その場で判断することの方を選べる何か。


恐怖ではなく。


嫌悪ではなく。


もっと別のもの。


男は、まだそれが何なのかわからなかった。


白い床には何もない。


答えもない。


ただ、ひとつだけわかった。


恐怖では、押す自分を止められない。


男は膝を抱えた。


ポケットの中のスマホが、太ももに当たっている。


取り出さなかった。


写真を見る気にはならなかった。


言葉を繰り返す気にもならなかった。


ただ、白い床を見ていた。


どこまでも白い。


何もない。


何もないから、もう逃げる場所もない。


男は、白い床の上で呟いた。


「押さない方法」


その言葉だけが残った。


残った気がした。


何百年も遅れて、真人はようやくそれを考え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ