第十一話 失敗する対策
十二回目。
男は、白い床の上に座っていた。
いつから座っていたのかは、わからない。
倒れていたのかもしれない。
膝を抱えていたのかもしれない。
顔を伏せていたのかもしれない。
ただ、白かった。
右足が痛い。
腹は減っている。
喉は渇いている。
眠い。
全部、同じだった。
男は、しばらく何も考えなかった。
考えようとしても、同じ場所に戻ってしまう。
恐怖ではだめだ。
嫌悪ではだめだ。
身体の違和感でもだめだ。
面談室の真人には、少しだけ届いた。
それは、たぶん本当だった。
赤いボタンを見た瞬間のざわつき。
白石の顔を見たときの気味の悪さ。
喉のつかえ。
胸の奥の嫌な感じ。
それらは、ほんの少しだけ届いていた。
だが、止められなかった。
真人は、それを処理した。
緊張。
疲れ。
気のせい。
金額が大きいから。
怪しい会社だから。
そういうものだろう。
そうやって、名前をつけた。
名前をつけて、片づけた。
片づけて、押した。
男は、白い床を見た。
「じゃあ、何なら止まる」
声は、床に落ちた。
答えはない。
いつも通りだった。
男は、もう一度考えた。
恐怖を強くする。
嫌悪を強くする。
吐き気を残す。
手が震えるようにする。
白石を見た瞬間、逃げ出したくなるようにする。
赤いボタンを見た瞬間、体が固まるようにする。
「押すな」という言葉を、骨の奥まで染み込ませる。
考えれば考えるほど、どれも同じだった。
押す直前の真人を止めようとしている。
面談室の椅子に座った真人。
契約書に署名した真人。
約款を断った真人。
赤いボタンを前にした真人。
一億円を考えている真人。
その最後の一秒だけを変えようとしている。
男は、額に手を当てた。
「遅い」
小さく言った。
「そこじゃ、遅い」
面談室に座った時点で、真人はもう押すところまで来ている。
借金がある。
督促がある。
家賃がある。
スマホ代がある。
電気が止まった部屋がある。
開けていない封筒がある。
誰にも言えなかった失敗がある。
沙紀はいない。
片桐もいない。
仕事もない。
逃げ場もない。
その男の前に、一億円が置かれている。
現実の時間は、ほとんど変わらないと言われている。
白石は丁寧に説明する。
契約書もある。
署名もした。
赤いボタンは、すぐそこにある。
その状態の真人に、少しの恐怖を投げても、止まらない。
少しの違和感を投げても、止まらない。
なぜなら、真人は押したいからだ。
男は、白い床に手をついた。
押したい。
その言葉が、いちばん嫌だった。
だが、そうだった。
真人は押したくなかったのではない。
押したかった。
一億円が欲しかった。
借金から逃げたかった。
督促から逃げたかった。
封筒から逃げたかった。
片桐の声から逃げたかった。
沙紀の言葉から逃げたかった。
自分の失敗から逃げたかった。
そして何より、判断から逃げたかった。
赤いボタンは、逃げ道だった。
押せば、百年。
誰もいない。
何も決めなくていい。
誰にも会わなくていい。
誰にも説明しなくていい。
何も払わなくていい。
何も読まなくていい。
何も返事しなくていい。
ただ、白い床の上にいればいい。
男は、笑った。
笑いはすぐに消えた。
「そりゃ、押すよな」
面談室の真人は、百年の地獄を知らない。
知らないなら、押す。
恐怖が少し届いても、押す。
違和感があっても、押す。
嫌な感じがしても、押す。
なぜなら、押す理由の方がずっと多いからだ。
一億円。
借金。
家賃。
督促。
空腹。
眠気。
失敗。
恥。
孤独。
「なんとかなるっしょ」
その言葉もある。
気のせいだ。
大丈夫だ。
緊張しているだけだ。
一億円だぞ。
押せば終わる。
押せば変わる。
押せば楽になる。
男は、白い床の上で目を閉じた。
押す瞬間だけを変えようとしても無理だ。
そこにいる真人は、もう押す人間になっている。
赤いボタンの前に座るずっと前から。
清都レジデンスで、契約書を読まなかったとき。
片桐に相談しなかったとき。
流れた契約を、自分の失敗として引き受けなかったとき。
沙紀と話し合わなかったとき。
大戸屋で写真を撮って、顔を撮らなかったとき。
パチンコ屋の新装開店ポスターを撮ったとき。
督促の封筒を開けなかったとき。
電気が止まった部屋で、水だけ飲んでいたとき。
その全部が、赤いボタンへ続いていた。
ボタンを押したのは、最後の一秒ではなかった。
ずっと前から押していた。
少しずつ。
毎日。
小さく。
何度も。
「あとで」
「また今度」
「落ち着いたら」
「大丈夫」
「なんとかなるっしょ」
それらが、全部、小さなカチッだった。
男は、右手を見た。
赤いボタンを押した手。
契約書に署名した手。
スマホでパチンコのポスターを撮った手。
契約書の読めない写真を撮った手。
沙紀の顔を撮らなかった手。
督促の封筒を開けなかった手。
同じ手だった。
この手を、最後だけ止めようとしていた。
止まるわけがなかった。
最後の一秒だけ、真人は別人にはなれない。
男は、立ち上がった。
白い床がどこまでも続いている。
何もない。
何もないから、もう言い訳ができない。
「押さない方法は」
声に出す。
「ボタンの前にはない」
その言葉は、白い空間に落ちた。
押さない方法。
それは、赤いボタンを見た瞬間に思い出す合言葉ではない。
白石への恐怖でもない。
吐き気でもない。
違和感でもない。
身体反応でもない。
押さない方法は、もっと前にしかない。
契約書を読むこと。
約款を読むこと。
わからないときに聞くこと。
片桐に相談すること。
沙紀と話すこと。
封筒を開けること。
電話に出ること。
パチンコ屋の前を通り過ぎること。
求人に応募すること。
失敗したと言うこと。
助けてと言うこと。
「大丈夫じゃない」と言うこと。
「なんとかならない」と認めること。
それらができる人間でなければ、ボタンの前では止まれない。
男は、白い床を歩き始めた。
目的地はない。
どこまで行っても白い。
だが、歩いた。
今度は、逃げるためではなかった。
考えるためだった。
一歩。
右足が痛い。
一歩。
腹が減っている。
一歩。
喉が渇いている。
一歩。
眠い。
全部、同じ。
それでも歩いた。
沙紀の言葉を思い出した。
「真人は、一緒に歩いてくれなかった。」
男は、白い床の上を歩いた。
誰も隣にいない。
沙紀もいない。
片桐もいない。
白石もいない。
それでも、歩いた。
歩くとは、進むことではないのかもしれない。
歩くとは、現実を見ることなのかもしれない。
足元を見る。
痛みを見る。
空腹を見る。
喉の渇きを見る。
眠気を見る。
自分がここにいることを見る。
何もない場所で、何もないと言い訳せずに、そこに立つこと。
それが、歩くことなのかもしれない。
男は、何日も歩いた。
何年も歩いた。
何十年も歩いた。
途中で、また座った。
また立った。
また歩いた。
考えは、何度も同じ場所に戻った。
押すな。
いや、それでは遅い。
怖がれ。
いや、それでは止まらない。
気持ち悪がれ。
いや、それも処理される。
では、どうする。
真人を変える。
どうやって。
記憶は届かない。
言葉は届かない。
傷は残らない。
写真も戻る。
では、何が変わる。
男は、答えを出せなかった。
だが、問いだけは変わっていた。
前は、こうだった。
どうすれば、面談室の真人に「押すな」と伝えられるか。
今は違う。
どうすれば、押さない真人になれるか。
それは、似ているようで違った。
伝えるのではない。
変わる。
止めるのではない。
生まれ直す。
だが、白い空間で生まれ直すことなどできるのか。
体は三十二歳のまま。
爪も伸びない。
髪も伸びない。
腹も満たされない。
眠れない。
死ねない。
持ち物も変わらない。
一年ごとにスマホの日付は戻る。
写真も戻る。
床の傷も消える。
何も変わらない。
その場所で、どうやって変わるのか。
男は、自分の内側を見るしかなかった。
清都レジデンスのホワイトボード。
五味 〇件。
片桐の声。
「確認って、見ることじゃないぞ」
妊娠中の妻。
夫の丁寧な声。
「書類がないなら、また出直します」
沙紀の指先。
「一緒に歩いてくれなかった」
CR大富豪の金色。
新装開店まで、あと三日。
督促の封筒。
開けなかった手。
白石の契約書。
別途約款。
赤いボタン。
それらを、ひとつずつ見た。
逃げずに見た。
最初は、ただ苦しかった。
だが、何十年も見ていると、少しずつ違って見えた。
片桐は、敵ではなかった。
五味を追い詰めた人間ではなかった。
何度も確認しろと言っていた。
何度も早めに言えと言っていた。
何度も、見ることと確認することは違うと教えていた。
夫婦は、真人を責めなかった。
だからこそ、信用を失ったことがわかった。
沙紀は、真人を見捨てたのではなかった。
一緒に現実を見ようとしていた。
パチンコ屋のポスターは、未来ではなかった。
逃げ道の顔をしていた。
借金の封筒は、終わりではなかった。
開ければ、そこから始められたかもしれなかった。
契約書は、ただの紙ではなかった。
自分が何を選ぶのかを、言葉にしたものだった。
男は、白い床の上で何度も言った。
「読め」
「聞け」
「言え」
「開けろ」
「逃げるな」
「見ろ」
それは、面談室の真人に届けるための言葉ではなかった。
白い床の男が、自分に言うための言葉だった。
読め。
聞け。
言え。
開けろ。
逃げるな。
見ろ。
何年も言った。
何十年も言った。
やがて、それらの言葉は「押すな」よりも重くなった。
押すな、は最後の命令だった。
読め、聞け、言え、開けろ、逃げるな、見ろ、は、生き方だった。
男は、そこまで来て、ようやく理解した。
押さないためには、押す瞬間を変えるのではない。
押す瞬間に至るまでの自分を変えなければならない。
百年の中で、それができるのかはわからない。
だが、他に方法はない。
男は、白い床に座った。
スマホを取り出した。
写真フォルダを開く。
七枚。
CR大富豪。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
今まで、それらは責めるものだった。
失敗の証拠だった。
逃げた証拠だった。
だが、今は少し違った。
それらは、見るべきものだった。
見なかったものを、見るために残っていた。
男は、契約書の一部を開いた。
読めない。
それでも見た。
読めないものを、読めないと認める。
それが最初だった。
バス停の時刻表を開いた。
期限が切れている。
確認していなかったと認める。
大戸屋の定食を開いた。
沙紀の顔がない。
見ていなかったと認める。
ホワイトボードを開いた。
五味 〇件。
できていなかったと認める。
CR大富豪を開いた。
行く理由を育てていたと認める。
自撮りを開いた。
そこにいる男を見た。
疲れた顔。
笑っていない目。
少し開いた口。
「五味真人」
男は言った。
「お前が押す」
画面の男は答えない。
「だから、お前が変わらないと止まらない」
その言葉は、面談室の真人には届かない。
だが、白い床の男には届いた。
百年目。
三月十一日。
午後三時四十七分。
声がした。
「おかえりなさいませ」
男は、顔を上げた。
赤いボタン。
白石。
面談室の気配。
「ご判断を」
男は、もう叫ばなかった。
恐怖も作らなかった。
吐き気も作らなかった。
白石を怪物にしようともしなかった。
ただ、見ていた。
面談室の真人を。
三十二歳の五味真人を。
借金を抱えた男を。
契約書を読まなかった男を。
沙紀と歩かなかった男を。
それでも、まだ何も知らない男を。
真人は、赤いボタンを見ていた。
男は、白い床の上で静かに言った。
「押すな、じゃない」
届かない。
知っている。
それでも言った。
「読め」
面談室の真人の目が、ほんの少し動いた気がした。
赤いボタンから、契約書へ。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
男は息を止めた。
白石は黙っていた。
「押せばいいんですよね」
真人の声がした。
だが、その声には、いつもより少しだけ迷いがあった。
ほんの少し。
気のせいかもしれない。
男は、白い床の上で言った。
「読め」
「はい」
白石の声。
「じゃあ」
真人の手が動く。
男は目を閉じなかった。
最後まで見た。
「押しますよ」
カチッ。
十三回目。
男は、白い床の上に立っていた。
また失敗した。
だが、今までとは違っていた。
一瞬だけ、真人は契約書を見た。
赤いボタンではなく、契約書を。
それが本当に届いたのか。
ただの偶然か。
わからない。
わからないが、男は初めて思った。
恐怖よりも。
嫌悪よりも。
「押すな」よりも。
「読め」の方が、届いたのかもしれない。
男は、白い床の上で笑った。
今度の笑いは、壊れた笑いではなかった。
すぐに消えたが、確かに笑いだった。
「失敗か」
呟いた。
失敗だった。
また押した。
また百年が始まった。
だが、失敗の形が変わっていた。
止められなかった。
でも、見る場所は変わった。
ボタンから契約書へ。
欲望から判断へ。
ほんの一瞬だけ。
それでも、男には十分だった。
十分ではない。
足りない。
まったく足りない。
だが、初めて、対策が対策になった気がした。
男は、白い床を見た。
十三回目。
また百年。
また白。
また右足の痛み。
また空腹。
また喉の渇き。
また眠気。
全部、同じ。
それでも、ひとつだけ違う。
押さない方法は、少し見えた。
恐怖ではない。
嫌悪ではない。
吐き気ではない。
気のせいで消えるものではない。
読むこと。
見ること。
認めること。
判断すること。
押さない方法は、押す直前の手にはなかった。
押す前の目にあった。
男は、白い床の上で呟いた。
「次は、読ませる」
白い空間は何も答えなかった。
だが、それが答えではないことを、男はもう知っていた。




