第八話 一緒に歩いてくれなかった
六回目。
男は、白い床の上にいた。
もう叫ばなかった。
笑いもしなかった。
ただ、立っていた。
右足が痛い。
腹は減っている。
喉は渇いている。
眠い。
全部、同じだった。
白いタイル。
壁はない。
天井はない。
風もない。
匂いもない。
男は、ポケットからスマホを取り出した。
二〇二五年三月十一日。
午後三時四十七分。
六十三パーセント。
圏外。
右上のひび。
いつもの画面だった。
男は写真フォルダを開いた。
七枚。
いつもの七枚。
CR大富豪。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
男の指が、大戸屋の定食で止まった。
焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
湯のみ。
箸袋。
白い皿。
黒い盆。
画面の端に、細い指が写っていた。
袖口も少しだけ写っている。
薄い水色の袖。
沙紀の指だった。
顔は写っていない。
声も写っていない。
笑ったときの目元も。
呆れたときに少し上がる眉も。
何も写っていない。
ただ、指だけが写っている。
男は、その写真を見つめた。
どうして、顔を撮らなかったのだろう。
どうして、こんな定食だけ撮ったのだろう。
焼き魚は写っている。
味噌汁も写っている。
箸袋も写っている。
湯のみについた水滴まで写っている。
なのに、沙紀の顔はない。
男は、写真を拡大した。
沙紀の指先が大きくなる。
爪は短く切られていた。
指輪はしていない。
当然だ。
まだ結婚していなかった。
結婚するはずだったのか。
するつもりだったのか。
それも、もうわからない。
男は、画面の端の指先を見ながら、名前を呼んだ。
「沙紀」
声は白い床に落ちた。
落ちて、消えた。
大戸屋のざわめきが、遠くで聞こえた気がした。
茶碗の音。
注文を取る声。
入口の自動ドアの音。
味噌汁の匂い。
焼き魚の湯気。
白い床の上に、それらが少しずつ浮かんでくる。
真人が沙紀と出会ったのは、大学一年の春だった。
同じ一般教養の授業だった。
広い講義室。
前の方には真面目な学生が座り、後ろの方には遅れてきた学生が固まっていた。
真人は、後ろから三列目の端に座っていた。
一限だった。
眠かった。
隣の席に、沙紀が座った。
「ここ、空いてる?」
真人は顔を上げた。
「たぶん」
「たぶんって」
沙紀は笑った。
その笑い方を、真人は覚えていた。
笑うと、少し目尻が下がる。
人を責める感じではない。
でも、ちゃんと見ている感じがある。
沙紀はレジュメを二枚持っていた。
「はい」
「え?」
「入口で配ってた。取ってないでしょ」
「ああ、ありがとう」
真人は受け取った。
「なんでわかったの」
「手ぶらだったから」
沙紀はそう言って、ノートを開いた。
真人は笑った。
「まあ、なんとかなるかなって」
沙紀は横目で見た。
「いきなり?」
「何が」
「なんとかなる、って」
「ならない?」
「今はなるかもね」
沙紀は前を向いた。
「今はね」
そのとき真人は、その言葉を気にしなかった。
今はなる。
それで十分だった。
大学時代の真人は、よく笑った。
授業には遅れた。
レポートは締切前日の夜に書いた。
サークルの集合時間にも、たいてい五分から十分遅れた。
それでも、誰かが笑って許してくれた。
真人も笑っていた。
「ごめんごめん」
「また?」
「でも間に合ったっしょ」
「ギリギリね」
沙紀は呆れながらも笑った。
その頃の「なんとかなるっしょ」は、まだ明るかった。
真人の軽さは、周りを楽にすることもあった。
深刻になりすぎない。
失敗しても、空気を重くしない。
レポートで焦っている友人に、真人は言った。
「大丈夫だって。一緒にやれば終わるよ」
その言葉に救われた人もいた。
沙紀も、最初はその軽さが嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
真人といると、張りつめなくて済んだ。
沙紀はきちんとしている方だった。
授業にも出た。
メモも取った。
予定も立てた。
だからこそ、真人の適当さが少し面白かった。
「真人って、ほんとギリギリで生きてるよね」
「でも、生きてる」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題?」
「いつか困るよ」
「そのとき考える」
「そのときって、いつ?」
「そのとき」
真人がそう言うと、沙紀は呆れて笑った。
「出た」
「何が」
「真人の、未来送り」
未来送り。
沙紀はそう呼んだ。
真人はその言葉も笑って流した。
未来送り。
明日でいい。
来週でいい。
卒業してからでいい。
就職してからでいい。
いつか考えればいい。
そのいつかは、なかなか来なかった。
大学三年の夏、二人は付き合い始めた。
特別な告白があったわけではない。
何度も一緒に昼を食べた。
図書館で並んで座った。
雨の日に一本の傘で駅まで歩いた。
沙紀が傘を持っていて、真人は肩を濡らしていた。
「もっとこっち寄れば」
「いいよ。沙紀が濡れる」
「じゃあ、傘持って」
「俺?」
「真人の方が背高いんだから」
真人は傘を受け取った。
二人の距離が近くなった。
沙紀の肩が、真人の腕に触れた。
駅までの道を、二人で歩いた。
そのときは、歩いていた。
同じ速度で。
同じ雨の中を。
同じ傘の下で。
社会人になってからも、しばらくは続いていた。
真人は清都レジデンスに入った。
沙紀は別の会社に就職した。
業種は違った。
休日も完全には合わなかった。
それでも、月に何度か会った。
仕事帰りに駅で待ち合わせた。
安い居酒屋に入った。
ファミレスにも行った。
大戸屋にも行った。
沙紀はよく食事の写真を撮った。
「また撮るの?」
真人は笑って言った。
「撮るよ」
「毎回?」
「毎回じゃないよ」
「毎回じゃん」
沙紀はスマホを構えながら言った。
「あとで見返すと、その日のこと思い出すじゃん」
「食べたものを?」
「食べたものだけじゃなくて」
沙紀は写真を撮った。
カシャッ。
「誰と食べたかとか、何を話したかとか」
真人は箸を持ったまま笑った。
「写真見なくても覚えてるって」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんじゃん」
沙紀は笑った。
「真人は、絶対忘れる」
「ひどいな」
「だって忘れるもん」
真人は、そのとき反論しなかった。
反論するほど大事な話だと思っていなかった。
食事の写真。
湯気。
箸袋。
湯のみ。
店のざわめき。
その日の会話。
そんなものは、いつでも思い出せると思っていた。
でも、白い床の上で、男は写真を見ていた。
思い出せるのは、焼き魚の形だった。
味噌汁の椀だった。
湯のみの位置だった。
沙紀の顔は、写真にない。
写真にないものは、少しずつ遠くなる。
清都レジデンスで真人が売れなくなっていくと、二人の食事の空気も変わっていった。
最初の頃、真人は愚痴を笑いに変えていた。
「今月もゼロ」
「笑って言うことじゃないでしょ」
「いや、もう逆にすごくない?」
「すごくない」
沙紀はそう言いながらも、話を聞いた。
「何が難しいの?」
「客が細かい」
「家買うんだから、細かくなるでしょ」
「まあね」
「上司は?」
「片桐さん? 厳しい」
「どう厳しいの」
「確認しろ、準備しろ、報告しろって」
「それは普通じゃない?」
「普通だけどさ」
真人は味噌汁をすすった。
「なんか、ずっと詰められてる感じ」
沙紀は箸を置いた。
「真人が困ってること、片桐さんにちゃんと言ってる?」
「言ってるよ」
「ほんとに?」
「まあ、だいたい」
「だいたい?」
真人は笑った。
「大丈夫だって」
沙紀は、そこで少し黙った。
「大丈夫じゃないときも、真人は大丈夫って言うよね」
「そう?」
「そう」
「心配かけたくないだけだよ」
「それ、心配させないことになってない」
真人は返事をしなかった。
その頃から、沙紀は少しずつ現実の話をするようになった。
仕事を続けるのか。
転職を考えるのか。
生活は大丈夫なのか。
借金はないのか。
家賃は払えているのか。
将来どうしたいのか。
真人は、そのたびに話をずらした。
「今日はそういう話やめようぜ」
「じゃあ、いつするの」
「また今度」
「今度っていつ」
「落ち着いたら」
「何が落ち着いたら?」
「仕事とか」
「仕事が落ち着くまで、何も話さないの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、話そうよ」
真人は笑った。
笑って、水を飲んだ。
「沙紀は真面目だな」
沙紀は笑わなかった。
「真人が真面目に話さないだけだよ」
その言葉は、真人に少し刺さった。
刺さったが、すぐに抜いた。
「ごめんごめん」
軽く言った。
「今度ちゃんと話す」
今度。
沙紀は、その言葉を聞くたびに、少しずつ表情を変えた。
怒るのではない。
責めるのでもない。
ただ、待つ顔から、諦める顔に変わっていった。
真人は、それを見るのが嫌だった。
だから見なかった。
見ないようにした。
清都レジデンスでの失敗が続くと、真人はさらに話さなくなった。
売れないこと。
片桐に言われたこと。
契約が流れたこと。
年収が低いこと。
会社に居場所がなくなっていること。
本当は全部、沙紀に話せたはずだった。
話せばよかった。
だが、話したら自分が惨めになる気がした。
沙紀に心配されるのが嫌だった。
同情されるのも嫌だった。
頼りないと思われるのも嫌だった。
だから、真人は先に笑った。
自分で自分を軽く扱えば、誰かに軽く扱われる前に済む気がした。
「まあ、俺、向いてないのかもな」
「それで、どうするの?」
沙紀が聞く。
「どうするって?」
「続けるのか、辞めるのか、他を探すのか」
「まだわかんない」
「じゃあ、一緒に考えようよ」
真人は、水のグラスを回した。
「考えたって、すぐどうにかなるわけじゃないし」
「すぐどうにかする話じゃないよ」
「じゃあ、今じゃなくてよくない?」
沙紀は黙った。
その沈黙が重かった。
真人は耐えられなくなって、また笑った。
「大丈夫だって。なんとかなるっしょ」
沙紀は、そのとき、少しだけ目を伏せた。
「それ、もう聞きたくない」
真人は何も言えなかった。
大戸屋の写真は、その頃に撮ったものだった。
別れの日ではない。
まだ、完全には壊れていなかった日。
だが、もう戻れないところに近づいていた日。
その日は、駅前の大戸屋に入った。
真人は焼き魚定食を頼んだ。
沙紀は鶏と野菜の黒酢あんを頼んだ。
席は二人がけだった。
真人の前には、焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
湯のみ。
箸袋。
沙紀はいつものようにスマホを出した。
だが、その日は撮らなかった。
真人はそれに気づいた。
「今日は撮らないの?」
沙紀は少し驚いたように真人を見た。
「え?」
「写真」
「ああ」
沙紀は箸袋を手で触った。
「いいかな、今日は」
真人は、なぜかその沈黙が怖かった。
だから、ふざけるようにスマホを出した。
「じゃあ、俺が撮る」
「真人が?」
「うん。沙紀の真似」
「珍しい」
真人はスマホを構えた。
定食に向けた。
沙紀が少し笑うと思った。
「ほら、あとで見返すと、その日のこと思い出すんでしょ」
沙紀は、笑わなかった。
「そうだね」
それだけ言った。
カシャッ。
写真が撮れた。
焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
湯のみ。
箸袋。
画面の端に、沙紀の指先と袖口が少しだけ写った。
真人はその写真を見て、軽く言った。
「あ、沙紀ちょっと写ってる」
沙紀は画面を覗いた。
「ほんとだ」
「顔は写ってないけど」
「いいよ」
「撮り直す?」
沙紀は首を振った。
「いい」
その「いい」は、写真のことだけではなかったのかもしれない。
今なら、そう思う。
だが、そのときの真人は気づかなかった。
食事のあいだ、沙紀は何度か話そうとした。
真人も、それを感じていた。
感じていたからこそ、先に別の話をした。
隣の席の親子。
店員の声。
会社のどうでもいい噂。
大学時代の友人の話。
話題を増やせば、肝心な話をしなくて済む。
その日の帰り、駅前で沙紀が言った。
「真人」
「ん?」
「今度、ちゃんと話したい」
真人は改札の方を見た。
「うん」
「今度じゃなくて、日を決めたい」
「そんな大げさな」
「大げさじゃない」
沙紀の声は静かだった。
「このままだと、私、きつい」
真人はそこで、初めて沙紀の顔を見た。
疲れていた。
怒っているというより、疲れていた。
片桐と同じだと思った。
疲れた人間の顔。
少しずつ離れていく顔。
真人は怖くなった。
「ごめん」
すぐに言った。
「ちゃんとするから」
「何を?」
「いろいろ」
「いろいろじゃわからない」
「だから、仕事とか、生活とか」
「いつ?」
「近いうち」
沙紀は目を閉じた。
「またそれ」
真人は黙った。
沙紀は小さく息を吐いた。
「来週の日曜、空いてる?」
「たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「空いてる」
「じゃあ、話そう」
真人は頷いた。
「わかった」
わかった。
その言葉は、いつも使っていた。
本当にわかっていなくても、使えた。
来週の日曜、真人は遅れた。
寝坊した。
前日の夜、会社のことを考えて眠れなかった。
朝になって、少しだけ寝るつもりだった。
気づいたら、待ち合わせの時間を過ぎていた。
スマホには、沙紀からの着信が三件あった。
メッセージも来ていた。
今どこ?
大丈夫?
待ってるね。
最後のメッセージから、四十分経っていた。
真人は急いで電話した。
沙紀は出た。
「ごめん、寝坊した」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
「うん」
「今から行く」
「無理しなくていいよ」
「いや、行くって」
「今日は、いい」
「ごめん。本当にごめん」
「うん」
「来週でもいい?」
自分で言って、まずいと思った。
だが、もう言っていた。
沙紀は、少しだけ笑ったような声を出した。
笑っていない声だった。
「真人」
「うん」
「来週は、もういい」
その日、話し合いは流れた。
契約と同じだった。
書類がないから流れたのではない。
時間に間に合わなかったから流れたのではない。
本当は、もっと前から流れていた。
翌週、沙紀から会いたいと連絡があった。
駅から少し離れた喫茶店だった。
沙紀は先に来ていた。
テーブルの上には、水のグラスが二つあった。
「ごめん」
真人は座ってすぐに言った。
「この前は、本当に」
沙紀は首を振った。
「今日は、謝ってほしいわけじゃない」
真人は黙った。
喫茶店の中は静かだった。
隣の席では、年配の女性二人が旅行の話をしていた。
入口のベルが鳴るたびに、真人はそちらを見た。
見なくていいものばかり見ていた。
目の前の沙紀を、見られなかった。
沙紀は言った。
「真人が売れないことを責めたいんじゃない」
真人は顔を上げた。
「仕事がうまくいってないことも、お金がないことも、それだけなら一緒に考えられると思ってた」
声は静かだった。
怒鳴らない。
責め立てない。
だから、逃げ場がなかった。
「でも、真人は話してくれなかった」
真人は何か言おうとした。
沙紀が続けた。
「大丈夫じゃないのに、大丈夫って言う」
「それは」
「考えなきゃいけないことを、全部あとにする」
真人は口を閉じた。
「私が聞くと、笑って逃げる」
水のグラスの中の氷が、かすかに鳴った。
「失敗したなら、失敗したって言ってほしかった」
沙紀は言った。
「情けないなら、情けないって言ってほしかった」
真人は、膝の上で手を握った。
「一緒に考えたかった」
その言葉が、胸に刺さった。
「でも、真人は」
沙紀はそこで少し止まった。
言葉を選んでいるようだった。
それから、はっきりと言った。
「真人は、一緒に歩いてくれなかった。」
真人は、すぐには意味がわからなかった。
一緒に歩いていなかった?
会っていた。
食事もした。
駅まで歩いた。
雨の日には傘も持った。
隣にいた。
ずっと、隣にいたつもりだった。
だから、真人は間違えた。
「俺が、頼りなかったから?」
沙紀は悲しそうに目を伏せた。
「そうじゃない」
「売れなかったから?」
「違う」
「金がないから?」
「違うよ」
真人は、少し苛立った。
違うなら、何なんだ。
「じゃあ、何」
声が強くなった。
「どうすればよかったの」
沙紀は真人を見た。
その目は、怒っていなかった。
ただ、もう戻らないところにある目だった。
「一緒に見てほしかった」
「何を」
「現実を」
真人は黙った。
「怖いことも、情けないことも、失敗したことも、これからどうするかも」
沙紀はゆっくり言った。
「一緒に見てほしかった」
真人は、水のグラスを見た。
氷が溶けていた。
「でも、真人は見なかった」
沙紀は言った。
「私が話そうとすると、いつも先に笑った」
真人は、何も言えなかった。
「なんとかなるっしょって」
その言葉を沙紀の口から聞くと、ひどく軽く聞こえた。
軽すぎて、薄すぎて、自分が恥ずかしくなった。
「私は、真人に成功してほしかったんじゃない」
沙紀は言った。
「失敗してもよかった」
真人は顔を上げた。
「でも、失敗したところに、私も立たせてほしかった」
その言葉は、真人には難しかった。
難しかったから、受け取れなかった。
そのときの真人は、ただこう思った。
見捨てられた。
売れなかったから。
情けなかったから。
男として頼りなかったから。
沙紀は、自分を見限った。
そう思った方が、簡単だった。
その方が、怒れた。
「わかった」
真人は言った。
本当は、何もわかっていなかった。
沙紀は、少しだけ目を細めた。
「わかってないと思う」
真人は黙った。
「でも、もういい」
それが終わりだった。
沙紀は席を立った。
伝票を持とうとしたので、真人が止めた。
「俺が払う」
沙紀は少し迷って、手を離した。
「ありがとう」
最後まで、沙紀は丁寧だった。
店を出て、駅まで少し歩いた。
二人のあいだには、半歩分の距離があった。
大学時代の雨の日より、ずっと広かった。
駅前で沙紀は立ち止まった。
「元気でね」
ありきたりな言葉だった。
だが、その言葉が出るまでに、沙紀がどれだけ考えたのかは、わからなかった。
真人は頷いた。
「沙紀も」
それで終わった。
沙紀は改札の中へ入っていった。
真人は外に残った。
見送った。
いや、見送ったふりをした。
沙紀の背中が人混みに紛れる前に、真人は目をそらした。
見ていられなかった。
一緒に歩いてくれなかった。
その言葉を、真人は何度も思い出した。
最初は、腹が立った。
歩いていたじゃないか。
何度も一緒に歩いた。
大学の帰り道も。
雨の日も。
駅までの道も。
大戸屋からの帰りも。
歩いていた。
そう思った。
でも、沙紀が言っていたのは、道のことではなかった。
それに気づくまで、真人には百年が必要だった。
いや。
百年でも足りなかった。
白い床の上で、男はスマホを見ていた。
大戸屋の写真。
焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
湯のみ。
箸袋。
画面の端の指先。
沙紀の顔はない。
真人は、沙紀の顔を撮っていなかった。
その日も。
その前も。
ずっと。
顔を見ていたつもりだった。
声を聞いていたつもりだった。
隣にいたつもりだった。
でも、本当には見ていなかった。
沙紀が疲れていく顔を。
話そうとして、言葉を飲み込む口元を。
写真を撮らなくなった手を。
「今度」と言われるたびに、少しずつ諦めていく目を。
見ていなかった。
男は、写真の端の指先を見つめた。
「一緒に歩いてくれなかった」
声に出した。
その言葉は、前よりも静かだった。
見捨てられたのだと思っていた。
売れなかったから。
金がなかったから。
情けなかったから。
だが、違う。
たぶん、違う。
沙紀は、先に歩いていったのではなかった。
真人が、歩かなかった。
いや、歩いているふりをしていた。
同じ場所に立ったまま。
笑っていた。
「なんとかなるっしょ」
そう言いながら。
男は、白い床の上で膝を抱えた。
沙紀の指先は、画面の端にある。
そこにあるのに、触れない。
拡大しても、顔は出てこない。
どれだけ見ても、写っていないものは写らない。
真人は、その写真を撮った。
沙紀の真似をして。
その日のことを思い出すために。
だが、真人が撮った写真には、沙紀がいなかった。
いや。
いた。
指先だけが、いた。
それが、真人の見ていた沙紀だったのかもしれない。
都合のいい部分だけ。
自分を支えてくれる手だけ。
自分の隣に置かれた指先だけ。
顔は見ていなかった。
言葉も聞いていなかった。
歩幅も合わせていなかった。
男は目を閉じた。
白い空間に、大戸屋の湯気が浮かんだ。
味噌汁の匂い。
箸袋。
沙紀の声。
「あとで見返すと、その日のこと思い出すじゃん」
真人は、画面を見た。
思い出した。
思い出してしまった。
その日のことを。
その前のことも。
その後のことも。
男は、スマホを胸に当てた。
右足が痛い。
腹は減っている。
喉は渇いている。
眠い。
全部、同じだった。
変わらない。
何も変わらない。
それでも、ひとつだけ変わっていた。
沙紀の言葉の意味が、少しだけ変わっていた。
「一緒に歩いてくれなかった」
男は、もう一度呟いた。
白い床は何も答えなかった。
それでも、今度は少しだけ、答えを聞いた気がした。




