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第七話 流れた契約

「契約」


男は、白い床の上で呟いた。


清都レジデンスの会議室。


ホワイトボード。


赤いゼロ。


片桐の声。


それらが、白い床の上に浮かんでは消えていく。


「契約って、なんだっけ」


男は笑った。


笑った声は、すぐに消えた。


契約。


その言葉だけは、消えなかった。


白石の契約書。


分厚い紙。


別途約款。


赤いボタン。


それより前にも、真人は契約に触れていた。


ずっと前から。


清都レジデンスにいた頃から。


毎日のように。


契約書を見ていた。


重要事項説明書を見ていた。


約款を見ていた。


物件概要書。


資金計画書。


管理規約。


住宅ローンの書類。


どれも紙だった。


文字だった。


押印欄だった。


署名欄だった。


真人にとって、それらはいつも、面倒なものだった。


必要なのはわかっていた。


大切なのも、頭ではわかっていた。


だが、本当にはわかっていなかった。


客が笑っている。


物件を気に入っている。


家族も前向きらしい。


ローンも、たぶん通る。


それなら、書類はあとで何とかなる。


真人は、いつもそう思っていた。


何とかなる。


その言葉の先に、誰が動くのかを考えなかった。


ある春の日だった。


清都レジデンスの販売センターには、朝から来場予約が入っていた。


三十代前半の夫婦。


夫は細身で、黒縁の眼鏡をかけていた。


妻は淡いベージュのワンピースを着ていた。


腹が少しふくらんでいた。


妊娠しているのだと、すぐにわかった。


妻は受付で椅子に座るとき、片手を腹に添えた。


夫が自然に椅子を引いた。


その動きが、真人には少しまぶしかった。


「お待たせいたしました。担当の五味です」


真人は名刺を差し出した。


夫は丁寧に受け取った。


「よろしくお願いします」


妻も軽く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


二人は怒鳴るタイプではなかった。


急かすタイプでもなかった。


質問も穏やかだった。


だが、細かかった。


それが、真人には少し苦手だった。


「保育園は、このあたりだとどこになりますか」


妻が聞いた。


「ええと、近くにいくつかあります」


真人は資料をめくった。


「徒歩圏内にもありますし」


「待機児童はどうですか」


「そこは、区の方針もありますので」


「確認できますか」


「あ、はい。確認します」


夫が続けた。


「修繕積立金は、将来的に上がる予定がありますか」


「一般的には、ありますね」


「この物件では、具体的に何年目でどれくらい上がる計画ですか」


「ええと」


真人は資料を探した。


どこかに書いてあるはずだった。


長期修繕計画。


管理費。


修繕積立金。


段階増額。


どれも、説明会で聞いた気がする。


だが、そのページがすぐに出てこなかった。


「すみません、そこは後ほど正確なものを確認してお伝えします」


夫はうなずいた。


「わかりました」


責めなかった。


妻も、微笑んだだけだった。


「すみません、細かくて」


「いえいえ。大切なことですから」


真人はそう言った。


言葉だけは、きれいに言えた。


それからモデルルームを案内した。


明るいリビング。


対面キッチン。


子ども部屋にできそうな洋室。


ベビーカーも置けそうな玄関。


妻は、リビングの窓際で立ち止まった。


「ここ、日当たりいいですね」


「はい。午前中からかなり明るいです」


「子どもが生まれたら、ここにプレイマットを敷いてもいいね」


妻がそう言った。


夫が少し笑った。


「まだ早いでしょ」


「早くないよ。すぐだよ」


その会話を聞いて、真人は思った。


これは、いける。


この夫婦は買う。


今度こそ、契約になる。


案内が終わったあと、二人はかなり前向きだった。


ローンの相談もした。


資金計画も作った。


両家の親から少し援助があるという話も出た。


妻は何度も腹に手を置きながら、図面を見ていた。


「この部屋なら、しばらくは三人で暮らせますよね」


「はい。お子様が小さいうちは十分だと思います」


真人は答えた。


「将来的にもう一人、となると少し手狭かもしれませんが」


「そこまで先は、まだわからないです」


妻が笑った。


真人も笑った。


空気は悪くなかった。


むしろ、よかった。


この空気なら大丈夫だと思った。


何とかなる。


その日の夕方、片桐に報告した。


「一件、かなり前向きです」


片桐はすぐには喜ばなかった。


「前向きって、どこまで」


「ローンの話までしました」


「事前審査は」


「これからです」


「親の援助は確認した?」


「あるそうです」


「金額は」


「そこまではまだ」


「夫婦の意思は」


「奥様はかなり気に入ってます。ご主人も前向きです」


片桐はペンを置いた。


「五味」


「はい」


「詰めろ」


「はい」


「このまま放っておくな。今日中に確認事項を全部出して、明日には回答しろ」


「はい」


「修繕積立金、保育園、ローン、親の援助、契約日程。全部だぞ」


「はい」


「あと、契約書類の準備も早めに始めろ」


「はい」


真人は頷いた。


頷いた。


そのときは、本当にやるつもりだった。


机に戻り、メモを書いた。


修繕積立金。


保育園。


ローン。


親援助。


契約書類。


重要事項説明書。


その下に、丸をつけた。


明日やる。


そう書いた。


翌日、別の客から電話が入った。


内見日程の変更。


それに対応した。


昼過ぎ、別の部門に提出するはずだった資料が、まだ完成していないことを思い出した。


それもやった。


夕方、修繕積立金の資料を探した。


どこに入っているかわからなかった。


管理部に聞けばいい。


そう思った。


だが、管理部はもう席を外していた。


明日でいいか。


そう思った。


保育園のことは、区のホームページを見ればわかる。


あとで調べよう。


ローンの事前審査は、夫から必要書類をもらってからでいい。


親の援助は、次回聞けばいい。


契約書類は、まだ正式な日程が決まってからでいい。


ひとつひとつは、小さな先送りだった。


真人には、それが危険に見えなかった。


まだ時間がある。


客も急いでいない。


むしろ、妻の出産までは余裕があると言っていた。


何とかなる。


その言葉が、また出た。


二日後、夫からメールが来た。


修繕積立金と保育園の件、いかがでしょうか。


丁寧な文面だった。


急かしていない。


ただ、確認だった。


真人は返信を書きかけた。


現在確認中です。


正確な資料を確認のうえ、改めてご連絡いたします。


送信した。


送信したことで、少し安心した。


対応している。


そう思えた。


だが、実際には何も進んでいなかった。


三日後、片桐に聞かれた。


「五味、あの夫婦どうなってる」


「前向きです」


「回答した?」


「いま確認中です」


「何を」


「修繕積立金と保育園です」


「まだ?」


真人は黙った。


片桐は深く息を吐いた。


「五味、契約日は」


「来週末で調整中です」


「調整中って、誰と」


「お客様と」


「書類は」


「これからです」


片桐の目が、少し細くなった。


「これから?」


「はい。日程が確定したら」


「日程が確定してからじゃ遅い」


真人は答えられなかった。


片桐はパソコンの画面を閉じた。


「五味、今から一緒に確認するぞ」


「はい」


そこから、片桐が一つずつ確認した。


修繕積立金の増額予定。


管理規約。


重要事項説明書の該当箇所。


物件の登記情報。


ローン事前審査に必要な書類。


契約当日の持ち物。


印紙。


手付金。


説明すべきリスク。


片桐が確認すると、次々に足りないものが出てきた。


真人は、何度も「すみません」と言った。


片桐は怒鳴らなかった。


ただ、手を止めなかった。


「謝るより、今埋めろ」


「はい」


「ここ、客に聞いた?」


「まだです」


「今電話」


「はい」


夫に電話した。


つながらなかった。


妻にも電話はできない。


メールを送った。


返信はその日の夜に来た。


すみません、仕事で遅くなりました。


必要書類は週末にそろえます。


保育園の件もありがとうございます。


契約日は、来週土曜の午後で大丈夫です。


真人は、そのメールを見て、胸の奥が軽くなった。


大丈夫だ。


間に合う。


やっぱり、何とかなった。


翌日から、真人は契約書類の準備を始めた。


だが、始めたと言っても、片桐に言われた順番にファイルを開き、印刷し、チェック欄を埋めていくだけだった。


わからない箇所が出るたびに、手が止まる。


これは説明するのか。


これは添付するのか。


この日付はどちらか。


この条項は最新のものか。


聞けばいい。


片桐に聞けばいい。


そう思う。


だが、片桐も忙しかった。


別の契約。


別の部下。


会議。


電話。


真人は、片桐の席を見る。


声をかけようとする。


やめる。


あとで聞こう。


そう思う。


あとで。


また、あとで。


契約前日。


まだ書類は揃っていなかった。


真人は夜まで残った。


プリンターから紙が出てくる。


契約書。


重要事項説明書。


管理規約。


長期修繕計画。


添付資料。


厚い束になる。


紙は揃っているように見えた。


だが、確認できていない箇所がいくつか残っていた。


片桐は外出していた。


戻るのは遅い。


真人は時計を見た。


午後九時過ぎ。


明日の午前中に確認すればいい。


契約は午後だ。


まだ時間はある。


そう思った。


翌日。


契約当日。


真人は昼前に出社した。


前夜、ほとんど眠れなかった。


だが、それは緊張のせいだと思っていた。


机に書類を広げる。


確認する。


足りない。


添付すべき資料が一枚ない。


長期修繕計画の最新版ではなく、古いものを印刷していた。


管理規約の差し替えページも抜けている。


真人の手が冷たくなった。


管理部に電話する。


担当者が席を外している。


メールを送る。


返事が来ない。


片桐に電話する。


出ない。


契約時間は、午後三時。


時計を見る。


午後一時二十分。


まだある。


まだ何とかなる。


管理部から返信が来たのは、午後二時過ぎだった。


最新版の資料は別フォルダにあります。


差し替えページも添付します。


真人は急いで印刷した。


プリンターが詰まった。


紙を抜く。


再印刷する。


ホチキスが切れる。


隣の席から借りる。


書類を並べる。


ページ順が違う。


もう一度並べる。


時計を見る。


午後二時四十七分。


客は、もう来てもおかしくない時間だった。


片桐が戻ってきた。


「五味、準備できてるか」


真人は、書類の束を持ったまま固まった。


「すみません、あと少しです」


片桐の顔色が変わった。


「あと少し?」


「差し替えがあって」


「今?」


「はい」


片桐は一瞬だけ目を閉じた。


それから、早口で言った。


「見せろ」


真人は書類を渡した。


片桐が確認する。


ページをめくる速度が速い。


「ここ抜けてる」


「え」


「この資料、添付必要」


「はい」


「こっちの日付違う」


「すみません」


「印紙は」


「あ」


片桐が真人を見た。


その目を、真人はまともに見られなかった。


受付の方から声がした。


「五味さん、お客様いらっしゃいました」


夫婦が来た。


夫はスーツではなかった。


休日らしい服装だった。


妻はゆったりしたワンピースを着ていた。


腹は、前に会ったときより少し目立つ気がした。


二人とも、穏やかに笑っていた。


「こんにちは」


夫が言った。


「本日はよろしくお願いします」


妻も軽く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


真人は、口の中が乾いた。


喉が動かない。


片桐が前に出た。


「本日はお越しいただきありがとうございます。申し訳ございません、ただいま書類の最終確認に少々お時間をいただいております」


夫は少し驚いた顔をした。


だが、怒らなかった。


「そうですか」


妻が椅子に手を添えた。


片桐はすぐに椅子を引いた。


「どうぞ、おかけください」


妻はゆっくり座った。


腹に手を置く。


真人は、その手を見ていた。


その子のために。


二人はこの家を買おうとしていた。


生まれてくる子どものために。


日当たりのいいリビング。


ベビーカーを置ける玄関。


保育園。


修繕積立金。


将来の支払い。


全部、その子につながっていた。


それなのに、書類がない。


契約できる状態ではない。


片桐が奥で必死に確認している。


真人は何もできない。


数分が、とても長かった。


片桐が戻ってきた。


表情でわかった。


間に合わない。


片桐は夫婦の前に立ち、深く頭を下げた。


「大変申し訳ございません。本日ご説明すべき書類に不備があり、このまま契約手続きを進めることができません」


真人は、隣で頭を下げた。


何も言えなかった。


夫は黙っていた。


妻も黙っていた。


怒鳴られると思った。


責められると思った。


だが、夫は静かに言った。


「書類がないなら、また出直します」


真人は顔を上げそうになった。


「時間には、まだ余裕がありますので」


夫は妻を見た。


妻も小さくうなずいた。


「書類ができたら、連絡ください」


責めなかった。


だからこそ、痛かった。


怒られた方がよかった。


「何やってるんですか」と言われた方がよかった。


「信用できません」と、その場で言われた方がよかった。


だが、二人は怒らなかった。


静かに立ち上がった。


妻は椅子から立つとき、腹に手を添えた。


夫が自然に支えた。


真人は、その動きを見ていた。


夫婦は、最後まで丁寧だった。


「では、またご連絡をお待ちしています」


夫がそう言った。


真人は、頭を下げた。


「申し訳ございません」


それしか言えなかった。


夫婦が帰ったあと、販売センターは妙に静かだった。


片桐はしばらく何も言わなかった。


真人も何も言えなかった。


机の上には、契約書類の束があった。


厚い紙の束。


署名欄。


押印欄。


説明すべき項目。


抜けていた資料。


差し替え忘れたページ。


片桐は、その束を見ていた。


それから、真人を見た。


「五味」


「はい」


「お前さ」


声は静かだった。


「契約を何だと思ってるの」


真人は何も言えなかった。


その言葉は、前にも聞いた。


だが、その日は違った。


片桐の声には、怒りよりも疲れがあった。


怒鳴る力さえ、もう残っていないようだった。


「すみません」


真人は言った。


「本当に、すみません」


「俺に謝るな」


片桐は言った。


「お客様に謝れ」


真人は黙った。


「いや」


片桐は自分で言葉を止めた。


「謝ればいいって話でもないな」


その言葉が、いちばん痛かった。


夕方、真人は夫にメールを送った。


本日の不手際への謝罪。


書類を整え次第、改めて連絡すること。


今後は片桐も同席すること。


何度も読み直した。


誤字がないか確認した。


送信した。


返事はなかった。


その日の夜。


電話が鳴った。


夫からだった。


真人は急いで出た。


「本日は申し訳ございませんでした」


電話の向こうで、夫は静かに言った。


「いえ」


その声は、昼間と同じく穏やかだった。


穏やかすぎた。


「妻とも話したのですが、今回は見送らせていただきたいと思います」


真人は、何かを言おうとした。


言葉が出なかった。


「物件自体は気に入っていました」


夫は続けた。


「ただ、契約前の段階で少し不安が残ってしまったので」


不安。


その言葉は、怒りよりも冷たかった。


「大きな買い物ですし、子どもも生まれるので、やはり安心して進めたいと思いまして」


真人は、受話器を持つ手に力を入れた。


「申し訳ございません」


それしか言えない。


「いえ。こちらこそ、お手数をおかけしました」


最後まで、夫は丁寧だった。


電話は切れた。


真人は、しばらく受話器を持ったまま立っていた。


契約は流れた。


やっと届きそうだった一件。


初めて、自分の名前の横にゼロ以外の数字が入るかもしれなかった一件。


それが、流れた。


怒鳴られたわけではない。


責められたわけでもない。


ただ、選ばれなかった。


信用されなかった。


真人はゆっくり受話器を置いた。


片桐は、少し離れたところでその様子を見ていた。


何も聞かなかった。


聞かなくてもわかったのだろう。


真人は言った。


「キャンセルです」


片桐は目を閉じた。


短く息を吐いた。


「そうか」


それだけだった。


その日から、片桐は真人に怒鳴らなくなった。


厳しく言わなくなった。


細かく確認もしなくなった。


それは、信頼されたからではなかった。


期待されなくなったからだった。


真人にも、それはわかった。


わかったが、どうすればいいのかわからなかった。


翌週、営業会議のホワイトボードには、また名前が並んだ。


佐伯。


村瀬。


大野。


五味。


五味 〇件。


ゼロ。


片桐は、そのゼロに何も言わなかった。


その沈黙が、真人には耐えられなかった。


白い床の上で、男は笑った。


「あは」


また、あのホワイトボードが浮かんでいた。


五味 〇件。


流れた契約。


妊娠中の妻。


腹に添えた手。


夫の丁寧な声。


「書類がないなら、また出直します」


「安心して進めたいと思いまして」


契約を軽く見た。


確認を先に延ばした。


書類を読まなかった。


間に合うと思った。


なんとかなると思った。


ならなかった。


そして最後に、自分はまた契約書を読まなかった。


白石の前で。


約款を止めた。


「ああ、大丈夫です」


「いいですって」


男は、白い床の上で両手を見た。


契約書に署名した手。


書類を揃えられなかった手。


赤いボタンを押した手。


同じ手だった。


男は、ぼそぼそと呟いた。


「契約を、何だと思ってるの」


片桐の声だった。


白石の声にも聞こえた。


自分の声にも聞こえた。


白い床は何も答えなかった。


それが、答えだった。


それから、どれくらい経ったのか。


男は、もう契約書のことばかり考えていた。


清都レジデンスの契約書。


夫婦の流れた契約。


白石の契約書。


別途約款。


同じ言葉が、白い床の上で何度も重なった。


契約。


契約。


契約。


百年目の三月十一日。


午後三時四十七分。


声がした。


「おかえりなさいませ」


男は顔を上げた。


赤いボタンがあった。


白石がいた。


「ご判断を」


男は笑った。


契約を軽く見た男が、また契約に戻されている。


「押せばいいんですよね」


声は、自分のものだった。


「はい」


「じゃあ」


押すな。


そう思った。


だが、思っただけだった。


「押しますよ」


カチッ。

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