第六話 清都レジデンス
カチッ。
音がした。
次の瞬間、白かった。
男は、白い床の上にいた。
「……」
声が出なかった。
いや、出ていたのかもしれない。
喉は開いていた。
口も開いていた。
息もしていた。
だが、言葉にはならなかった。
白いタイル。
壁はない。
天井はない。
風もない。
匂いもない。
右足が痛い。
腹は減っている。
喉は渇いている。
眠い。
全部、同じだった。
男は、足元を見た。
床には何もなかった。
一本の線もない。
正の字もない。
百本の傷もない。
何十年も刻み続けたはずの記録は、どこにもなかった。
白い床。
ただの、白い床。
男はゆっくり口を開けた。
「あ」
それだけ出た。
「あ」
もう一度。
「あ、あ」
それから、叫んだ。
「あああああああああああああああああああっ!」
叫びは、白い空間に吸われた。
誰にも届かない。
どこにもぶつからない。
戻ってもこない。
男は叫び続けた。
喉は壊れなかった。
声は枯れなかった。
叫びすぎて倒れることもなかった。
ただ、叫んでいる自分だけがいた。
やがて、叫びは笑いに変わった。
「あは」
小さく漏れた。
「あはは」
男は笑った。
「あはははははは」
笑い続けた。
何がおかしいのかはわからなかった。
床が白いことか。
傷が消えたことか。
百年が消えたことか。
それとも、また押したことか。
「あはははははははははは」
男は膝をついた。
笑ったまま、床に手をついた。
白い床だった。
傷ひとつない。
それが、たまらなくおかしかった。
何も残らない。
写真も。
言葉も。
傷も。
百年も。
自分も。
何も残らないのに、またここにいる。
「あはははははははははは」
笑いは、しばらく続いた。
どれくらい続いたのかはわからない。
一時間か。
一日か。
一年か。
男には、もう区別がつかなかった。
気がつくと、座っていた。
いつ座ったのかはわからない。
立っていたのかもしれない。
倒れていたのかもしれない。
歩いていたのかもしれない。
笑っていたのかもしれない。
全部、同じだった。
男は、白い床の上に座り込んでいた。
スマホを持っていた。
持っていることだけはわかった。
画面を見る。
二〇二五年四月六日。
午前四時三十二分。
六十三パーセント。
圏外。
右上のひび。
四月六日。
男は、その数字を見つめた。
三週間。
そう思った。
ボタンを押した日から、三週間ちょっと。
いや、違う。
三週間なのか。
一年と三週間なのか。
二年と三週間なのか。
それとも、五回目の三週間なのか。
四月六日。
年度が変わっている。
その言葉だけが、妙に現実的だった。
年度。
新年度。
会社。
営業目標。
数字。
男は、口を開いた。
「俺は」
男は呟いた。
「俺は、誰」
声は小さかった。
誰に聞かせるでもない。
ただ、口が動いていた。
「五味」
少し間が空いた。
「真人」
また間が空く。
「三十二歳」
男は笑った。
「あは」
三十二。
本当に。
「三十二歳?」
違う。
違う気がする。
何かが違う。
三十二年。
それは、ボタンを押す前の数字だった。
そのあと、百年。
また百年。
また百年。
また百年。
「じゃあ」
男は指を折ろうとした。
指は折れた。
数えられる。
だが、数えたところで意味がなかった。
「百、二百、三百、四百……」
四回。
四百年。
いま、五回目。
「五百……」
男は笑った。
「俺、五百三十二歳?」
声が震えた。
「いや、違う。体は三十二。中身は四百三十二。いや、何歳? 何年? 百年って本当に百年? そもそも本当に四回? 五回? 四回目って言ったの誰? 俺? 男? 五味?」
笑いがまた漏れた。
「五味」
その名前が、変に聞こえた。
五味。
ごみ。
「ごみ」
男は呟いた。
「あは」
「ゴミじゃん」
白い床は何も答えない。
「五味真人。三十二歳。元、清都レジデンス。年収二百五十万。一件も売れない営業。契約書を読まない。話を聞かない。確認しない。報告しない。なんとかなるっしょ」
そこで、笑いが止まった。
なんとかなるっしょ。
その言葉だけが、白い床の上に残った。
残った気がした。
「ならなかった」
男は言った。
「なんとも、ならなかった」
しばらくして、男はもう一度スマホを見た。
二〇二五年四月六日。
午前四時四十一分。
四月六日。
年度替わりだな。
そう思った。
なぜ、そう思ったのかはわからない。
ただ、四月という数字が、会社の匂いを連れてきた。
新年度。
営業目標。
会議。
ホワイトボード。
男は、思い立ったように写真フォルダを開いた。
七枚。
いつもの七枚。
CR大富豪。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
男は、その中からホワイトボードの写真を開いた。
白い画面。
黒い文字。
赤い数字。
営業目標。
契約件数。
見込み客。
その端に、自分の名前があった。
五味。
〇件。
男は、画面を見つめた。
白い空間には、何もない。
何もないから、内側にあるものだけが見えてくる。
スマホの中のホワイトボードが、白い床の上に広がっていく。
会議室のホワイトボードだった。
清都レジデンス。
中堅のマンション販売会社。
テレビCMも打っていた。
駅のホームには広告があった。
電車の中吊りにも、笑顔の家族と新築マンションの写真が並んでいた。
「都市に、次の暮らしを。」
そんなコピーがあった。
明るい会社だった。
外から見れば。
社内は、もっと熱かった。
朝礼。
営業会議。
数字。
契約件数。
見込み客。
追客リスト。
成約率。
ホワイトボードには、営業の名前が並んでいた。
佐伯 三件。
村瀬 二件。
大野 二件。
片桐チーム 目標達成率八十六パーセント。
その中に、自分の名前もあった。
五味 〇件。
ゼロ。
いつも、ゼロ。
赤いマーカーで囲まれたゼロ。
それが、白い床の上に浮かんでは消えた。
清都レジデンスは、売れれば稼げる会社だった。
売れる営業は、二十代でも年収一千万を超えた。
三十代で二千万の者もいた。
トップ営業は、一億近く稼いでいると噂されていた。
一億。
真人は、その数字を覚えていた。
一億円。
あのボタンの金額と同じだった。
売れる人間なら、ボタンなんて押さなくても届くかもしれない数字。
売れない真人には、一生届かない数字。
真人の年収は、二百五十万ほどだった。
基本給。
少しの手当。
成果なし。
歩合なし。
会社にいるのに、会社の仕組みの外側にいるような年収だった。
片桐は、最初から冷たかったわけではない。
最初の頃は、むしろ丁寧だった。
「五味、まずは客の話を最後まで聞け」
片桐はそう言った。
「売ろうとするな。まず、何に困ってるのかを聞け」
真人は頷いた。
「はい」
頷くのは得意だった。
「はい」は言える。
「わかりました」も言える。
メモも取る。
その場では、ちゃんとやる気があるように見えた。
だが、客の前に出ると、うまくいかなかった。
相手が何を聞きたいのか、途中でわからなくなる。
質問に答えているうちに、資料のどこを見せればいいのかわからなくなる。
返答に詰まると、笑ってごまかす。
「そこは、まあ、なんとかなると思います」
そう言ってしまう。
何とかなる。
その場では、少し空気が軽くなる。
客も、それ以上は強く聞いてこない。
だが、あとで必ず問題になった。
「五味」
片桐は資料を机に置いた。
「ここ、なんで確認してないの」
「すみません」
「管理費の変更予定、聞かれてたよな」
「はい」
「で、なんで答えてないの」
「確認して、あとで連絡しようと思ってました」
「連絡した?」
「まだです」
「なんで」
真人は黙る。
理由はあるようで、なかった。
別の電話が入った。
メールを返していた。
昼を食べそびれていた。
疲れていた。
あとでやろうと思っていた。
そして、あとでが来なかった。
「五味、お前のあとでは、いつ来るの」
片桐は怒鳴らなかった。
その頃は、まだ。
「すみません。今日中にやります」
「今日中じゃ遅いんだよ」
「はい」
「はいじゃなくて。今やれ」
「はい」
真人は電話をかける。
客は出ない。
留守電に入れる。
メールも送る。
それで、少し安心する。
やった。
対応した。
これで何とかなる。
だが、翌日には別の問題が起きていた。
必要書類が揃っていない。
住宅ローンの事前審査の確認が遅い。
内見後のフォローが薄い。
客の希望条件が古いまま更新されていない。
家族構成を間違えている。
子どもがいると思って話したら、まだいなかった。
車を持っていると思って駐車場の話をしたら、免許を持っていなかった。
些細なズレ。
だが、その些細なズレが積み重なる。
客は怒らない。
ただ、少しずつ目が離れていく。
この人に任せて大丈夫だろうか。
そういう顔になる。
真人は、その顔が嫌いだった。
だから、見ないようにした。
見ないようにすると、もっとわからなくなる。
ある日の営業会議。
片桐はホワイトボードの前に立っていた。
「今月、全体としては悪くない」
白いボードに数字が並ぶ。
契約件数。
見込み。
来場予約。
次回商談。
片桐は淡々と話した。
「ただ、チーム内で偏りが大きい」
真人は、自分の名前を見ないようにしていた。
見なくてもわかる。
五味 〇件。
「五味」
名前を呼ばれた。
「はい」
「今月の見込み、何件」
「ええと」
真人は手元の紙を見た。
「三件です」
「そのうち、今週中に詰められるのは」
「一件……だと思います」
「思います?」
片桐の眉が少し動いた。
「はい。かなり前向きなので」
「前向きって何」
「いや、その、反応がよくて」
「反応がいいって、何を見てそう思ったの」
真人は黙った。
客が笑っていた。
うなずいていた。
「いいですね」と言っていた。
それを前向きだと思った。
でも、それをどう説明すればいいのかわからなかった。
片桐はため息をついた。
「五味、営業は感想文じゃないんだよ」
会議室が静かになった。
「客が前向きです。反応がいいです。感触あります。そういうの、全部感想。確認じゃない」
真人は頷いた。
「はい」
「資金計画は確認した?」
「まだです」
「ローン審査は?」
「これからです」
「家族の同意は?」
「奥様は前向きで」
「奥さんじゃなくて、家族全体。親の援助があるって言ってたよな。そこ確認した?」
「まだです」
片桐は、少しだけ目を閉じた。
「じゃあ、それは見込みじゃない」
真人はホワイトボードの自分の名前を見た。
五味 〇件。
赤いゼロ。
その横に、自分で書いた見込み三件。
片桐がそれを消した。
キュッ。
ホワイトボードマーカーの音がした。
三件が、消えた。
「確認できてないものは、見込みに入れるな」
声は静かだった。
怒鳴られるより、きつかった。
真人は頷いた。
「はい」
会議のあと、片桐は真人を残した。
「五味」
「はい」
「お前、やる気がないわけじゃないんだよな」
「あります」
即答した。
「あります」
片桐は真人を見ていた。
「だったら、確認しろ」
「はい」
「準備しろ」
「はい」
「報告しろ」
「はい」
「困ったら早めに言え」
「はい」
「勝手に大丈夫にするな」
真人は少しだけ笑った。
空気を軽くしたかった。
「いや、でも、だいたい何とかなるかなって」
片桐は笑わなかった。
その瞬間、真人は失敗したと思った。
片桐は、しばらく黙っていた。
そして言った。
「その言葉、仕事ではやめろ」
「……はい」
「何とかなるのは、何とかなるように誰かが動いたときだけだ」
真人は頷いた。
「はい」
わかったつもりだった。
本当に、そのときはわかったつもりだった。
だが、翌週にはまた同じことをした。
客への資料送付が一日遅れた。
理由は、小さかった。
印刷機が詰まった。
別件の電話が入った。
昼過ぎに送ろうと思った。
そのまま忘れた。
夜に気づいた。
明日の朝でいいかと思った。
なんとかなると思った。
ならなかった。
客は、別の会社の物件を見に行っていた。
さらに翌週。
物件資料の下読みをしていなかった。
その場で見れば何とかなると思っていた。
ならなかった。
質問された管理費の意味がうまく説明できず、片桐に助けを求めた。
片桐は対応した。
客には丁寧に説明した。
その場は収まった。
だが、終わったあと、片桐は真人に言った。
「五味、お前さ、確認を軽く見すぎなんだよ」
真人は何も言えなかった。
片桐の声は、まだ怒鳴ってはいなかった。
でも、疲れていた。
その疲れが、真人には怖かった。
怒られる方がましだった。
怒っている人間には、まだ熱がある。
疲れた人間は、少しずつ離れていく。
それから、片桐は真人に細かく確認するようになった。
「送った?」
「電話した?」
「読んだ?」
「聞いた?」
「確認した?」
「報告した?」
毎日、同じ言葉を聞いた。
真人は、最初はありがたいと思った。
見てもらえている。
助けてもらえている。
だが、だんだん苦しくなった。
何をするにも、片桐の顔が浮かぶ。
これをやったか。
あれを確認したか。
間違っていないか。
抜けていないか。
そう考えると、逆に動けなくなる。
動けなくなると、また遅れる。
遅れると、報告しづらくなる。
報告しづらいから、黙る。
黙るから、もっと悪くなる。
ある日、片桐は言った。
「五味」
「はい」
「失敗するのはいいんだよ」
真人は顔を上げた。
「でも、失敗を隠すな」
「隠してるつもりは」
「つもりじゃなくて、結果として隠れてる」
片桐は机の上の書類を指で叩いた。
「遅れたら言え。わからなければ聞け。できてないなら、できてないと言え」
「はい」
「何とかなると思って黙るな」
その言葉は、真人の胸に刺さった。
刺さったはずだった。
だが、刺さったものを抜かずに、真人はまた笑った。
「すみません。次から気をつけます」
次。
その言葉が便利だった。
次から。
明日から。
今度から。
次の客では。
次の商談では。
次の月では。
真人は、いつも次に送った。
目の前の確認を。
目の前の不安を。
目の前の失敗を。
そして、次はいつも、今になった。
清都レジデンスの壁には、明るいポスターが貼られていた。
笑顔の家族。
新しいキッチン。
広いリビング。
ベランダから見える青空。
そこには、未来が売られていた。
新しい暮らし。
安心。
家族。
資産。
人生設計。
真人は、その未来を売る仕事をしていた。
だが、自分の今日すら決められなかった。
自分の確認すらできなかった。
自分の失敗すら見られなかった。
白い床の上で、男は笑った。
「あは」
清都レジデンスのホワイトボードが消える。
片桐の声が消える。
赤いゼロだけが残る。
五味 〇件。
ゼロ。
そのゼロが、白い床の上に浮かぶ。
一億円。
ゼロ件。
二百五十万。
百年。
五百三十二歳。
数字ばかりだった。
数字は、男を責めない。
ただ並ぶ。
並んで、逃げ場をなくす。
男は、白い床に座り込んだまま、ぼそぼそと呟いた。
「確認しろ」
「準備しろ」
「報告しろ」
「困ったら早めに言え」
「勝手に大丈夫にするな」
片桐の声だった。
いや、自分の声だった。
どちらでも同じだった。
男は笑った。
「なんとかなるっしょ」
白い床は、何も答えなかった。
それが答えだった。




