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第五話 別途約款

「……四回目か」


真人は呟いた。


声は、白い床の上に落ちた。


落ちて、消えた。


四回目。


そう言えたことが、自分でも不思議だった。


一回目。


二回目。


三回目。


全部が、はっきり見えているわけではない。


白い床。


一年ごとに戻るスマホの日付。


十一枚になっては七枚に戻る写真。


「押すな」と言い続けた声。


沙紀のいる朝。


子どもの背中。


白石の顔。


「パパ、ボタン押したの?」


それらが、切れたフィルムのように、ところどころだけ浮かんでいる。


だが、わかる。


ここは四回目だ。


真人は、ゆっくり息を吐いた。


右足が痛い。


腹は減っている。


喉は渇いている。


眠い。


全部、同じだった。


ポケットからスマホを取り出す。


二〇二五年三月十一日。


午後三時四十七分。


六十三パーセント。


圏外。


右上の、蜘蛛の巣のような細いひび。


「はいはい」


真人は言った。


「いつものやつね」


笑おうとした。


うまく笑えなかった。


もう、叫ばなかった。


走り回る気にもならなかった。


写真を撮る気にもならなかった。


沙紀の顔を思い出そうともしなかった。


それらが、何の役にも立たなかったことを知っている。


泣いてもだめ。


叫んでもだめ。


写真を撮ってもだめ。


言葉を繰り返してもだめ。


幸せな未来を信じてもだめ。


押すな、と百年言い続けても、面談室の自分には届かない。


だったら、考えるしかない。


真人は白い床に座った。


スマホを膝の上に置く。


白いタイルの目地が、どこまでも伸びている。


「契約だ」


声に出した。


「これは、契約なんだ」


白石は嘘をついていなかった。


少なくとも、真人が覚えている限りでは。


一億円。


体感で百年。


孤独な空間。


契約期間終了後、帰還。


現実の時間は、ほとんど変わらない。


白石は、そう言っていた。


そして、真人は押した。


名前も書いた。


五味真人。


自分の字で。


「読めばよかった」


一回目にも言った。


二回目にも、たぶん言った。


三回目にも思ったはずだった。


だが、四回目の真人は、そこで終わらなかった。


「何が書いてあった?」


思い出せ。


真人は目を閉じた。


面談室。


古いカーペット。


机。


白石の手。


分厚い契約書。


第一条。


第二条。


契約期間。


契約履行。


契約解除不可。


文字の並び。


ページの厚さ。


紙の白さ。


思い出せる。


読んでいない。


でも、見てはいる。


真人は、白い床の上で、見てもいない契約書を開くように、両手を動かした。


「契約期間は……」


体感で百年。


「契約解除は……」


不可。


「契約履行後……」


一億円の支払い。


「記憶は……」


そこで止まった。


記憶。


真人は、白石の声を思い出した。


「なお、記憶の保持・消去・例外的残存に関する事項は、別途約款に定めております」


白石は立ち上がった。


「約款をお持ちいたします」


真人は手で制した。


「ああ、大丈夫です」


「ですが」


「いいですって」


その場面が、鮮明に浮かんだ。


鮮明すぎた。


白石の姿勢。


椅子の音。


グレーと青のストライプのネクタイ。


自分の手。


軽く振った、自分の手。


「ああ……」


真人は、両手で顔を覆った。


「あそこか」


記憶の保持。


消去。


例外的残存。


全部、そこに書いてあった。


約款に。


その約款を、真人は見ていない。


白石は取りに行こうとした。


真人が止めた。


自分で。


自分の手で。


「いいですって」


そう言った。


真人は笑った。


声が漏れた。


「いいわけ、あるかよ」


笑いはすぐに震えた。


「何やってんだよ」


白い床は、何も答えない。


「あそこに書いてあったんだろ」


真人は誰もいない空間に向かって言った。


「あそこに、どうすれば記憶が残るか、書いてあったんだろ」


答えはない。


「例外的残存って何だよ」


白石は言っていた。


記憶の保持。


消去。


例外的残存。


例外的残存。


その言葉だけが、白い床の上に落ちた。


残る例外。


何かは残る。


何かは、白い空間から現実へ届く。


だから、自分は白い空間に入ると、前回までを思い出す。


だから、白石は「おかえりなさいませ」と言った。


だから、面談室の自分は、一瞬だけ何かを聞き間違えた。


何かが、残っている。


完全には消えていない。


だが、何が残るのかがわからない。


そこだけが、読めない。


約款を見ていないから。


「契約書は?」


真人は顔を上げた。


「契約書は見た」


見たものなら、思い出せるかもしれない。


真人はもう一度、目を閉じた。


分厚い契約書。


白い紙。


黒い文字。


第一条。


第二条。


契約期間。


契約履行。


契約解除不可。


契約者は、本契約に基づき、指定された空間において体感時間百年を過ごすものとする。


契約者は、契約期間中、第三者との接触、外部通信、飲食、睡眠、老化、身体損壊その他通常の生理的変化を伴わないものとする。


そんな文章があった気がする。


いや、なかったかもしれない。


読んでいない。


見ただけだ。


見ただけのものを、脳が勝手に作っているのかもしれない。


「くそ」


真人は床を殴った。


痛くなかった。


床は硬くない。


柔らかくもない。


白いタイルは、ただ白いタイルとしてそこにある。


「契約書」


もう一度言った。


「契約書は、見た」


文字が浮かぶ。


だが、肝心なところだけ浮かばない。


別途約款。


別途約款。


別途約款。


その言葉ばかりが、白い床の上に並ぶ。


真人は歯を食いしばった。


「読まなかった」


その事実だけは、はっきりしていた。


自分は、読まなかった。


仕事でもそうだった。


契約書は、面倒くさいものだった。


重要事項説明書は、形式的に読み上げるものだった。


約款なんて、誰も読まないと思っていた。


読まなくても、たいてい問題は起きない。


だから、今回もそうした。


「なんとかなるっしょ」


自分の声がした。


真人は、ゆっくり顔を上げた。


誰もいない。


「黙れ」


言った。


『なんとかなるっしょ』


「黙れ」


声は続かなかった。


真人は立ち上がった。


考えろ。


もう、感情ではだめだ。


叫んでもだめだ。


思い出してもだめだ。


言葉もだめ。


写真もだめ。


なら、物だ。


記憶が消えても、物が残ればいい。


写真はスマホの中だから戻る。


スマホは押した瞬間に戻る。


身体も戻る。


だが、この床はどうだ。


この床は、ボタンを押したときに持っていたものではない。


ここにある。


この空間そのものだ。


ここに傷をつければ。


真人は、白いタイルを見下ろした。


真っ白な床。


目地。


果てのない白。


今まで、何度も見てきた。


だが、刻もうとしたことはなかった。


怖かったからだ。


傷をつけても消えたら。


本当に何も残らないことがわかってしまう。


それを知るのが怖かった。


だが、もう四回目だ。


怖いからやらない、で百年を捨てる段階ではない。


真人は右手の爪を見た。


伸びていない爪。


ボタンを押した瞬間のままの爪。


これで床を削れるのか。


真人は膝をつき、爪の先をタイルの目地に当てた。


力を込める。


何も起こらない。


爪も割れない。


床も変わらない。


「スマホ」


真人は呟いた。


右上にひびの入ったスマホ。


それを握りしめ、角を白いタイルに押しつけた。


ガリッ。


音がした。


真人は息を止めた。


白いタイルの表面に、細い線が入っていた。


傷。


たしかに、傷だった。


「ついた」


声が漏れた。


「ついたぞ」


真人は、その線を見つめた。


写真は消える。


言葉は届かない。


スマホの日付も戻る。


だが、床に刻んだ傷なら。


この空間そのものに残したものなら。


「これなら、残る」


そう思いたかった。


その年、真人は一本の線を見て過ごした。


どこかへ歩いてしまうと見失う。


だから、あまり動かなかった。


線のそばに座り、スマホを見て、また線を見る。


二〇二五年四月。


六月。


八月。


十二月。


二〇二六年三月。


線はあった。


細い傷は、白い床の上にあった。


真人はそれを見るたびに、少しだけ息ができた。


自分がここにいる証拠。


自分が考えた証拠。


自分が、ただ壊れているだけではない証拠。


二〇二六年三月十一日。


午後三時四十六分。


真人は、床の線に手を置いた。


一本。


それだけだった。


それでも、あった。


午後三時四十七分。


スマホの日付が戻った。


二〇二五年三月十一日。


午後三時四十七分。


真人は床を見た。


線は消えていた。


白いタイルには、何もなかった。


最初から何も刻まれていなかったように、白かった。


真人は、しばらく動けなかった。


「……床もか」


声が、ひどく小さくなった。


床も戻る。


写真だけではない。


スマホだけではない。


この空間そのものが、一年ごとに戻る。


「はは」


真人は笑った。


「そこまでやるか」


笑いは短かった。


だが、真人は立ち上がった。


「じゃあ、もう一回だ」


二年目。


真人は、同じ場所を探そうとした。


もちろん、見つからなかった。


どこも同じ白い床だった。


それでも膝をつき、スマホの角を押しつけた。


ガリッ。


一本。


もう一本。


二本の線を引いた。


「二年目」


声に出した。


「これは二年目」


線は、面談室の自分には届かない。


一年後には消える。


それでも、今の自分には見える。


今の自分には、ここが二年目だとわかる。


それだけでもいい。


そう思った。


一年が過ぎた。


また、三月十一日午後三時四十七分。


二本の線は消えた。


白い床に戻った。


真人は息を吐いた。


「はい」


と言った。


「じゃあ、三本」


三年目。


真人は三本の線を引いた。


一本。


二本。


三本。


「三年目」


四年目には四本。


五年目には五本。


六年目には、五本の線に一本を足した。


それから、五本ごとに正の字にした。


最初は、年数を数えるためだった。


その年の自分が、自分を見失わないためだった。


一年後に消えることは知っている。


面談室には届かない。


百年後にも残らない。


それでも、刻んでいるあいだだけは、自分がまだ考えていることがわかった。


まだ数えていることがわかった。


まだ、白くなりきっていないことがわかった。


一年が終わるたびに、傷は消える。


翌年、真人は一本増やす。


また消える。


また増やす。


また消える。


そのうち、真人は傷を残すために刻んでいるのではなくなった。


消えると知っているものを、消える前に刻む。


それが、その年の真人を保つための儀式になった。


十年目。


真人は、十本の線を引いた。


正の字が二つ。


「十年目」


声に出す。


消える。


十一年目。


十一本。


消える。


二十年目。


正の字が四つ。


消える。


三十年目。


正の字が六つ。


消える。


四十年目。


五十年目。


六十年目。


真人は、毎年、床に線を刻んだ。


百年空間の中で、唯一、自分から何かを増やせる行為だった。


空腹は増えない。


眠気は増えない。


痛みは増えない。


爪は伸びない。


写真は残らない。


だが、その年の線だけは増やせた。


一年のあいだだけ。


消えるまでのあいだだけ。


その一年の自分だけは、線の本数を見て、自分の位置を知ることができた。


それが、救いだった。


救いと呼ぶには、小さすぎるものだった。


だが、真人にはそれしかなかった。


ある年、真人は線を数えている途中で笑った。


「何やってんだろうな」


声は乾いていた。


「消えるのに」


それでも、次の線を引いた。


ガリッ。


白い床に、細い傷が入る。


その音だけが、自分がまだここにいる証明だった。


七十年目。


八十年目。


九十年目。


真人はもう、面談室に届くとは思っていなかった。


契約を破れるとも思っていなかった。


白石に勝てるとも思っていなかった。


ただ、数えた。


ただ、刻んだ。


一本ずつ。


一本ずつ。


正の字が増える。


一年が終わる。


消える。


また刻む。


それを繰り返した。


百年目。


真人は、床に百本目の線を引いた。


正の字が二十個。


白いタイルの上に並んでいた。


二十個の正の字。


百本の線。


それは、現実の自分に届く記録ではなかった。


一年後には消える。


そのことは、もう知っている。


それでも、真人はその二十個の正の字を見つめた。


この一年の自分だけは、知っている。


ここが百年目だと。


この百年が、終わるのだと。


午後三時四十六分。


真人は床に手を置いた。


正の字がある。


百本の線がある。


全部、自分が刻んだものだった。


午後三時四十七分。


声がした。


「おかえりなさいませ」


真人は顔を上げなかった。


床を見ていた。


線がある。


正の字がある。


今だけは、ある。


「ご判断を」


面談室の気配が重なる。


赤いボタン。


黒い箱。


白石の声。


真人は床を見続けた。


線が白くなっていく。


正の字がほどけていく。


百本の傷が、一本ずつ消えていく。


わかっていた。


わかっていたはずだった。


一年ごとに消えることは、百回近く見てきた。


それでも、百本の線が消えていくのを見た瞬間、胸の奥が潰れた。


百年分の線が、消える。


百年分の自分が、消える。


白い床は、また白い床に戻った。


何もなかったように。


「押せばいいんですよね」


自分の声がした。


「はい」


「じゃあ」


真人は、白く戻った床を見ていた。


「押しますよ」


カチッ。


白い床には、もう一本の線も残っていなかった。

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