第四話 幸せな未来
カチッ。
音がした。
真人は、白い床の上に立っていた。
「……え?」
声が出た。
赤いボタン。
白石。
面談室。
契約書。
黒い箱。
その全部が、まだ目の前に残っている気がした。
「おかえりなさいませ」
「ご判断を」
「押せばいいんですよね」
「はい」
「じゃあ」
「押しますよ」
そこまでは、あった。
たしかに、あった。
だが、いま目の前にあるのは、面談室ではなかった。
白いタイルの床。
壁のない空間。
天井の見えない明るさ。
風も匂いもない場所。
右足が痛い。
腹が減っている。
喉が渇いている。
眠い。
全部、同じだった。
「なんで」
真人は言った。
「なんで、また」
戻ったはずだった。
百年が終わったはずだった。
だから、白石の声がしたのではなかったのか。
だから、赤いボタンが見えたのではなかったのか。
ポケットに手を入れる。
スマホがある。
画面をつける。
二〇二五年三月十一日。
午後三時四十七分。
六十三パーセント。
圏外。
右上の、蜘蛛の巣のようなひび。
真人は、画面を見つめたまま動けなかった。
また始まった。
二回目。
そう思った瞬間、胃の奥が冷えた。
記憶はある。
あるはずだった。
一回目の百年。
一年が消えたこと。
写真が七枚に戻ったこと。
自分の名前が薄れていったこと。
最後に、白石の声が聞こえたこと。
カチッ、という音。
それらは確かにある。
だが、全部が遠かった。
昨日のことではない。
夢でもない。
自分が体験したはずなのに、手を伸ばすと白くほどける。
「俺、押したのか」
真人は呟いた。
答えはなかった。
「また、押したのか」
白い床は、何も答えない。
真人はその場に座り込んだ。
叫ばなかった。
歩かなかった。
写真も撮らなかった。
それをしても残らないことを知っていた。
知っている気がした。
何かを残そうとするほど、消えたときに壊れる。
だから、何もしなかった。
ただ、スマホを握っていた。
二〇二五年三月十一日。
午後三時四十七分。
そこから、また一年が始まった。
真人は、最初の一年ほど暴れなかった。
出口も探さなかった。
白石も呼ばなかった。
沙紀の名前も、あまり呼ばなかった。
かわりに、ひとつの言葉だけを繰り返した。
「押すな」
床に向かって言った。
「押すな」
スマホに向かって言った。
「押すな」
自分に向かって言った。
戻ったときの自分に届くかもしれない。
記憶が消えても、何かの違和感だけは残るかもしれない。
あの面談室で、赤いボタンを見た瞬間、手が止まるかもしれない。
そう思った。
「押すな」
声は白い床の上に落ちた。
「押すな」
落ちて、消えた。
「押すな」
それでも言い続けた。
一年が過ぎた。
日付が戻った。
また一年が始まった。
真人は言った。
「押すな」
二年目も。
三年目も。
十年目も。
何年目かもわからなくなってからも。
「押すな」
やがて、言葉は意味を失い始めた。
押すな。
おすな。
おすな。
おすな。
何を押すなと言っているのか、わからなくなる。
赤いボタンか。
自分の背中か。
時間か。
記憶か。
人生そのものか。
それでも、口だけは動いた。
「おすな」
「おすな」
「おすな」
声は枯れない。
喉は壊れない。
眠気も消えない。
空腹も消えない。
右足の痛みも消えない。
すべてが、終わらない形で続いていた。
何度目かの三月十一日。
午後三時四十七分。
耳の奥で声がした。
「おかえりなさいませ」
真人は反応しなかった。
反応したのかもしれない。
もう、よくわからなかった。
「ご判断を」
赤いボタンが見えた気がした。
黒い箱。
机。
分厚い契約書。
グレーと青のストライプのネクタイ。
そして、自分の声。
「押せばいいんですよね」
「はい」
「じゃあ」
白い床の上で、真人は何かを言おうとした。
言わなければならないことがあった。
押すな。
たぶん、それだった。
けれど、その言葉は形にならなかった。
声になる前に、白くほどけた。
面談室の真人には、何も届かない。
何も残らない。
口だけが、あのときと同じように動いた。
「押しますよ」
カチッ。
* * *
味噌汁の匂いがした。
真人は、食卓についていた。
薄い茶色のフローリング。
朝の光。
レースのカーテン。
ベランダに干された洗濯物の影。
台所から、食器の触れ合う音がする。
食卓には、焼き魚と味噌汁が並んでいる。
ご飯。
小鉢。
湯のみ。
子ども用の小さな茶碗。
キャラクターのついたコップ。
箸は三人分あった。
「真人、先に食べちゃって」
沙紀が、味噌汁の椀を置きながら言った。
エプロンをつけている。
髪は、別れた頃と同じくらいの長さだった。
少しだけ伸びた前髪。
笑うと目尻が下がる顔。
「パパ遅刻するから、先食べるね」
沙紀が部屋の奥へ声をかけた。
「はーい」
子どもは背中を向けたまま返事をした。
床に広げたブロックで遊んでいる。
白い服。
短い髪。
小さな肩。
「またギリギリなんだから」
沙紀が笑う。
「今日は早く出るって言ってたでしょ」
「うん」
真人は箸を取った。
「だから、急いで食べる」
「急いで食べると、また魚の骨ひっかけるよ」
「それ、前も言われた」
「前もやったからでしょ」
沙紀は当たり前のように言った。
真人も、当たり前のように笑った。
食卓の上には、いつもの朝食があった。
焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
小鉢。
湯のみ。
湯気。
だしの匂い。
部屋の奥では、ブロックの音が小さく鳴っている。
カチッ。
「いただきます」
真人が手を合わせる。
「いただきます」
沙紀も言った。
部屋の奥から、少し遅れて子どもの声がした。
「いただきまーす」
「ちゃんと座ってからね」
沙紀が言う。
「あとでー」
「あとでじゃないでしょ」
沙紀はそう言って、少しだけ母親の顔になる。
真人は味噌汁を口に運んだ。
熱い。
味噌の味がした。
だしの匂いがした。
豆腐が柔らかかった。
喉を通る温かさがあった。
「うまい」
自然に言葉が出た。
沙紀が小さく笑う。
「よかった」
「今日の、いつもより濃い?」
「少しだけね。真人、濃い方が好きでしょ」
「好き」
「知ってる」
その会話は、考えなくても出てきた。
何度も繰り返してきた、何でもない会話だった。
真人は焼き魚をほぐした。
箸の先で、白い身がほどける。
湯気が上がる。
「帰り、牛乳お願いね」
沙紀が言った。
「わかってる」
「あと、食パンも」
「いつものやつ?」
「うん。六枚切り」
「了解」
「ほんとに覚えてる?」
「牛乳と、食パン」
「よし」
沙紀が満足そうにうなずく。
真人は笑った。
部屋の奥で、またブロックが鳴った。
カチッ。
「ねえ、早く食べなさい」
沙紀が子どもに言う。
「これ作ったらー」
「何作ってるの?」
「ひみつ」
子どもは背中を向けたまま答えた。
真人はその背中を見た。
小さな肩。
白い服。
短い髪。
床に散らばったブロック。
朝の光。
食卓の匂い。
その全部が、そこにあった。
何でもない朝食だった。
どこにでもあるような、普通の朝食だった。
沙紀がいる。
子どもがいる。
食卓がある。
これから仕事に行って、帰りに牛乳と食パンを買ってくる。
それだけの朝だった。
「パパ」
子どもが言った。
「なに」
真人は焼き魚を口に運びながら返事をした。
「パパ、ボタン押したの?」
箸が止まった。
味噌汁の湯気が、急に白く見えた。
「……え?」
沙紀は何も言わなかった。
カーテンの揺れが止まっていた。
風の音が消えている。
食器の音も。
ブロックの音も。
全部、消えていた。
子どもが、ゆっくり振り返る。
真人は、その顔を見た。
子どもの顔ではなかった。
白石だった。
子どもの小さな体の上に、白石の顔があった。
穏やかな笑み。
薄い唇。
何も責めていない目。
その首元にだけ、グレーと青のストライプが見えた。
「ご判断を」
白石の声で、子どもが言った。
食卓が白くなった。
味噌汁が白くなる。
焼き魚が白くなる。
ご飯が白くなる。
湯のみが白くなる。
沙紀の顔が白くなる。
カーテンが白くなる。
フローリングが白くなる。
匂いが消える。
味が消える。
熱が消える。
「やめろ」
真人は立ち上がった。
椅子が倒れた。
音はしなかった。
「やめろ!」
沙紀を見る。
沙紀は笑っていた。
別れた頃の顔のまま。
その輪郭が、白く溶けていく。
「沙紀!」
手を伸ばす。
届かない。
そこにいたはずの沙紀は、白い空間に溶けた。
子どもも消える。
食卓も消える。
アパートも消える。
最後に、白石の顔だけが残った。
小さな子どもの体も消え、顔だけが白い床の上に浮いているように見えた。
「おかえりなさいませ」
真人は耳を塞いだ。
「違う」
「ご判断を」
「違う!」
「押せばいいんですよね」
それは、今度は真人の声だった。
真人は膝から崩れ落ちた。
白いタイルがあった。
壁はない。
天井はない。
風もない。
匂いもない。
味噌汁の味もない。
沙紀もいない。
子どももいない。
右足が痛い。
腹は減っている。
喉は渇いている。
眠い。
全部、押した瞬間のままだった。
真人は白い床の上で、口を開けた。
だが、声は出なかった。
希望が、消えた。
消えたのではない。
最初から、なかった。
白い床の上には、真人だけがいた。
そして、どこかでまだ、子どもの声がしていた。
「パパ、ボタン押したの?」




