第三話 叫びの続き
「あああああああああああああああああああああああっ!」
真人は叫んでいた。
声が白い床の上を転がっていく。
どこにもぶつからない。
誰にも届かない。
それでも、叫ぶしかなかった。
一年が消えた。
歩いたことも。
叫んだことも。
撮った写真も。
沙紀の名前を呼んだことも。
何も残らなかった。
スマホの中には、押す前からあった七枚の写真だけが残っている。
CR大富豪。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
それだけだった。
「ふざけんな!」
真人はスマホを握りしめたまま、白い床に膝をついた。
「ふざけんなよ!」
右足が痛い。
腹は減っている。
喉は渇いている。
眠い。
全部、一年前と同じだった。
いや、違う。
一年前ではない。
いまは二年目だ。
二年目のはずだ。
でも、スマホは二〇二五年三月十一日を示している。
午後三時四十七分。
六十三パーセント。
圏外。
右上の蜘蛛の巣のようなひび。
押した瞬間のまま。
「残せない……」
声が震えた。
「何も、残せない」
それでも真人は、また写真を撮った。
白い床。
足元。
右足。
自分の顔。
一年前と同じだった。
いや、一年前と言っていいのかもわからない。
同じ四枚を撮る。
写真フォルダは十一枚になる。
それを見て、真人は笑った。
「はい、戻った」
誰に言っているのかわからなかった。
「十一枚。今、十一枚。見てるか。十一枚だぞ」
声だけがあった。
「次、また消えるんだろ」
返事はない。
「消えるんだろ!」
白い床は、何も答えなかった。
真人はスマホを胸に抱いた。
「でも、今はある」
今だけはある。
今だけは、残っている。
その事実にすがった。
それから、真人は写真を撮り続けた。
日付が変わるたびに撮った。
顔を撮った。
床を撮った。
圏外を撮った。
六十三パーセントを撮った。
同じ画面を、同じ角度で、何度も撮った。
四月。
五月。
六月。
七月。
二年目の七月。
いや、一年目の七月。
それもわからない。
スマホの日付は、また一年目を歩き始めていた。
真人の中だけが、二年目だった。
「俺は知ってる」
そう言った。
「俺は、一年分、知ってる」
だが、何を知っているのか。
白い床が続くこと。
写真が消えること。
電池が減らないこと。
右足が痛いこと。
腹が減っていること。
眠れないこと。
それだけだった。
それだけを、一年かけて知った。
「少なすぎるだろ」
真人は笑った。
笑ったあと、泣こうとした。
涙は出なかった。
泣いていなかったから。
ボタンを押したとき、真人は泣いていなかった。
だから、泣けない。
そのことが、また怖くなった。
人間は、泣けなくなるとどうなるのか。
知らなかった。
いや、知る必要なんてなかった。
普通は。
「普通って何だよ」
真人は聞いた。
『知らない』
答えが聞こえた。
真人は息を止めた。
いまのは、自分か。
自分の声か。
違う。
同じだ。
同じ声だった。
だからこそ、違った。
「名前」
『五味真人』
「年齢」
『三十二歳』
「ここは」
『白い場所』
「違う」
真人は首を振った。
「違う。ここは……」
言葉が出なかった。
ここは何だ。
地獄。
夢。
契約。
空間。
百年。
どれも違う気がした。
「ここは」
『なんとかなる』
真人は固まった。
その言葉だけは、はっきり聞こえた。
自分の声だった。
間違いなく、自分の声だった。
「言ってない」
首を振る。
「今のは、言ってない」
『なんとかなるっしょ』
「やめろ」
『なんとかなるっしょ』
「やめろって!」
真人は耳を塞いだ。
だが、声は耳の外からではなかった。
頭の中でもない。
もっと近い。
喉の奥。
舌の裏。
自分が言うより前に、自分の声がそこにあった。
「違う」
『違わない』
「俺は、そんなこと」
『言ってきた』
「違う!」
『契約書も』
「やめろ」
『仕事も』
「やめろ」
『沙紀も』
「やめろ!」
真人は立ち上がり、走った。
白い床の上を走った。
どこまでも走った。
足音だけが続いた。
ダッ、ダッ、ダッ、ダッ。
右足が痛い。
痛みは増えない。
だが、消えない。
永遠に、同じ強さで刺してくる。
「白石!」
叫ぶ。
「片桐!」
誰の名前を呼んだのか、自分でもわからなかった。
「沙紀!」
そこで声が割れた。
白い床は、何も答えない。
真人は息を荒くした。
息は荒くなる。
けれど、苦しくなりきらない。
倒れない。
心臓も止まらない。
ただ、苦しい手前で固定される。
すべてが、終わらない形で止まっている。
それから何年かが過ぎた。
何年か。
そうとしか言えなかった。
スマホの日付は毎年、三月十一日午後三時四十七分になるたび、二〇二五年三月十一日に戻った。
写真は七枚に戻る。
真人が撮った写真は消える。
白い床も。
足元も。
右足も。
自分の顔も。
泣こうとした顔も。
笑おうとして失敗した顔も。
全部、消える。
最初の何回か、真人は絶叫した。
そのたびに、喉は壊れなかった。
声は枯れなかった。
身体は、壊れることすら許されていなかった。
やがて、叫ばなくなった。
三月十一日午後三時四十七分。
数字が戻る。
写真が戻る。
一年が消える。
真人はそれを見て、
「はい」
と言うようになった。
「はい、戻りました」
そう言って、また写真を撮る。
白い床。
足元。
右足。
自分の顔。
十一枚。
「今年も十一枚」
そう言う。
誰かが答える。
『どうせ消える』
「知ってる」
『じゃあ、なぜ撮る』
「今は残る」
『今だけだ』
「今だけでも」
『無駄だ』
「無駄でも」
『なんとかなる』
「ならない」
初めて、そう答えた。
その瞬間だけ、少し静かになった。
白い空間も。
声も。
自分も。
真人はスマホを握ったまま、床に座った。
「なんともならない」
もう一度言った。
「なんとも、ならなかった」
その言葉は、白い床の上に落ちた。
消えた。
けれど、真人の中には残った。
残った気がした。
それから、真人は過去を思い出すようになった。
思い出そうとしたのではない。
白い空間には、何もない。
何もないから、内側にあるものだけが見えてくる。
清都レジデンス。
営業会議のホワイトボード。
自分の名前の横に並んだゼロ。
片桐の声。
契約書。
客の顔。
それらが、白い床の上に浮かんでは消えた。
最後まで思い出せるものは、ひとつもなかった。
ただ、自分が何かを間違えたことだけはわかった。
笑ってごまかしたこと。
先に延ばしたこと。
確認しなかったこと。
読まなかったこと。
話さなかったこと。
決めなかったこと。
その全部が、白い床の上では、同じ形に見えた。
「すみません」
真人は、誰もいない床に向かって頭を下げた。
誰に謝っているのかは、わからなかった。
片桐か。
客か。
沙紀か。
自分か。
わからない。
それでも、頭を下げた。
思い出は、そこで終わらなかった。
大戸屋の定食。
焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
湯のみ。
箸袋。
女物の袖口。
指先。
それらが、白い床の上に浮かんだ。
写真だったのか。
記憶だったのか。
もう、よくわからなかった。
ただ、その端に沙紀がいた。
いたはずだった。
最初の頃は、顔も思い出せた。
笑うと目尻が下がること。
怒ると黙ること。
「ちゃんと考えようよ」と言う声。
それらは、まだあった。
けれど、ある年から、顔だけが遅れてくるようになった。
沙紀。
名前を呼ぶ。
顔が浮かばない。
沙紀。
もう一度、呼ぶ。
髪の長さだけが浮かぶ。
声の調子だけが浮かぶ。
でも、目がない。
鼻がない。
笑った顔がない。
白い床の上に、焼き魚と味噌汁と湯のみだけが残る。
袖口がある。
指先がある。
でも、沙紀はいない。
「沙紀」
声に出した。
返事はない。
名前だけが、白い床の上に落ちた。
真人はしばらく、その名前を見ていた。
見えるはずのないものを、見ていた。
やがて、それも白くなった。
何年目だったのか、真人は数えるのをやめた。
スマホの日付を見れば、一年の中のどこにいるかはわかる。
だが、それが何回目の一年なのかは、わからなくなった。
最初は数えていた。
一年。
二年。
三年。
十年。
二十年。
三十年。
そのうち、数字は意味を失った。
何かを残そうとしたこともあった。
だが、何を残せばいいのか、わからなかった。
写真は消える。
言葉も消える。
叫びも消える。
残るのは、ボタンを押した瞬間に持っていたものだけだった。
白い床。
スマホ。
七枚の写真。
自分の手。
伸びない爪。
変わらない右足の痛み。
消えない空腹。
眠れない眠気。
いつしか、真人は、自分の名前を言う回数も減っていった。
「五味真人」
声に出す。
しばらくして、
「五味」
になる。
またしばらくして、
「真人」
になる。
もっとあとには、
「俺」
になる。
それから、
「男」
になる。
男は座っていた。
白いタイルの上で、スマホを持っていた。
画面には、二〇二五年三月十一日。
午後三時四十七分。
六十三パーセント。
圏外。
右上のひび。
男はそれを見ていた。
何度も見た。
見すぎて、もう意味はなかった。
それでも、見ていた。
見ていないと、何もなかった。
何もないと、自分がない。
だから、見ていた。
男はときどき話した。
「名前」
答えは返ってこない。
「年齢」
答えは返ってこない。
「ここは」
答えは返ってこない。
やがて、質問もしなくなった。
声を出すと、自分が戻ってきてしまう。
戻ってくると、痛い。
腹が減っている。
喉が渇いている。
眠い。
右足が痛い。
沙紀を忘れている。
片桐を思い出している。
契約書を読まなかった自分がいる。
戻ってくると、全部がある。
だから、戻らない方が楽だった。
ぼーっとしている方が楽だった。
男は、白い床の上で、画面を見ていた。
一年が戻る。
写真が戻る。
また一年が戻る。
それを何度も見た。
驚かなくなった。
怒らなくなった。
叫ばなくなった。
ただ、画面を見る。
日付が変わる。
また戻る。
日付が変わる。
また戻る。
あるとき、男は二〇二六年三月十一日を見ていた。
午後三時四十七分。
日付が戻る。
二〇二五年三月十一日。
また一年が始まる。
あるとき、男は二〇三六年三月十二日を見た気がした。
違う。
スマホは毎年戻る。
だから二〇三六年三月十二日は見えない。
でも、男の中には、見た気がする年があった。
二〇五〇年。
二〇八〇年。
二一〇〇年。
数字は、もう外にはなかった。
内側にだけあった。
あるいは、なかった。
どちらでもよかった。
男は、いつからか、スマホすら見なくなった。
握ってはいた。
右手の中にある。
あるはずだ。
見なくてもわかる。
六十三パーセント。
圏外。
右上のひび。
白い床。
空腹。
眠気。
右足の痛み。
それだけで、世界は足りた。
いや、足りてはいなかった。
でも、それしかなかった。
男は座っていた。
立っていたのかもしれない。
歩いていたのかもしれない。
寝転んでいたのかもしれない。
どれでも同じだった。
時間は、もう線ではなかった。
面でもなかった。
ただ、白かった。
白いものの中に、男がいた。
いたのかどうかも、よくわからなかった。
いつか。
何度目かの三月十一日。
男は画面を見ていた。
二〇二六年三月十一日。
午後三時四十六分。
その数字に、何かが引っかかった。
何度も見た日付だった。
何度も戻った時刻だった。
だが、そのときだけは違った。
何かが終わる。
そんな気がした。
気がしただけだった。
男は動かなかった。
一分が長かった。
長いのか短いのかもわからない。
ただ、数字が変わるのを見ていた。
午後三時四十七分。
その瞬間、耳の奥で声がした。
「おかえりなさいませ」
男は、まばたきをした。
「……え?」
声が出た。
自分の声だった。
久しぶりに聞いた気がした。
白い床があった。
それなのに、目の前に、別のものが重なった。
机。
分厚い契約書。
黒い箱。
赤いボタン。
紺色のスーツ。
白いワイシャツ。
グレーと青のストライプのネクタイ。
白石。
「ご判断を」
その声は、白い床の上から聞こえたのか。
面談室から聞こえたのか。
真人の記憶から聞こえたのか。
わからなかった。
ただ、聞こえた。
男は赤いボタンを見た。
見ている気がした。
その瞬間、口が勝手に動いた。
「押せばいいんですよね」
「はい」
「じゃあ」
男は笑っていた。
笑ったのは、いつの自分だったのか。
最初の自分か。
百年前の自分か。
今の自分か。
わからなかった。
「押しますよ」
カチッ。




