第二話 百年
そう呟いた瞬間、真人は知っていた。
では、一回目の自分は、何をしたのか。
最初の真人は、まだ何も知らなかった。
白いタイルの上で、ただ立ち尽くしていた。
「……おい」
声は、思ったより大きく響いた。
返事はなかった。
「白石」
もう一度呼ぶ。
「白石さん」
敬語になったのは、自分でもよくわからなかった。
さっきまで面談室にいた。机があった。契約書があった。黒い箱があった。赤いボタンがあった。
だから、どこかにいるはずだった。
カメラか。スピーカーか。隠し扉か。
だが、壁がない。
天井がない。
ただ、床だけがあった。
白いタイルが、どこまでも続いている。
「いやいやいや」
真人は笑った。
笑うしかなかった。
「これ、どういう仕掛けですか」
返事はない。
右足が痛い。エレベーターを降りるときにぶつけた場所だ。
腹は減っている。昼過ぎに起きて、そのまま何も食べずにここへ来た。喉も渇いている。前の晩はほとんど眠れなかったから、頭の奥が重い。
全部、さっきのままだった。
「……ドッキリだろ」
真人はスマホを取り出した。
右上から、蜘蛛の巣のような細いひびが広がっている。
その細いひびだけが、妙に現実的だった。
圏外。
電池は六十三パーセント。
時刻は進んでいた。
「動いてるじゃん」
少し安心した。
少なくともスマホは動いている。
時間はある。
自分はまだ、どこかにいる。
真人は歩き出した。
まずは、まっすぐ。
タイルの目地に沿って進めばいいと思った。
一枚、二枚、三枚。
百枚を超えたところで、面倒になった。
「無理だろ、これ」
声に出す。
声が自分に返ってくる。
反響ではない。ただ、音が消えずに、少しだけ遅れて耳に残るような感じだった。
振り返る。
元の場所がわからなかった。
当然だ。
目印がない。
白いタイル。白いタイル。白いタイル。
どこを見ても同じだった。
「まあ、戻る必要ないしな」
そう言って、歩いた。
しばらく歩いた。
足は疲れない。
だが、右足の痛みだけはずっとある。
疲労は増えない。空腹も増えない。喉の渇きも増えない。
でも、消えない。
そのことに気づいたのは、たぶん数時間後だった。
「おかしいだろ」
真人は足を止めた。
「なんで痛いままなんだよ」
右足をさする。
アザがある気がした。見ても、よくわからない。
痛みだけがある。
小さな痛みだった。
だが、それが消えないとわかった瞬間、その小ささが怖くなった。
「出口」
そう言った。
「出口探せばいいだけだ」
歩く。走る。また歩く。
スマホの時計を見る。
一分。
二分。
三分。
時間は進んでいる。
それだけが救いだった。
どれくらい歩いたのか、わからない。
スマホを見る。
日付はまだ三月十一日だった。
時刻だけが進んでいる。
腹は減っている。喉は渇いている。眠い。
だが、倒れない。
真人は座り込んだ。
「寝ればいい」
床に横になる。
タイルは冷たくなかった。硬くもなかった。転んでも痛くない素材だった。
ただ、床だった。
目を閉じる。
眠れない。
眠いのに、眠れない。
前の晩、布団の中で返済日のことを考えて眠れなかった感覚が、そのまま続いている。
眠気はある。
でも、眠りに落ちる直前の穴がない。
意識だけが、白い床の上に置き去りになっている。
「ふざけんなよ」
真人は起き上がった。
「おい! 出せよ!」
声は遠くまで行かなかった。
遠くというものが、あるのかもわからなかった。
「聞こえてんだろ!」
誰も答えなかった。
そのとき、契約書の言葉を思い出した。
体感で百年。
孤独な空間。
契約期間終了後、帰還。
記憶は消去。
「いや」
真人は首を振った。
「いやいやいや」
そんなはずがない。
百年なんてあるわけがない。
だいたい、こんなものは契約にならない。法律的に無理だ。人権とか、そういうのがある。
いや、でも。
白石は言っていた。
詐欺ではございません。
ご判断はお任せいたします。
真人は自分の署名を思い出す。
五味 真人。
あの字は、自分の字だった。
「……読めばよかった」
小さく呟いた。
だが、すぐに腹が立った。
「読んだって信じるわけないだろ」
そう言って、また歩き出した。
出口を探すために。
壁を探すために。
この馬鹿げた場所の端を探すために。
最初の真人は、まだ信じていた。
どこかに終わりがあると。
どこかに、間違いがあると。
どこかで誰かが見ていて、もう十分だと言ってくれると。
その期待だけで、しばらく歩き続けた。
スマートフォンを見る。
二十分。
「……は?」
体感では、一時間くらい歩いた気がしていた。
もう一度歩く。
歩幅を一定にする。
百歩。
二百歩。
五百歩。
千歩。
息は少し上がる。
だが、それ以上にはならない。
スマホを見る。
三十七分。
「嘘だろ……」
喉は渇いている。
腹は減っている。
眠い。
それなのに、時間だけが妙に遅い。
しばらくして、真人は走り始めた。
「おおおおい!」
叫びながら走る。
足音だけが続く。
ダッ、ダッ、ダッ、ダッ。
世界中が、自分の足音だけになった。
走る。
止まる。
振り返る。
誰もいない。
「くそっ!」
床を蹴る。
右足に鈍い痛みが走る。
「痛っ……!」
その瞬間、少しだけ安心した。
痛い。
ということは、夢じゃない。
スマートフォンを見る。
午後六時を過ぎていた。
圏外。
母親へ電話をかける。
発信できない。
沙紀にもかける。
だめ。
一一〇。
一一九。
どちらもつながらない。
「くそっ!」
スマホを床へ投げつけようとして、止めた。
唯一、自分の持ち物だった。
どれくらい歩いただろう。
疲れた。
いや、疲れている気がする。
体はさっきから変わっていない。
眠気も、空腹も、喉の渇きも。
全部、押した瞬間のままだ。
増えない。
減らない。
「……なんだよ、それ」
真人は笑った。
笑いながら、急に三年前のことを思い出した。
電気を止められた部屋。
冷蔵庫は止まり、部屋は暗く、スマホの充電も残りわずかだった。
食べる物はない。
水だけ。
蛇口をひねれば水だけは出た。
三日間、水だけで過ごした。
腹が減った。
腹が減るなんてもんじゃなかった。胃がねじれるようだった。
何よりきつかったのは、音がないことだった。
テレビもつかない。冷蔵庫も鳴らない。エアコンもない。
夜になると、時計の秒針だけが聞こえた。
その音だけで、自分がまだ生きていると確認できた。
三日目。
真人は独り言を言っていた。
「あと一日」
「大丈夫」
「明日になれば、バイト代が入る」
「そしたら何か食える」
「なんとかなる」
誰に向かってでもない。
ただ、声を出さないと、自分が部屋から消えてしまう気がした。
「あの三日で、あれだったんだ」
真人は白い空間を見回した。
「じゃあ……」
言葉が止まる。
百年。
百年って何だ。
真人は初めて、本気で怖くなった。
それから、真人には日課ができた。
意識が戻るたび、最初にスマホを見る。
眠ったわけではない。
眠れたことなど一度もない。
ただ、長くぼんやりしていた後、急に自分が戻ってくるような時間があった。
二〇二五年三月十二日。
午前七時十二分。
時計は進む。
日付は変わる。
それだけで安心した。
今日も世界は動いている。
そう思えた。
歩く。
座る。
歩く。
スマホを見る。
そんなことを何日も繰り返した。
そして、あるとき気づいた。
電池は、いつ見ても六十三パーセントだった。
時計は進んでいる。
日付も変わる。
なのに、電池だけは減らない。
「……固定されてる?」
真人はスマホを見た。
右足を見る。
まだ痛い。
腹も減っている。
喉も渇いている。
眠い。
全部、そのままだ。
真人はスマホを床へ叩きつけた。
ガンッ。
拾い上げる。
画面の右上には、蜘蛛の巣のような細いひび。
それ以上、増えていない。
電池は六十三パーセント。
右上のひびだけを残して、押した瞬間のまま。
「……俺と同じか」
笑ったつもりだった。
声は震えていた。
「証拠……」
真人は呟いた。
「証拠、残せばいいんだ」
スマホのカメラを起動する。
白い床を撮る。
タイルを撮る。
自分の足元を撮る。
右足を撮る。
インカメラに切り替える。
画面に自分の顔が映る。
顔色が悪い。
目の下に薄い影がある。
なのに、それは昨日から悪くなった顔ではなかった。
ボタンを押した瞬間のまま、疲れている顔だった。
シャッターを押す。
これでいい。
戻ったら見せればいい。
警察でも、病院でも、誰でもいい。
少なくとも、自分が何かを体験した証拠にはなる。
写真フォルダを開く。
もともと入っていた写真は七枚だけだった。
CR大富豪の新装開店ポスター。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
そこに、さっき撮った四枚が加わっていた。
白い床。
足元。
右足。
疲れ切った自分の顔。
七枚だった写真は、十一枚になっていた。
ちゃんと残っている。
「ほら」
誰もいない空間に向かって言った。
「残るじゃん」
声が少し震えていた。
何もかもが消えるわけじゃない。
少なくとも、いま撮った写真はここにある。
それから真人は、何かあるたびに写真を撮るようになった。
何もない床。
何もない遠く。
圏外の表示。
六十三パーセントの電池。
二〇二五年三月十四日。
二〇二五年三月二十三日。
二〇二五年四月二日。
日付を残す。
自分の顔を撮る。
何も変わっていない顔。
泣こうとした顔。
怒っている顔。
笑っている顔。
笑おうとして失敗した顔。
それらを何度も見返し、自分がまだいることを確認した。
そこに、自分がいた。
顔がある。
名前もある。
スマホの中に、五味真人が残っている。
それだけで、しばらくは耐えられた。
ある日、真人は写真フォルダの中にある大戸屋の定食を見た。
焼き魚。
味噌汁。
ご飯。
湯のみ。
箸袋。
画面の端に、女物の袖口と指先が少しだけ見切れている。
沙紀だった。
顔は写っていない。
それでも、真人にはわかった。
いつだったか、沙紀が料理の写真を撮っていた。
真人はそれを真似して、一枚だけ撮った。
「真人も撮るんだ」
そう言って、沙紀が笑った。
そのはずだった。
真人は写真を拡大した。
袖口。
指先。
湯のみ。
テーブルの木目。
顔は、どこにもない。
それなのに、写真の外側に、沙紀の笑顔がある気がした。
思い出せる。
まだ、思い出せる。
真人はそう思いたかった。
泣きそうになった。
でも、涙は出なかった。
肩だけが震える。
喉だけが熱くなる。
目は乾いたままだった。
「沙紀」
声に出した。
返事はない。
その日から、真人は時々、定食の写真を見るようになった。
見るたびに、沙紀の顔を思い出そうとした。
最初は思い出せた。
ショートより少し長い髪。
笑うと目尻が下がること。
怒ると黙ること。
「ちゃんと考えようよ」と言う声。
それらはまだ、あった。
真人はそれにすがった。
白い床よりも、日付よりも、電池よりも、その写真の画面の外にいる沙紀の方が、ずっと現実だった。
やがて、五月になった。
六月になった。
たぶん、七月にもなった。
出口を探すことはやめていなかった。
でも、最初ほど信じてはいなかった。
歩く。
止まる。
写真を撮る。
座る。
スマホを見る。
大戸屋の写真を見る。
沙紀を思い出す。
白石を呼ぶ。
返事はない。
それを繰り返した。
あるとき、真人は自分が何時間も声を出していないことに気づいた。
声を出していないと、喉がなくなる気がした。
「五味真人」
自分の名前を言った。
「五味真人。三十二歳」
それから少し考えて、
「元、清都レジデンス」
と言った。
元。
その言葉が妙に引っかかった。
元、営業。
元、彼氏。
元、社会人。
元、人間。
「いや」
首を振った。
「人間ではあるだろ」
自分の手を見る。
手はある。指もある。スマホも持てる。
そこで、ふと爪を見た。
伸びていない。
何日も、何週間も経ったはずなのに、爪の長さはボタンを押したときのままだった。
右足の痛みも、腹の減り方も、眠気も、スマホの電池も、爪の長さも。
全部、あの瞬間で止まっている。
それでも手はある。指もある。
だったら、まだ人間だ。
「人間です」
声に出す。
誰に説明しているのかは、わからなかった。
でも、説明しないと不安だった。
「五味真人です」
白い空間は、何も答えなかった。
それから毎日、自分の名前を口にするようになった。
「五味真人」
「三十二歳」
「元、営業」
誰に聞かせるでもない。
言葉にしないと、自分が薄くなる気がした。
ある日、自分で質問し、自分で答えていることに気づいた。
「今日は何日」
スマホを見る。
「二〇二五年七月二十日」
「名前」
「五味真人」
「年齢」
「三十二歳」
「ここは」
少し考えた。
「……わからない」
それだけ答えると、少し安心した。
確認できた。
まだ大丈夫だ。
まだ自分は、自分で質問し、自分で答えている。
ふと、学生時代のことを思い出した。
コンビニでアルバイトをしていた頃。
夜勤になると、決まって来る客がいた。
五十代くらいの男だった。
入店してから帰るまで、ずっと誰かと話している。
「だから違うって」
「いや、俺は悪くない」
「それはお前が……」
レジへ来ても話していた。
商品を受け取っても話していた。
外へ出ても話していた。
イヤホンはつけていない。携帯も持っていない。
誰もいない。
真人は、その客が怖かった。
頭、おかしいんだろうな。
当時は、そう思っていた。
「……」
真人は立ち止まった。
いま、自分は何をしていた。
しばらく考えてから気づく。
「今日は何日」
そう聞いた。
自分で。
そして、自分で答えていた。
胸の奥が冷えた。
「違う」
首を振る。
「違う違う」
独り言とは違う。
確認だ。
必要なことだ。
あの男とは違う。
自分は違う。
だが、その日から少しずつ、自分が答えたのか、誰かが答えたのか、境界が曖昧になり始めた。
「今日は何日」
『二〇二五年九月三日』
聞こえた気がした。
真人は固まる。
自分が答える前に、聞こえた。
いや、気のせいだ。
疲れている。
疲れているわけではない。
眠いだけだ。
眠いわけでもない。
ずっと眠いだけだ。
「気のせい」
そう言って歩き出す。
それでも、質問はやめなかった。
「名前」
『五味真人』
「五味真人」
「年齢」
『三十二歳』
「三十二歳」
「ここは」
『わからない』
「……わからない」
一度だけ、答えがずれた。
真人は首をかしげる。
「ここは」
もう一度聞く。
「白い場所」
今度は自分で答えた。
「そうだ」
少し安心する。
その頃には、歩くことにも意味がなくなっていた。
歩く。止まる。座る。寝転ぶ。また歩く。
景色は一枚も変わらない。
変わるのは、スマホの日付だけだった。
ある日、真人は自分が何時間も歩いていないことに気づいた。
座っていた。
ただ座っていた。
何も考えていなかった。
いや、考えていたのかもしれない。
思い出せない。
スマホを見る。
二〇二五年十月二十八日。
「え」
昨日は。
昨日はいつだ。
十月。
九月。
八月。
思い出せない。
「……寝てた?」
違う。
眠れない。
眠ったことは一度もない。
なのに、時間だけが過ぎていた。
それからは、そんなことが増えた。
気がつくと、一日、二日、三日、いつの間にか過ぎている。
ぼんやりしていた、という記憶だけが残る。
何を考えていたのか。
何を見ていたのか。
何も思い出せない。
「……ぼーっとしてた」
それしか言えなかった。
真人は少し安心した。
考えなくても、時間は過ぎる。
百年なんて長すぎる。
だったら、ぼーっとしていれば終わる。
その方が楽だ。
だが、その安心は長く続かなかった。
ぼーっとしている時間が長くなるほど、何を考えていたのか思い出せなくなった。
自分が座ったのか。
立っていたのか。
歩いていたのか。
その区別まで曖昧になる。
そして、ある日。
真人は自分の口が動いていることに気づいた。
「…………」
何か話している。
耳を澄ます。
自分の声だった。
でも、何を言っているのかわからない。
意味のない音が、途切れることなく口から流れていた。
「ちが……」
口を押さえる。
声が止まる。
静寂。
その静寂が怖かった。
「しゃべってろ」
思わず、自分に命令した。
「しゃべってろ」
「止まるな」
止まったら、本当に自分まで止まってしまう気がした。
その頃には、出口を探すことも、叫ぶことも、ほとんどしなくなっていた。
それでも腹は減っていた。
胃は空っぽのまま縮み続けているようだった。
何かを食べたい。
温かい味噌汁。
コンビニのおにぎりでもいい。
何でもいい。
それなのに、飢えは少しも強くならない。
少しも弱くならない。
押した瞬間のまま、腹だけが減っていた。
眠い。
瞼は重い。
何日も徹夜した朝のようだった。
だが、眠れない。
目を閉じても、意識だけが白い床の上に置き去りになる。
右足もまだ痛い。
エレベーターの段差。
あんな小さな痛みだった。
それが何か月経っても、同じ場所で、同じ強さで、真人を刺し続けていた。
スマホを見る。
二〇二六年三月十日。
午後十一時五十八分。
真人はぼんやり眺めていた。
もうすぐ一年。
そんなことを考えたわけではない。
ただ数字を見ていただけだった。
午後十一時五十九分。
六十三パーセント。
右上の蜘蛛の巣状のひび。
圏外。
全部、変わらない。
日付だけが変わろうとしていた。
午前零時。
二〇二六年三月十一日。
真人は、何も感じなかった。
一年経った。
それだけだった。
百年のうちの一つ。
そう思った。
真人は、画面を見つめたまま動かなかった。
午前零時一分。
午前零時二分。
数字だけが変わっていく。
真人は、それを見ていた。
見続けていた。
指は画面に触れていない。
まばたきをしたのかどうかも、わからない。
首を上げれば、白い床がある。
歩けば、どこまでも歩ける。
叫ぶこともできる。
沙紀の名前を呼ぶこともできる。
それなのに、真人は何もしなかった。
ただ、スマホの画面だけを見ていた。
六十三パーセント。
圏外。
右上の、蜘蛛の巣のような細いひび。
午後一時。
午後二時。
午後三時。
その間に、何かを考えた気がする。
何も考えていなかった気もする。
ただ、時間だけが細い線になって、画面の中を進んでいった。
午後三時四十六分。
真人はまだ、同じ姿勢で画面を見ていた。
三時間四十六分。
立ち上がることもなく。
叫ぶこともなく。
目をそらすこともなく。
ただ、次の一分を待っていた。
待っているつもりもなかった。
それが、いちばん怖かった。
午後三時四十七分。
数字が変わった。
真人は、息を止めた。
何かが終わった気がした。
だが、何も起こらなかった。
白石は現れない。
壁も現れない。
扉もない。
机もない。
赤いボタンもない。
ただ、白いタイルの床だけが続いている。
真人は、もう一度スマホを見た。
午後三時四十七分。
六十三パーセント。
圏外。
右上の、蜘蛛の巣のような細いひび。
全部、変わらない。
だが、日付だけが違っていた。
二〇二五年三月十一日。
真人は、まばたきをした。
もう一度見る。
二〇二五年三月十一日。
午後三時四十七分。
「……は?」
声がかすれた。
真人は写真フォルダを開いた。
白い床。
足元。
右足。
自分の顔。
何百枚も撮ったはずだった。
だが、そこにはなかった。
写真は七枚だけだった。
CR大富豪。
大戸屋の定食。
バス停の時刻表。
契約書の一部。
営業会議のホワイトボード。
間違えて撮った天井。
本人確認用の自撮り。
押す前から入っていた七枚だけ。
真人は画面を見つめた。
「……一年」
声が震えた。
一年が、消えていた。
何も残らない。
歩いたことも。
叫んだことも。
撮った写真も。
自分の顔も。
沙紀の名前を呼んだことも。
何も残らない。
「あ……」
息が吸えなかった。
胸が潰れる。
百年。
あと九十九年。
違う。
これを、あと九十九回。
真人はゆっくり口を開いた。
最初は声にならなかった。
喉だけが震えた。
そして、腹の底から、白い世界を裂くように叫んだ。
「あああああああああああああああああああああああっ!」
その叫びは、誰にも届かなかった。




