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第一話 四回目

第一話 四回目

真人は、雑居ビルの四階でエレベーターを降りるとき、右足を段差にぶつけた。


「っ……」


たいした痛みではない。数日もすれば忘れる程度の痛みだった。


それでも、今日は妙に腹が立った。


前の晩はほとんど眠れなかった。返済日のこと、家賃のこと、スマホに残った督促の通知のことを考えているうちに、夜が明けていた。昼過ぎにようやく起き、何も食べずに部屋を出た。


腹は減っている。頭は重い。喉も渇いている。


それでも来るしかなかった。


照明は一段暗く、古いカーペットが靴音を吸い込んでいた。


壁には、銀色のプレートが掛かっている。


ネクストライフファイナンス


明るすぎる名前だと思った。


次の人生。


そんなものがあるなら、こっちが知りたい。


「五味様、お待たせいたしました」


男は柔らかく頭を下げた。


紺色のスーツに、白いワイシャツ。ネクタイは落ち着いたグレーと青のストライプ。名札には白石とだけ書かれていた。


ここだけ見れば、ごく普通の金融会社だった。


しかし、廊下は違った。


面談室へ案内される途中、半開きのドアの隙間から、頬のこけた男が見えた。膝を抱え、床を見つめている。


さらに奥では、黒いシャツの男が誰かを静かに諭していた。


怒鳴り声はない。


それが逆に、この場所の異様さを際立たせていた。


「こちらへどうぞ」


白石は何事もなかったように椅子を引く。


机の上には、分厚い契約書が一冊置かれていた。


マンション売買契約書と同じくらいの厚さだった。


「契約書って、どこもこんなに分厚いんですね」


「はい。ご説明には少々お時間をいただきます」


「いや、いいです」


真人は手を振った。


「そういうの、仕事でも散々見てきたんで」


「不動産関係のお仕事を?」


「営業です。……でした、かな」


笑ってみせた。


笑えた気がしただけだった。


「本日は、ご融資のご相談でよろしかったでしょうか」


「はい」


「申し訳ありません。現在のご状況では、ご希望額のご融資は難しいと判断いたしました」


やっぱりか。


銀行も、消費者金融も、カードローンも、どこへ行っても同じだった。


「ですが」


白石は静かに続けた。


「別のご提案がございます」


真人は顔を上げた。


「条件を満たしていただければ、一億円をお受け取りいただけます」


「……一億?」


思わず笑う。


「いやいや」


「はい。一億円です」


「そんな詐欺みたいな話」


「詐欺ではございません」


白石は淡々としていた。


机の引き出しから、小さな黒い箱を取り出す。中央に、赤いボタンが一つだけ付いていた。


「こちらを押していただくだけです」


「なんすか、それ」


「押していただくと、契約が履行されます」


「履行?」


「体感で百年、孤独な空間でお過ごしいただきます」


真人は数秒、白石を見つめた。


それから笑った。


「百年?」


「はい」


「一人で?」


「はい」


「帰ってこられる?」


「契約期間終了後、こちらへお戻りいただきます」


「現実の時間は?」


「ほとんど変わりません」


「それで?」


「一億円をお支払いいたします」


沈黙。


真人は赤いボタンを見つめた。


子どものおもちゃみたいだった。


「……嘘でしょ」


「ご判断はお任せいたします」


白石は契約書を開く。


第一条。第二条。契約期間。契約履行。契約解除不可。


文字が並んでいる。


真人は一ページも読まない。


「読まれますか」


「いや」


笑う。


「こういうの、仕事で散々ありましたから」


マンション契約。重要事項説明。約款。


誰も読まない。


実際、契約トラブルなんて滅多に起きない。だったら、全部読む必要なんてない。


大体、何とかなる。


「なんとかなるっしょ」


その言葉が口をついた。


白石は一瞬だけ真人を見た。


何も言わない。


「なお、記憶の保持・消去・例外的残存に関する事項は、別途約款に定めております」


白石は立ち上がる。


「約款をお持ちいたします」


真人は手で制した。


「ああ、大丈夫です」


「ですが」


「いいですって」


真人はペンを取る。


名前を書く。


五味 真人。


書き慣れた自分の字だった。


白石は最後まで止めなかった。


契約書を閉じる。


黒い箱を真人の前へ置く。


「おかえりなさいませ」


「……え?」


真人は顔を上げる。


今、何と言った。


白石は穏やかな笑みを浮かべたまま、真人を見ている。


聞き間違いか。


そう思うことにした。


「ご判断を」


赤いボタン。


どう考えても嘘だ。


百年?


そんなわけがない。


もし本当でも、一億円もらえるなら安いもんだ。


「押せばいいんですよね」


「はい」


「じゃあ」


真人は笑った。


「押しますよ」


カチッ。


世界から音が消えた。


* * *


白かった。


床だけがあった。


白いタイル。


目地がどこまでも続いている。


壁はない。天井も見えない。風もない。匂いもない。


真人は数秒、立ち尽くした。


「……え?」


右足が痛い。


さっき、エレベーターを降りるときにぶつけた場所だった。


腹も減っている。昨夜は眠れなかった。喉も渇いている。


全部、そのままだった。


「おい」


声が響く。


返事はない。


「白石!」


歩く。走る。止まる。


景色は何一つ変わらない。


ポケットからスマートフォンを取り出す。


画面には、右上から蜘蛛の巣のような細いひびが広がっている。


電池は六十三パーセント。


時刻は、午後三時四十七分。


日付は、二〇二五年三月十一日。


その瞬間だった。


何かが、頭の奥で軋んだ。


白い床。


叫び声。


静寂。


笑い声。


誰もいない空間。


百年。


百年。


百年。


ただ、「この場所を知っている」という感覚だけが、一気に戻ってくる。


真人の喉が鳴る。


息が止まりそうになる。


唇だけが震えた。


長い沈黙。


そして、ほとんど声にならないほど小さく、真人は呟いた。


「……四回目か」

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