10. 赤い雫
静謐な程の、個室。
――コンコンコン
「失礼します」
その凍った空間を融かすように、女性店員が現れた。煌びやかな輝きを纏うが如くの、寿司を持って。
「おまかせ十貫です」
「お! これこれー! あざっす! ほら、佐藤さん、見てよ!」
女性店員から寿司を受け取り、子供のようにはしゃぐリッセーだけど。
さっきの雰囲気は、ただ事じゃなかったわよね……。
そう……。まるで、白峰や篠原みたいな……。
「……うん。すごいねぇ。こんなお寿司、初めて見たわよ」
「だろー? オレも初めて見た時ビビったもん」
でも、この笑顔は、いつものリッセーだ……。
小さく息を吐きながら、額を拭う。
「そうなの……。確かにすごいもんねぇ。誰と来たの?」
「ああ、最初は一人だよ。出張の時だったしね」
「最初はってことは、その後、誰かと来たの?」
「ん。……アードだよ」
「そうなんだ? 外部講師なのに、仲良かったのねぇ」
「うーん。理由は知らないけどさ。やたらフレンドリーというか、ぐいぐい来るというかでさ……。まぁ、色々連れてったんだよなぁ……」
リッセーは、ふいっと目線を外して、遠く虚空を見詰めた。
それは、とても切なげな表情で……。
何だか……胸が、締まる。
だから……。
「そう……」
と、だけしか言えなかった。
「なんつーかさ。オレなんかが……あんな金髪美女に懐かれるってのが、最初はホントに実感なかったなぁー」
リッセーは、鰺の寿司を、箸で弄んでいた。
なんか……って。自己評価、低過ぎない?
「まぁ、温泉巡りで同室に泊まれって言われまくって、流石に気が付いたけどさ……」
そして、ひょいと掴んで、口に運んだ。
美味しいはずのそれを咀嚼しながら、段々とその顔が陰っていく。
「会社で会うことは、あんまりなかったけどさ。月二回だったしな、講習会。でもまぁ、毎日電話掛かってきてさ。週二回くらいは会ってたかもなぁ……」
「そうだったんだ……。それで、それが今回のことと、何の関係が?」
「うん……」
もう、リッセーの表情には、色がなくなっていた。
「……アードはさ、死んだよ」
「……えっ?」
雷に打たれたような衝撃が、全身を貫いた。
「急に来なくなったのはさ、死んだからだ」
リッセーは、死人のような顔だった。
きっと、この話は本当なんだろうけど……。
……俄かに信じられなかった。
「死んだって……なんで? 若い子だったじゃない」
確かにあの子、急に来なくなったけど……。
講習会の効果がないから止める……という話だと記憶していた。
死んだから来なくなった、ですって?
「……オレの代わりに、死んだんだ、アードは……」
地の底から絞り出すような、深く歪んだ声色だった。
テーブルの上で、小刻みに震えるリッセーの拳が、握られていた。
ミキキッという音……そして、バキッと箸が折れた。
「ちょっと、大丈夫……? それ、手……」
つうっと、赤いものが、リッセーの手を……伝っていった。
それは、ぱたたっと、テーブルを染めていく。
鯛の握りにも赤い雫が降り注ぎ、血化粧で鮪のようになっていた。
「こんな痛みはどうでもいい。どうでもいいんだ……。オレは……アードの仇を討つ。絶対に……な」
くっと上げたその瞳から、雫が溢れた。つうっと、頬をなぞっていった。
「仇って……?」
殺された……ってこと?
私は、自分で思っていたよりも、遥かに震える声だった。
「……アードはな。結構好奇心旺盛でさ……。まぁ、オレもわりとそうなんだけど。変な事件に巻き込まれたりとかもあったなぁ……。まぁ、それはいいとして……」
ふっと吐いた息が、冷気を帯びたようだった。
「……講師の仕事の最中、四〇二号室の噂を聞いちまったらしい。それで、調べたいとか言い出してさ……。あいつ、結構我儘言うけどさ。まぁ、素直なところは素直だったんだけどな。でも、好奇心が勝っちまうと、止まんなくってさぁ」
一瞬だけ、昔を懐かしんでいるのか、リッセーの表情が柔らくなった。
でも、すぐに影が差す。
「当時、その部屋に住んでた奴の部屋に行ったんだ。小野の前の住人だな。……まぁ、怪しいモノばっかの部屋だったわけだ。それで、オレもアードも、気付いたのさ。あの部屋は、組織末端の部屋だ……ってな」
「組織末端……?」
「ああ。オレは、十代の頃、そういう世界に触れてた。アードも、イギリス出身だが、色んなところを回ったらしい。そんな知識はあった。だからすぐに分かったよ。小野の前の住人は、オレたちが探り出したすぐ後に、消えた。……だからオレには、今回の小野の件も、またかって印象だった」
それで、あんなに断言していたのね……。
「まぁ、元々会社の良くない噂は知ってたしな……。でも、そこまで興味がなかった。オレに害がないなら、勝手にしてくれって感じだったしさ」
「……ああ、それ、たまに言ってるわね」
「そうね。……でもまぁ、害が、出ちまったんだよな……。オレは、社内で迫害されるようになった。陰湿な社内イジメ……って感じだったかな。最初は、中村派か、白峰派か分からなかったんだよな。社内全体に波及するのが、あっという間だったしなぁ」
「……そんなことが」
「まぁ、探ろうとした"見せしめ"だったんだろうなぁ。幸い、アードに直接何かってことはなかった。講習会が、月一に減らされただけだ。社内イジメも、オレにだけだったしな。まぁいいかって感じで。住人は口封じされたんだろうし、それ以上はないだろうと……。油断……してたんだろうなぁ……」
イジメ……。
戸田や池上の顔が、ちらついた。
「ある日、アードと歩いていた時にな。車が……突っ込んできたんだ。猛スピードで……な。気付いたら目の前、でさ……」
リッセーが、深く息を吐いた。
「そしたら……な。アードに……突き飛ばされたんだ、オレ……。鈍い、音がしたんだ……。アードが……宙を舞ってたよ……。街灯の薄明かりに浮かんだ金髪が……闇を照らしながら溶けていって……。赤い、雨が……。手を……伸ばしたんだ……オレ。あいつ……闇夜に呑まれながら……綺麗な顔で……笑ってた……よ……」
虚空を見詰めるリッセーが、笑顔なのか、泣き顔なのか……もう、分からなかった。
「……アードはな、最期に言ったよ。『りせゆきが、無事ならよかった』ってな……。あいつ、いつも『死ぬ時は一緒だよ。心中しようね』とか、言ってやがったくせに……」
心中って……。りせゆきなんて愛称まで付けて……。
アードって、独占欲の塊だったのね。孤独に生きてきた私には、分からない感情……ね。
「オレは……許せなかったよ……。突っ込んで来やがった奴も、やらせた奴も、オレなんかを庇ったアードも……。それを守れなかったオレ自身も! 許せなかったんだ!!」
絞るように叫ぶリッセーが、ドンッと、テーブルを叩いた。心臓が、跳ねた。
「……やらせた、奴?」
「ああ、突っ込んできた奴は、もちろん捕まったさ。……壊れたジャンキーだったよ。ブレイブに出入りしていた奴の内の一人だった。だから、すぐに気付いたのさ……」
「……えっ?!」
「おまけに、白峰のやつに呼び出されてな。答え合わせは完璧ってな。中村派主導じゃなかったってことだ」
白峰……。
「ハッ……。白峰の野郎、平然と言いやがったよ。『生きてて、よかったな。お前のような便利なやつには、しっかり働いてもらわないと』ってな。どんな脅しだってんだ。あん時の面ァ……忘れねぇよ……」
私は、ここまで怒りを露わにしているリッセーを……知らなかった。あまりの覚悟と迫力に、身震いが止まらない。
「オレは、そこから……大人しく、裏で探ったよ。色々とな……。派閥争いにも、手を貸す振りをしたりしてな。信頼を作ったのさ」
「じゃあ、今回のことって……私が、邪魔したってこと?」
「ハハハ……。そんなふうには思ってないって。……社畜仲間だろ? だから、下手なことに首突っ込んで欲しくなかったってだけさ……。国税なんかじゃ、白峰は止まらないから、な……」
薄い笑顔で、力なく笑うリッセーが、私には……たまらなく、痛くて……哀しかった。




