表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

壊れた部隊の拍

 敗残部隊再編補佐。

 肩書きとしては、長い。

 長いわりに偉そうではない。

 むしろ、言うたびに少しずつ格が下がっていく気がする。

 敗残。

 部隊。

 再編。

 補佐。

 最後の「補佐」で、急に小さくなる。

 カイは朝から、その肩書きを心の中で何度も転がしていた。

 転がしたところで美味しくなるわけではない。粉でも麦でもないのだから。いや、麦も転がして美味しくなるわけではない。挽け。粉挽きの息子だろ。

 ともかく。

 今日からカイは、第七歩兵補充隊のただの補助兵ではない。

 とはいえ、士官になったわけでもない。指揮権があるわけでもない。命令を出せるわけでもない。

 つまり、責任は増えたが権限は増えていない。

 すごい。

 社会だ。

 これが社会か。

 村の製粉所では、仕事が増えたら父に文句を言えばよかった。いや、言ったところで仕事は減らなかったが、少なくとも父は「うるさい」と言ってくれた。軍は「うるさい」と言う前に書類を渡してくる。

 カイの手元には、まさにその書類があった。

 再編対象者一覧。

 昨日の敗戦で損耗した部隊から、一時的に切り出された兵たち。

 その状態を観測し、訓練案を提出しろ、とのこと。

 提出。

 書類。

 訓練案。

 やめてほしい。

 俺は兵法書を読むのは好きだが、書類を書くのが好きとは言っていない。読むのと書くのは違う。粉を食べるのと粉を挽くのくらい違う。いや、粉をそのまま食べるな。


 集合場所は、臨時集結地の東側にある訓練区画だった。

 戦場から戻ったばかりの軍に、訓練をする余裕があるのかと思ったが、むしろ逆らしい。

 壊れた部隊は、早めに形を確認しないと本当に壊れる。

 どの兵が戻れるのか。

 どの兵は休ませるべきか。

 どの組み合わせなら動けるのか。

 それを見なければならない。

 なるほど、理屈は分かる。

 でも昨日死にかけたばかりなんですが。

 人間の回復速度、軍は過信しすぎでは?

「カイ」

 声をかけられて振り向くと、トマが槍を肩に担いで立っていた。

 肩の包帯はまだ残っているが、顔色は昨日よりましだ。

「おはよう、トマ。今日も元気に軍の歯車か?」

「お前がそれ言うと嫌な説得力があるな」

「水車の息子だからな。歯車にはうるさい」

「それで、俺たちは何をさせられるんだ」

「再編対象者として、俺に観測されます」

「偉そうだな」

「響きだけはな。実態は、俺も何すればいいかよく分かってない」

「大丈夫かよ」

「大丈夫じゃないから、今ここで悩んでる」

 トマが笑った。

 その後ろから、ユナが歩いてきた。

 弓を背負い、矢筒を腰に下げている。表情はいつも通り静かだが、右手首に薄い包帯が巻かれていた。

「カイ」

「おはよう。手、大丈夫?」

「弦で少し切っただけ」

「少しって言う人ほど、だいたい少しじゃない」

「あなたに言われたくない」

「昨日の俺の怪我は精神中心だから」

「余計に厄介」

 ユナはそう言って、カイの持つ書類を覗き込んだ。

「私たちの名前、ある?」

「ある。トマ、ユナ、ラッド、ミロ。それから……」

 カイは一覧を確認する。

 昨日の敗走中に一緒に動いた兵の名前がいくつもあった。

 ラッド・オルセン。

 ミロ・ケイン。

 負傷した結界兵、エリオ。

 魔法兵見習い、ニナ。

 ドワーフ工兵補助、バルク。

 獣人斥候、セト。

 ほかにも盾兵、槍兵、補助兵、弓兵が数名。

 合計で三十六名。

 昨日の八十七名すべてではない。重傷者は治療中。元部隊へ戻された者もいる。

 ここに集められたのは、動けるが、すぐに正規部隊へ戻すには不安がある者たち。

 言い方は悪いが、壊れかけの部品だ。

 その表現が頭に浮かんだ瞬間、カイは自分で嫌になった。

 部品じゃない。

 人間だ。

 でも軍の再編表では、どうしても部品のように扱われる。

 槍兵三、盾兵五、弓兵四、結界兵一、魔法兵見習い一、工兵補助一、斥候一、補助兵二十余。

 これをどう組むか。

 兵法書なら数字で考える。

 だが、昨日を見たあとでは、数字だけでは足りないと分かってしまった。

「おい、拍取り」

 ラッドがやってきた。

 大きな荷板を担いでいる。なぜ持ってきた。

「その呼び方、正式採用した覚えはない」

「でも覚えやすい」

「覚えやすさだけで人生のあだ名を決めないでくれ」

 ラッドの隣にミロもいた。

 彼は小さな工具袋を腰に下げ、空樽の蓋のような丸い板を抱えている。

「ミロ、それ何?」

「昨日、樽が役に立ったから。似たものを持ってきた」

「準備がいいな」

「俺、戦うより物を転がす方が向いてる」

「昨日の戦場ではかなり重要な才能だった」

「本当?」

「本当。敵騎兵に対する樽の有効性について、将来俺が本を書くなら一章使う」

「一章も?」

「たぶん半章」

「減った」

 ミロは少し笑った。

 その笑いを見て、カイは安心した。

 昨日、あれほど震えていたミロが、自分から道具を持ってきている。

 人は一晩で完全に立ち直るわけではない。

 でも、少し動けるようになることはある。

 それだけでも、十分すごい。


 やがて、他の再編対象者も集まってきた。

 負傷した結界兵エリオは、顔色が悪かった。

 年はカイより二つ三つ上だろう。短い茶髪で、真面目そうな目をしている。左腕に結界兵用の小盾をつけているが、その手はずっと震えていた。

 魔法兵見習いのニナは、小柄な少女だった。年齢は十六か十七。灰色のローブを着て、喉元に術式符を下げている。昨日の逆流で、魔法兵団の後方補助にいたらしい。解鎖の瞬間を見てから、詠唱の最後で声が止まるという。

 ドワーフ工兵補助のバルクは、背が低く、肩幅が広い。髭はまだ薄いので若いのだろう。だが表情は老け込んでいた。魔石杭の沈下を防げなかったと、自分を責めているらしい。

 獣人斥候のセトは、人間の青年より少し小柄で、狼に似た耳と尾を持っていた。目つきが鋭く、誰とも距離を取っている。上官を失い、以後の命令をほとんど聞かなくなったと書類にあった。

 カイは彼らを見た。

 壊れかけ。

 その言葉がまた浮かぶ。

 でも違う。

 壊れたのではない。

 まだ音がある。

 ただ、拍がばらばらになっているだけだ。

 ……いや、自分で言っておいて何だが、妙にそれっぽいな。格好つけるな、カイ。お前はまだ鼻血検査の補助兵だ。

「全員、揃ったか」

 低い声が響いた。

 訓練区画に入ってきたのは、今日の実地再編を監督する正規士官だった。

 名はバルド・ヘイン。

 四十代半ばくらいの男で、鎧は実用一点張り。顔には疲労の色があるが、目は鋭い。昨日の混乱を生き残った現場士官の一人らしい。

 階級は百人隊長。

 つまり、カイよりはるかに偉い。

 いや、カイより偉くない軍人を探す方が難しい。たぶん軍の馬にも負ける。馬は階級ないけど、少なくとも移動に役立つ。

 ヘイン百人隊長はカイを見る。

「お前がカイ・リンドか」

「はい。敗残部隊再編補佐です」

 言ってから、やっぱり長いと思った。

「アルド参謀から話は聞いている。お前に指揮権はない。分かっているな」

「はい。とても分かっています。むしろ分かりすぎて、少し安心しています」

「軽口は嫌いではないが、訓練中は控えろ」

「努力します」

「守れ」

「はい」

 この流れ、最近よくある。

 努力しますは通じないらしい。

 ヘインは全員に向き直った。

「お前たちは昨日の戦闘で所属部隊が損耗した。だが、まだ動ける。今日見るのは、お前たちが元の隊へ戻れるか、臨時部隊として再編するべきか、それとも休養が必要かだ」

 兵たちは静かに聞いている。

「まずは規定通りの小隊連携を行う。盾、槍、弓、結界、魔法。簡易四段チェーンだ」

 規定通り。

 その言葉を聞いた瞬間、カイの胸の奥が少しざわついた。

 規定は悪くない。

 規定は大事だ。

 規定がなければ軍は動かない。

 でも、昨日壊れた人たちを、今日すぐ規定通りに動かせるのか。

 ヘインは手早く配置を決めた。

 盾役にラッドを含む五人。

 槍役にトマたち六人。

 弓役にユナたち四人。

 結界役にエリオ。

 魔法役にニナ。

 工兵補助のバルクは魔石杭模型を扱う。

 斥候のセトは外周を回る役。

 形としては、かなり整っている。

 ヘインは有能だ。

 無理のない配置に見える。

 カイも最初はそう思った。

 だが、兵たちが位置についた瞬間、音が変わった。

 まず、トマ。

 槍の構えが少し前のめりだ。

 昨日の魔獣騎兵を止めようとした時の拍が残っている。突くタイミングが早くなる。

 ユナは冷静だが、周囲を見すぎている。自分の射線だけでなく、隊全体の乱れを探している。悪いことではないが、弓役としては半拍遅れる。

 ラッドは荷板では動けたが、盾列に入ると肩が固い。昨日の衝撃を覚えている。

 エリオは結界を張る前から、左手が震えている。解鎖の瞬間を思い出しているのだろう。

 ニナは詠唱の始めは問題ない。だが最後の語尾で喉が閉まる。

 バルクは杭を深く打ちすぎる。沈下を恐れて、過剰に固定しようとしている。

 セトは人間の太鼓に合わせる気がない。合わせると遅いのだ。耳がすでに別の拍を拾っている。

 全部、少しずつずれている。

 小さなずれ。

 だが、繋げれば大きくなる。

 ヘインが太鼓役に合図した。

 どん。

 一拍目。

 盾役が進む。

 ラッドの肩が固い。

 二拍目。

 槍役が出る。

 トマが早い。

 三拍目。

 弓役。

 ユナが遅い。

 四拍目。

 結界と魔法の接続。

 エリオの手が震え、ニナの声が止まりかける。

 カイは口を開いた。

 しかし、すぐ閉じた。

 指揮権はない。

 訓練を止める権限もない。

 昨日の今日で、また勝手に口を出すのか。

 いや、でもこのまま行くと小さな反動が出る。

 大事故にはならない。

 たぶん。

 でも、ニナがまた詠唱に失敗すれば、彼女は次に声を出せなくなるかもしれない。

 エリオの結界が揺れれば、彼は自分はもう駄目だと思うかもしれない。

 カイは歯を食いしばった。

 黙れ。

 でも黙るな。

 どっちだよ。

 訓練が進む。

 ニナが詠唱する。

「第一階梯――《火……》」

 止まる。

 エリオが無理に結界を張ろうとする。

 まずい。

「提案です!」

 カイは叫んでいた。

 ヘイン百人隊長が振り向く。

 鋭い目。

 終わった。

 またやった。

 だがヘインは怒鳴らなかった。

「言え」

 カイは一瞬だけ驚いた。

「え?」

「提案なのだろう。言え」

「あ、はい」

 喉が詰まりかけた。

 聞いてくれる。

 それだけで、少し足元が安定する。

「全員を同じ拍にしない方がいいと思います」

 兵たちがこちらを見る。

 ヘインは眉を動かした。

「理由は」

「トマ……槍兵が早いです。昨日の突撃を受けた拍が残っています。無理に抑えるより、二拍目ではなく一拍半で構えだけ作った方がいい。ユナたち弓兵は遅いですが、これは悪い遅れじゃありません。周囲を見ています。だから三拍目に撃たせるより、二拍半で狙い、四拍目に敵の動きへ合わせた方がいい」

 言葉が出る。

 止まらない。

 ただし、昨日ほど怖くはない。

 訓練だから。

 いや、それもある。

 でも、それだけではない。

 ここにいる全員の音が、昨日一度聞いたことのある音だからだ。

「ラッドたち盾役は、正面で受けるより斜めにした方が安定します。エリオさんの結界は、今は全体を覆わない方がいいです。一点だけ、ニナの魔法の反動を逃がす場所に。ニナは最後まで唱えなくていい。最初の二語だけで火を作る練習から。バルクは杭を深く打たない。浅くてもいいから、抜ける道を残す。セトは太鼓に合わせる必要はないです。むしろ外の拍を拾って、半拍先に動いてください」

 言い終わって、カイは息を吐いた。

 静かだった。

 やばい。

 言いすぎた。

 ヘインは腕を組み、しばらく考えていた。

 それから言った。

「やってみろ」

 カイは目を瞬いた。

「え?」

「提案を採用する。やってみろ」

「あ、はい。いや、俺が命令していいんですか」

「命令ではない。訓練案の実施だ。私が許可する」

 なるほど。

 指揮権ではない。

 許可された訓練案。

 軍は言葉が大事だ。面倒くさいけど大事だ。

 カイは皆を見た。

「じゃあ……ええと、全員、今のは命令ではなく、許可された訓練案です」

 トマが笑った。

「長い!」

「うるさい。俺だって短くしたい」

 ユナが淡々と言う。

「拍を分ける?」

「うん。全員を一つにしない」

「それでチェーンになるの?」

「たぶん」

「たぶん」

「今、そこを強調しないでほしい」

 カイは一度深呼吸した。

「まず盾役。正面に立たない。少し斜め。受けるんじゃなくて流す。ラッド、昨日の荷板と同じ感覚で」

「盾で荷板を思い出せってことか」

「そう。盾に失礼かもしれないけど」

「いい。俺には分かりやすい」

「トマ、槍は早く出したくなると思う」

「なる」

「出すな」

「難しいこと言うな」

「出すな、というより、構えだけ先に作る。突くのは俺が数えてから」

「分かった」

「ユナ、弓は撃つより見る。撃つのは遅くていい」

「それは得意」

「エリオさん」

 結界兵エリオがびくりとした。

「はい」

「全体結界は張らなくていいです」

「でも、それでは役目が」

「役目を小さくします。ニナの魔法が弾ける場所だけ、薄く受けてください。大きく張ると、たぶん手が震えます」

 エリオは自分の左手を見た。

 震えている。

 彼は唇を噛んだ。

「……分かりました」

「ニナ」

 魔法兵見習いの少女が肩を震わせた。

「最後まで唱えなくていい。第一階梯《火花》の前半だけ。火を作るんじゃなくて、火が出る手前で止める」

「それ、魔法になりません」

「うん。今日は魔法にしなくていい」

「え?」

「声を出す練習です。魔法はその後で」

 ニナは目を見開いた。

 たぶん、魔法兵としては屈辱かもしれない。

 でも、昨日の解鎖の光を見た彼女に、いきなり火を出せという方が酷だ。

 カイは続けた。

「バルク、杭は浅く」

 ドワーフの若者が眉をひそめる。

「浅い杭は信用できん」

「深すぎる杭も信用できない。昨日は沈んだ。今日は抜け道を残す」

 バルクの表情が強張った。

 昨日のことを刺してしまった。

 失敗したか。

 だがカイは続けるしかなかった。

「沈めないためじゃなく、逃がすために打ってほしい。杭は地面に縛るものじゃなくて、流れを分けるものとして」

 バルクはしばらく黙った。

 それから、短く頷いた。

「……やってみる」

「セト」

 獣人斥候は、少し離れた場所からこちらを見ていた。

「俺は太鼓に合わせん」

「合わせなくていい」

 セトの耳が動いた。

「何?」

「合わせなくていいです。むしろ合わせないで、外を走ってください。人間の拍に入ると遅い。だから、あなたは先に敵の拍を鳴らす役」

「敵はいない」

「今日は木杭を敵にします」

「木杭」

「すみません、敵役が不足していて」

 セトは不満そうに鼻を鳴らした。

 しかし、それ以上は反発しなかった。

 カイは全体を見た。

 盾、槍、弓、結界、魔法、工兵、斥候。

 小さい。

 でも、正規軍の縮図だ。

 それぞれ違う拍を持っている。

 全部を一つにしようとすれば壊れる。

 なら、違うまま接続点を作る。

「太鼓は二つ」

 カイは言った。

 ヘインが眉を上げる。

「二つ?」

「はい。低い拍は盾と槍。高い拍はセトと弓。魔法と結界は最後だけ低い拍に乗せます」

 ヘインはしばらく見ていた。

 それから太鼓役に命じた。

「小太鼓をもう一つ持ってこい」

 本当にやるのか。

 カイは少し震えた。

 自分で提案しておいて、実際に動き始めると怖い。

 だが、小太鼓が運ばれてきた。

 低い太鼓。

 高い太鼓。

 二つの拍が鳴る。

 どん。

 たん。

 どん。

 たん。

 最初はばらばらだった。

 盾兵は低い拍に戸惑い、セトは高い拍にすら不満そうだった。トマは早く突きたがり、ユナは様子を見すぎる。ニナは喉に手を当て、エリオは結界を張る前から汗をかいている。

 でも、一度目より音が悪くない。

 ズレている。

 だが、詰まっていない。

「もう一度」

 ヘインが言った。

 二度目。

 盾が斜めに出る。

 槍が構えだけ作る。

 セトが外を走る。

 ユナが木杭の揺れを見て矢を構える。

 バルクが浅く杭を打つ。

 ニナが詠唱する。

「第一階梯――《火……》」

 声が止まりかける。

 エリオの手が震える。

 カイは叫んだ。

「そこでいい! 止めていい!」

 ニナが驚いた顔で、詠唱を止めた。

 火は出ない。

 魔法は成立しない。

 しかし暴発もしない。

 エリオの結界も揺れなかった。

 カイは思わず息を吐いた。

「よし」

 ニナが呆然としている。

「よし、なんですか」

「よしです。暴発してない」

「魔法も出てません」

「今日はそれでいい」

「……いいんですか」

「生きてれば次があります」

 言ってから、カイは自分の言葉に少し驚いた。

 昨日、誰かが言っていたような言葉だ。

 生きていれば。

 最近、そればかりだ。

 でも、本当にそう思う。

 ヘインは黙って見ていた。

 三度目。

 今度はニナが最後の語尾まで少しだけ進んだ。

 火花は出ない。

 でも声は出た。

 エリオがその瞬間だけ、薄い結界を張る。

 バルクの浅い杭が地面に光を逃がす。

 小さな青い線が地面を走った。

 カイの胸の奥で、糸が震えた。

 悪くない。

 かなり危うい。

 でも、繋がった。

 四度目。

 ユナの矢が木杭を射る。

 セトが外側から走り、木杭の影を揺らす。

 盾が斜めに受け、槍が三拍目で出る。

 ニナが小さく詠唱する。

「第一階梯――《火花》」

 小さな火が生まれた。

 本当に小さい。

 指先ほどの火。

 だが、その火は暴発しなかった。

 エリオの結界に支えられ、バルクの杭へ反動が抜けた。

 火花が木杭に当たり、ぱちんと弾けた。

 訓練場に、短い沈黙が落ちた。

 それから、ミロが小さく拍手した。

 ぱち。

 ぱち。

 ラッドも続いた。

 トマが槍で地面を軽く叩く。

 ユナは無表情だったが、少しだけ息を吐いた。

 ニナは自分の手を見ていた。

 エリオも、自分の震えていない左手を見ていた。

 バルクは浅く打った杭を見つめている。

 セトは耳をぴくりと動かしただけだったが、逃げずにその場にいた。

 カイは、何だか胸が詰まった。

 大きな勝利ではない。

 敵を倒したわけでもない。

 ただ、訓練用の木杭に小さな火花が当たっただけ。

 でも、それがひどく大事なことに思えた。

「……できた」

 ニナが呟いた。

 カイは頷いた。

「できました」

「こんな小さい火で」

「小さい方がいい日もあります」

「魔法兵なのに?」

「魔法兵だから、次も撃てる方がいいです」

 ニナは何も言わなかった。

 でも、少しだけ顔が上がった。


 ヘイン百人隊長がカイの隣に来た。

「妙な訓練だ」

「すみません」

「謝る必要はない。成果は出た」

 カイは驚いてヘインを見た。

「出ましたか」

「少なくとも、彼らは一度目より動けている」

「よかった」

「だが、これは正規教範にはない」

「でしょうね」

「報告書に何と書けばいい」

「俺に聞きます?」

「お前の訓練案だ」

「……複数拍による段階的接続訓練、とか」

 ヘインは少し黙った。

「悪くない」

「本当ですか?」

「長いがな」

「そこは軍っぽくていいかなと」

 ヘインはほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑った、のかもしれない。

「カイ・リンド」

「はい」

「お前は、彼らを一つにしようとしなかった」

「はい」

「なぜだ」

 カイは訓練場を見た。

 トマは槍を調整している。

 ユナは木杭に刺さった矢の角度を見ている。

 ラッドは盾の持ち方を確認している。

 ミロは樽の蓋を転がしている。なぜだ。まあいいか。彼には必要なのだろう。

 エリオは左手を握ったり開いたりしている。

 ニナは小さく詠唱の口の形を繰り返している。

 バルクは杭を浅く打ち直している。

 セトは少し離れた場所で、外周を走る線を目で測っている。

 皆、違う。

 違う音を持っている。

 それを無理やり一つにしたら、たぶんまた壊れる。

「一つにしたら、折れそうだったからです」

 カイは答えた。

「でも、ばらばらのままだと死ぬ。だから……同じ音にするんじゃなくて、同じ曲の中に置く、というか」

 言ってから、カイは顔をしかめた。

 何だ今の。

 格好つけすぎだろ。

 誰だ、お前。詩人か。粉挽きだろ。

「すみません。今のは忘れてください」

 ヘインは少し考えた。

「いや、覚えておく」

「できれば本当に忘れてほしいです」

「無理だな」

 ヘインは訓練場へ向き直った。

「もう一度行う。今度は標的を二つに増やす」

 兵たちが動き始める。

 カイはその音を聞いた。

 まだぎこちない。

 まだ危うい。

 でも、一度目よりはましだ。

 昨日の戦場で、彼らは壊れかけた。

 今日、少しだけ拍を取り戻した。

 その事実が、カイの胸に温かく残った。


 午前の訓練が終わる頃、再編対象者たちは疲れ切っていた。

 だが、朝のような沈んだ空気ではなかった。

 トマが槍を担ぎ直し、ラッドが盾を背負い、ミロが樽蓋を回収する。

 ユナがカイの横に来た。

「さっきの、悪くなかった」

「どれ?」

「同じ音にしない、という話」

「忘れてって言ったやつだ」

「覚えておく」

「全員、俺の恥を保存するのやめてくれない?」

「役に立つ恥なら保存する」

「そんな分類ある?」

 ユナは少しだけ笑った。

 その時、訓練区画の外から伝令兵が走ってきた。

 ヘイン百人隊長に紙を渡す。

 ヘインの顔が険しくなった。

 カイは嫌な予感がした。

 最近、顔が険しくなる人を見ると、だいたい面倒なことが起きる。これはもう経験則だ。水車より信頼できる。

 ヘインがカイを呼んだ。

「カイ・リンド」

「はい」

「午後の訓練は中止だ」

「え」

「お前たち再編隊に、移動命令が出た」

 トマが眉をひそめる。

「移動?」

 ヘインは紙を見た。

「西部辺境、グレイル砦。敗残部隊再編の実地試験として、明朝出発する」

 グレイル砦。

 カイはその名を聞いた瞬間、胸の奥が微かに震えた。

 どこかで見た名だ。

 いや、聞いたことがある。

 どこだ。

 カイは鞄の中にある本を思い出した。

 『第五連鎖崩壊記録』。

 その付録地図の端。

 古い戦場の近くに、確かその名があった。

 グレイル砦。

 壊れた鎖の記録に近い場所。

 嫌な音がした。

 まだ遠い。

 だが確かに、何かが軋んだ。

「カイ?」

 トマが声をかける。

 カイは慌てて笑った。

「いや、何でもない。辺境砦か。いいね、空気が綺麗そうだ」

「本当か?」

「たぶん。少なくとも王都よりは臭くない」

「そこかよ」

 笑いながら、カイは胸元の木札に触れた。

 無才の木札。

 当てにならない木札。

 そして今、自分はその木札をぶら下げたまま、別の戦場へ向かおうとしている。

 昨日の白い左翼。

 今日の小さな火花。

 明日のグレイル砦。

 水車は、また回り始めている。

 カイには、その音が聞こえた気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ