壊れた部隊の拍
敗残部隊再編補佐。
肩書きとしては、長い。
長いわりに偉そうではない。
むしろ、言うたびに少しずつ格が下がっていく気がする。
敗残。
部隊。
再編。
補佐。
最後の「補佐」で、急に小さくなる。
カイは朝から、その肩書きを心の中で何度も転がしていた。
転がしたところで美味しくなるわけではない。粉でも麦でもないのだから。いや、麦も転がして美味しくなるわけではない。挽け。粉挽きの息子だろ。
ともかく。
今日からカイは、第七歩兵補充隊のただの補助兵ではない。
とはいえ、士官になったわけでもない。指揮権があるわけでもない。命令を出せるわけでもない。
つまり、責任は増えたが権限は増えていない。
すごい。
社会だ。
これが社会か。
村の製粉所では、仕事が増えたら父に文句を言えばよかった。いや、言ったところで仕事は減らなかったが、少なくとも父は「うるさい」と言ってくれた。軍は「うるさい」と言う前に書類を渡してくる。
カイの手元には、まさにその書類があった。
再編対象者一覧。
昨日の敗戦で損耗した部隊から、一時的に切り出された兵たち。
その状態を観測し、訓練案を提出しろ、とのこと。
提出。
書類。
訓練案。
やめてほしい。
俺は兵法書を読むのは好きだが、書類を書くのが好きとは言っていない。読むのと書くのは違う。粉を食べるのと粉を挽くのくらい違う。いや、粉をそのまま食べるな。
集合場所は、臨時集結地の東側にある訓練区画だった。
戦場から戻ったばかりの軍に、訓練をする余裕があるのかと思ったが、むしろ逆らしい。
壊れた部隊は、早めに形を確認しないと本当に壊れる。
どの兵が戻れるのか。
どの兵は休ませるべきか。
どの組み合わせなら動けるのか。
それを見なければならない。
なるほど、理屈は分かる。
でも昨日死にかけたばかりなんですが。
人間の回復速度、軍は過信しすぎでは?
「カイ」
声をかけられて振り向くと、トマが槍を肩に担いで立っていた。
肩の包帯はまだ残っているが、顔色は昨日よりましだ。
「おはよう、トマ。今日も元気に軍の歯車か?」
「お前がそれ言うと嫌な説得力があるな」
「水車の息子だからな。歯車にはうるさい」
「それで、俺たちは何をさせられるんだ」
「再編対象者として、俺に観測されます」
「偉そうだな」
「響きだけはな。実態は、俺も何すればいいかよく分かってない」
「大丈夫かよ」
「大丈夫じゃないから、今ここで悩んでる」
トマが笑った。
その後ろから、ユナが歩いてきた。
弓を背負い、矢筒を腰に下げている。表情はいつも通り静かだが、右手首に薄い包帯が巻かれていた。
「カイ」
「おはよう。手、大丈夫?」
「弦で少し切っただけ」
「少しって言う人ほど、だいたい少しじゃない」
「あなたに言われたくない」
「昨日の俺の怪我は精神中心だから」
「余計に厄介」
ユナはそう言って、カイの持つ書類を覗き込んだ。
「私たちの名前、ある?」
「ある。トマ、ユナ、ラッド、ミロ。それから……」
カイは一覧を確認する。
昨日の敗走中に一緒に動いた兵の名前がいくつもあった。
ラッド・オルセン。
ミロ・ケイン。
負傷した結界兵、エリオ。
魔法兵見習い、ニナ。
ドワーフ工兵補助、バルク。
獣人斥候、セト。
ほかにも盾兵、槍兵、補助兵、弓兵が数名。
合計で三十六名。
昨日の八十七名すべてではない。重傷者は治療中。元部隊へ戻された者もいる。
ここに集められたのは、動けるが、すぐに正規部隊へ戻すには不安がある者たち。
言い方は悪いが、壊れかけの部品だ。
その表現が頭に浮かんだ瞬間、カイは自分で嫌になった。
部品じゃない。
人間だ。
でも軍の再編表では、どうしても部品のように扱われる。
槍兵三、盾兵五、弓兵四、結界兵一、魔法兵見習い一、工兵補助一、斥候一、補助兵二十余。
これをどう組むか。
兵法書なら数字で考える。
だが、昨日を見たあとでは、数字だけでは足りないと分かってしまった。
「おい、拍取り」
ラッドがやってきた。
大きな荷板を担いでいる。なぜ持ってきた。
「その呼び方、正式採用した覚えはない」
「でも覚えやすい」
「覚えやすさだけで人生のあだ名を決めないでくれ」
ラッドの隣にミロもいた。
彼は小さな工具袋を腰に下げ、空樽の蓋のような丸い板を抱えている。
「ミロ、それ何?」
「昨日、樽が役に立ったから。似たものを持ってきた」
「準備がいいな」
「俺、戦うより物を転がす方が向いてる」
「昨日の戦場ではかなり重要な才能だった」
「本当?」
「本当。敵騎兵に対する樽の有効性について、将来俺が本を書くなら一章使う」
「一章も?」
「たぶん半章」
「減った」
ミロは少し笑った。
その笑いを見て、カイは安心した。
昨日、あれほど震えていたミロが、自分から道具を持ってきている。
人は一晩で完全に立ち直るわけではない。
でも、少し動けるようになることはある。
それだけでも、十分すごい。
やがて、他の再編対象者も集まってきた。
負傷した結界兵エリオは、顔色が悪かった。
年はカイより二つ三つ上だろう。短い茶髪で、真面目そうな目をしている。左腕に結界兵用の小盾をつけているが、その手はずっと震えていた。
魔法兵見習いのニナは、小柄な少女だった。年齢は十六か十七。灰色のローブを着て、喉元に術式符を下げている。昨日の逆流で、魔法兵団の後方補助にいたらしい。解鎖の瞬間を見てから、詠唱の最後で声が止まるという。
ドワーフ工兵補助のバルクは、背が低く、肩幅が広い。髭はまだ薄いので若いのだろう。だが表情は老け込んでいた。魔石杭の沈下を防げなかったと、自分を責めているらしい。
獣人斥候のセトは、人間の青年より少し小柄で、狼に似た耳と尾を持っていた。目つきが鋭く、誰とも距離を取っている。上官を失い、以後の命令をほとんど聞かなくなったと書類にあった。
カイは彼らを見た。
壊れかけ。
その言葉がまた浮かぶ。
でも違う。
壊れたのではない。
まだ音がある。
ただ、拍がばらばらになっているだけだ。
……いや、自分で言っておいて何だが、妙にそれっぽいな。格好つけるな、カイ。お前はまだ鼻血検査の補助兵だ。
「全員、揃ったか」
低い声が響いた。
訓練区画に入ってきたのは、今日の実地再編を監督する正規士官だった。
名はバルド・ヘイン。
四十代半ばくらいの男で、鎧は実用一点張り。顔には疲労の色があるが、目は鋭い。昨日の混乱を生き残った現場士官の一人らしい。
階級は百人隊長。
つまり、カイよりはるかに偉い。
いや、カイより偉くない軍人を探す方が難しい。たぶん軍の馬にも負ける。馬は階級ないけど、少なくとも移動に役立つ。
ヘイン百人隊長はカイを見る。
「お前がカイ・リンドか」
「はい。敗残部隊再編補佐です」
言ってから、やっぱり長いと思った。
「アルド参謀から話は聞いている。お前に指揮権はない。分かっているな」
「はい。とても分かっています。むしろ分かりすぎて、少し安心しています」
「軽口は嫌いではないが、訓練中は控えろ」
「努力します」
「守れ」
「はい」
この流れ、最近よくある。
努力しますは通じないらしい。
ヘインは全員に向き直った。
「お前たちは昨日の戦闘で所属部隊が損耗した。だが、まだ動ける。今日見るのは、お前たちが元の隊へ戻れるか、臨時部隊として再編するべきか、それとも休養が必要かだ」
兵たちは静かに聞いている。
「まずは規定通りの小隊連携を行う。盾、槍、弓、結界、魔法。簡易四段チェーンだ」
規定通り。
その言葉を聞いた瞬間、カイの胸の奥が少しざわついた。
規定は悪くない。
規定は大事だ。
規定がなければ軍は動かない。
でも、昨日壊れた人たちを、今日すぐ規定通りに動かせるのか。
ヘインは手早く配置を決めた。
盾役にラッドを含む五人。
槍役にトマたち六人。
弓役にユナたち四人。
結界役にエリオ。
魔法役にニナ。
工兵補助のバルクは魔石杭模型を扱う。
斥候のセトは外周を回る役。
形としては、かなり整っている。
ヘインは有能だ。
無理のない配置に見える。
カイも最初はそう思った。
だが、兵たちが位置についた瞬間、音が変わった。
まず、トマ。
槍の構えが少し前のめりだ。
昨日の魔獣騎兵を止めようとした時の拍が残っている。突くタイミングが早くなる。
ユナは冷静だが、周囲を見すぎている。自分の射線だけでなく、隊全体の乱れを探している。悪いことではないが、弓役としては半拍遅れる。
ラッドは荷板では動けたが、盾列に入ると肩が固い。昨日の衝撃を覚えている。
エリオは結界を張る前から、左手が震えている。解鎖の瞬間を思い出しているのだろう。
ニナは詠唱の始めは問題ない。だが最後の語尾で喉が閉まる。
バルクは杭を深く打ちすぎる。沈下を恐れて、過剰に固定しようとしている。
セトは人間の太鼓に合わせる気がない。合わせると遅いのだ。耳がすでに別の拍を拾っている。
全部、少しずつずれている。
小さなずれ。
だが、繋げれば大きくなる。
ヘインが太鼓役に合図した。
どん。
一拍目。
盾役が進む。
ラッドの肩が固い。
二拍目。
槍役が出る。
トマが早い。
三拍目。
弓役。
ユナが遅い。
四拍目。
結界と魔法の接続。
エリオの手が震え、ニナの声が止まりかける。
カイは口を開いた。
しかし、すぐ閉じた。
指揮権はない。
訓練を止める権限もない。
昨日の今日で、また勝手に口を出すのか。
いや、でもこのまま行くと小さな反動が出る。
大事故にはならない。
たぶん。
でも、ニナがまた詠唱に失敗すれば、彼女は次に声を出せなくなるかもしれない。
エリオの結界が揺れれば、彼は自分はもう駄目だと思うかもしれない。
カイは歯を食いしばった。
黙れ。
でも黙るな。
どっちだよ。
訓練が進む。
ニナが詠唱する。
「第一階梯――《火……》」
止まる。
エリオが無理に結界を張ろうとする。
まずい。
「提案です!」
カイは叫んでいた。
ヘイン百人隊長が振り向く。
鋭い目。
終わった。
またやった。
だがヘインは怒鳴らなかった。
「言え」
カイは一瞬だけ驚いた。
「え?」
「提案なのだろう。言え」
「あ、はい」
喉が詰まりかけた。
聞いてくれる。
それだけで、少し足元が安定する。
「全員を同じ拍にしない方がいいと思います」
兵たちがこちらを見る。
ヘインは眉を動かした。
「理由は」
「トマ……槍兵が早いです。昨日の突撃を受けた拍が残っています。無理に抑えるより、二拍目ではなく一拍半で構えだけ作った方がいい。ユナたち弓兵は遅いですが、これは悪い遅れじゃありません。周囲を見ています。だから三拍目に撃たせるより、二拍半で狙い、四拍目に敵の動きへ合わせた方がいい」
言葉が出る。
止まらない。
ただし、昨日ほど怖くはない。
訓練だから。
いや、それもある。
でも、それだけではない。
ここにいる全員の音が、昨日一度聞いたことのある音だからだ。
「ラッドたち盾役は、正面で受けるより斜めにした方が安定します。エリオさんの結界は、今は全体を覆わない方がいいです。一点だけ、ニナの魔法の反動を逃がす場所に。ニナは最後まで唱えなくていい。最初の二語だけで火を作る練習から。バルクは杭を深く打たない。浅くてもいいから、抜ける道を残す。セトは太鼓に合わせる必要はないです。むしろ外の拍を拾って、半拍先に動いてください」
言い終わって、カイは息を吐いた。
静かだった。
やばい。
言いすぎた。
ヘインは腕を組み、しばらく考えていた。
それから言った。
「やってみろ」
カイは目を瞬いた。
「え?」
「提案を採用する。やってみろ」
「あ、はい。いや、俺が命令していいんですか」
「命令ではない。訓練案の実施だ。私が許可する」
なるほど。
指揮権ではない。
許可された訓練案。
軍は言葉が大事だ。面倒くさいけど大事だ。
カイは皆を見た。
「じゃあ……ええと、全員、今のは命令ではなく、許可された訓練案です」
トマが笑った。
「長い!」
「うるさい。俺だって短くしたい」
ユナが淡々と言う。
「拍を分ける?」
「うん。全員を一つにしない」
「それでチェーンになるの?」
「たぶん」
「たぶん」
「今、そこを強調しないでほしい」
カイは一度深呼吸した。
「まず盾役。正面に立たない。少し斜め。受けるんじゃなくて流す。ラッド、昨日の荷板と同じ感覚で」
「盾で荷板を思い出せってことか」
「そう。盾に失礼かもしれないけど」
「いい。俺には分かりやすい」
「トマ、槍は早く出したくなると思う」
「なる」
「出すな」
「難しいこと言うな」
「出すな、というより、構えだけ先に作る。突くのは俺が数えてから」
「分かった」
「ユナ、弓は撃つより見る。撃つのは遅くていい」
「それは得意」
「エリオさん」
結界兵エリオがびくりとした。
「はい」
「全体結界は張らなくていいです」
「でも、それでは役目が」
「役目を小さくします。ニナの魔法が弾ける場所だけ、薄く受けてください。大きく張ると、たぶん手が震えます」
エリオは自分の左手を見た。
震えている。
彼は唇を噛んだ。
「……分かりました」
「ニナ」
魔法兵見習いの少女が肩を震わせた。
「最後まで唱えなくていい。第一階梯《火花》の前半だけ。火を作るんじゃなくて、火が出る手前で止める」
「それ、魔法になりません」
「うん。今日は魔法にしなくていい」
「え?」
「声を出す練習です。魔法はその後で」
ニナは目を見開いた。
たぶん、魔法兵としては屈辱かもしれない。
でも、昨日の解鎖の光を見た彼女に、いきなり火を出せという方が酷だ。
カイは続けた。
「バルク、杭は浅く」
ドワーフの若者が眉をひそめる。
「浅い杭は信用できん」
「深すぎる杭も信用できない。昨日は沈んだ。今日は抜け道を残す」
バルクの表情が強張った。
昨日のことを刺してしまった。
失敗したか。
だがカイは続けるしかなかった。
「沈めないためじゃなく、逃がすために打ってほしい。杭は地面に縛るものじゃなくて、流れを分けるものとして」
バルクはしばらく黙った。
それから、短く頷いた。
「……やってみる」
「セト」
獣人斥候は、少し離れた場所からこちらを見ていた。
「俺は太鼓に合わせん」
「合わせなくていい」
セトの耳が動いた。
「何?」
「合わせなくていいです。むしろ合わせないで、外を走ってください。人間の拍に入ると遅い。だから、あなたは先に敵の拍を鳴らす役」
「敵はいない」
「今日は木杭を敵にします」
「木杭」
「すみません、敵役が不足していて」
セトは不満そうに鼻を鳴らした。
しかし、それ以上は反発しなかった。
カイは全体を見た。
盾、槍、弓、結界、魔法、工兵、斥候。
小さい。
でも、正規軍の縮図だ。
それぞれ違う拍を持っている。
全部を一つにしようとすれば壊れる。
なら、違うまま接続点を作る。
「太鼓は二つ」
カイは言った。
ヘインが眉を上げる。
「二つ?」
「はい。低い拍は盾と槍。高い拍はセトと弓。魔法と結界は最後だけ低い拍に乗せます」
ヘインはしばらく見ていた。
それから太鼓役に命じた。
「小太鼓をもう一つ持ってこい」
本当にやるのか。
カイは少し震えた。
自分で提案しておいて、実際に動き始めると怖い。
だが、小太鼓が運ばれてきた。
低い太鼓。
高い太鼓。
二つの拍が鳴る。
どん。
たん。
どん。
たん。
最初はばらばらだった。
盾兵は低い拍に戸惑い、セトは高い拍にすら不満そうだった。トマは早く突きたがり、ユナは様子を見すぎる。ニナは喉に手を当て、エリオは結界を張る前から汗をかいている。
でも、一度目より音が悪くない。
ズレている。
だが、詰まっていない。
「もう一度」
ヘインが言った。
二度目。
盾が斜めに出る。
槍が構えだけ作る。
セトが外を走る。
ユナが木杭の揺れを見て矢を構える。
バルクが浅く杭を打つ。
ニナが詠唱する。
「第一階梯――《火……》」
声が止まりかける。
エリオの手が震える。
カイは叫んだ。
「そこでいい! 止めていい!」
ニナが驚いた顔で、詠唱を止めた。
火は出ない。
魔法は成立しない。
しかし暴発もしない。
エリオの結界も揺れなかった。
カイは思わず息を吐いた。
「よし」
ニナが呆然としている。
「よし、なんですか」
「よしです。暴発してない」
「魔法も出てません」
「今日はそれでいい」
「……いいんですか」
「生きてれば次があります」
言ってから、カイは自分の言葉に少し驚いた。
昨日、誰かが言っていたような言葉だ。
生きていれば。
最近、そればかりだ。
でも、本当にそう思う。
ヘインは黙って見ていた。
三度目。
今度はニナが最後の語尾まで少しだけ進んだ。
火花は出ない。
でも声は出た。
エリオがその瞬間だけ、薄い結界を張る。
バルクの浅い杭が地面に光を逃がす。
小さな青い線が地面を走った。
カイの胸の奥で、糸が震えた。
悪くない。
かなり危うい。
でも、繋がった。
四度目。
ユナの矢が木杭を射る。
セトが外側から走り、木杭の影を揺らす。
盾が斜めに受け、槍が三拍目で出る。
ニナが小さく詠唱する。
「第一階梯――《火花》」
小さな火が生まれた。
本当に小さい。
指先ほどの火。
だが、その火は暴発しなかった。
エリオの結界に支えられ、バルクの杭へ反動が抜けた。
火花が木杭に当たり、ぱちんと弾けた。
訓練場に、短い沈黙が落ちた。
それから、ミロが小さく拍手した。
ぱち。
ぱち。
ラッドも続いた。
トマが槍で地面を軽く叩く。
ユナは無表情だったが、少しだけ息を吐いた。
ニナは自分の手を見ていた。
エリオも、自分の震えていない左手を見ていた。
バルクは浅く打った杭を見つめている。
セトは耳をぴくりと動かしただけだったが、逃げずにその場にいた。
カイは、何だか胸が詰まった。
大きな勝利ではない。
敵を倒したわけでもない。
ただ、訓練用の木杭に小さな火花が当たっただけ。
でも、それがひどく大事なことに思えた。
「……できた」
ニナが呟いた。
カイは頷いた。
「できました」
「こんな小さい火で」
「小さい方がいい日もあります」
「魔法兵なのに?」
「魔法兵だから、次も撃てる方がいいです」
ニナは何も言わなかった。
でも、少しだけ顔が上がった。
ヘイン百人隊長がカイの隣に来た。
「妙な訓練だ」
「すみません」
「謝る必要はない。成果は出た」
カイは驚いてヘインを見た。
「出ましたか」
「少なくとも、彼らは一度目より動けている」
「よかった」
「だが、これは正規教範にはない」
「でしょうね」
「報告書に何と書けばいい」
「俺に聞きます?」
「お前の訓練案だ」
「……複数拍による段階的接続訓練、とか」
ヘインは少し黙った。
「悪くない」
「本当ですか?」
「長いがな」
「そこは軍っぽくていいかなと」
ヘインはほんの少しだけ口元を緩めた。
笑った、のかもしれない。
「カイ・リンド」
「はい」
「お前は、彼らを一つにしようとしなかった」
「はい」
「なぜだ」
カイは訓練場を見た。
トマは槍を調整している。
ユナは木杭に刺さった矢の角度を見ている。
ラッドは盾の持ち方を確認している。
ミロは樽の蓋を転がしている。なぜだ。まあいいか。彼には必要なのだろう。
エリオは左手を握ったり開いたりしている。
ニナは小さく詠唱の口の形を繰り返している。
バルクは杭を浅く打ち直している。
セトは少し離れた場所で、外周を走る線を目で測っている。
皆、違う。
違う音を持っている。
それを無理やり一つにしたら、たぶんまた壊れる。
「一つにしたら、折れそうだったからです」
カイは答えた。
「でも、ばらばらのままだと死ぬ。だから……同じ音にするんじゃなくて、同じ曲の中に置く、というか」
言ってから、カイは顔をしかめた。
何だ今の。
格好つけすぎだろ。
誰だ、お前。詩人か。粉挽きだろ。
「すみません。今のは忘れてください」
ヘインは少し考えた。
「いや、覚えておく」
「できれば本当に忘れてほしいです」
「無理だな」
ヘインは訓練場へ向き直った。
「もう一度行う。今度は標的を二つに増やす」
兵たちが動き始める。
カイはその音を聞いた。
まだぎこちない。
まだ危うい。
でも、一度目よりはましだ。
昨日の戦場で、彼らは壊れかけた。
今日、少しだけ拍を取り戻した。
その事実が、カイの胸に温かく残った。
午前の訓練が終わる頃、再編対象者たちは疲れ切っていた。
だが、朝のような沈んだ空気ではなかった。
トマが槍を担ぎ直し、ラッドが盾を背負い、ミロが樽蓋を回収する。
ユナがカイの横に来た。
「さっきの、悪くなかった」
「どれ?」
「同じ音にしない、という話」
「忘れてって言ったやつだ」
「覚えておく」
「全員、俺の恥を保存するのやめてくれない?」
「役に立つ恥なら保存する」
「そんな分類ある?」
ユナは少しだけ笑った。
その時、訓練区画の外から伝令兵が走ってきた。
ヘイン百人隊長に紙を渡す。
ヘインの顔が険しくなった。
カイは嫌な予感がした。
最近、顔が険しくなる人を見ると、だいたい面倒なことが起きる。これはもう経験則だ。水車より信頼できる。
ヘインがカイを呼んだ。
「カイ・リンド」
「はい」
「午後の訓練は中止だ」
「え」
「お前たち再編隊に、移動命令が出た」
トマが眉をひそめる。
「移動?」
ヘインは紙を見た。
「西部辺境、グレイル砦。敗残部隊再編の実地試験として、明朝出発する」
グレイル砦。
カイはその名を聞いた瞬間、胸の奥が微かに震えた。
どこかで見た名だ。
いや、聞いたことがある。
どこだ。
カイは鞄の中にある本を思い出した。
『第五連鎖崩壊記録』。
その付録地図の端。
古い戦場の近くに、確かその名があった。
グレイル砦。
壊れた鎖の記録に近い場所。
嫌な音がした。
まだ遠い。
だが確かに、何かが軋んだ。
「カイ?」
トマが声をかける。
カイは慌てて笑った。
「いや、何でもない。辺境砦か。いいね、空気が綺麗そうだ」
「本当か?」
「たぶん。少なくとも王都よりは臭くない」
「そこかよ」
笑いながら、カイは胸元の木札に触れた。
無才の木札。
当てにならない木札。
そして今、自分はその木札をぶら下げたまま、別の戦場へ向かおうとしている。
昨日の白い左翼。
今日の小さな火花。
明日のグレイル砦。
水車は、また回り始めている。
カイには、その音が聞こえた気がした。




