左遷命令
移動命令というものは、紙一枚で人間の明日を変える。
すごい。
紙、強い。
カイは朝からそれを実感していた。
もし自分が紙なら、もっと穏やかな内容を書かれたい。
「本日休養」とか。
「食事増量」とか。
「豆を控えめに」とか。
だが現実の紙には、こう書かれている。
敗残部隊再編実地試験のため、当該再編隊を西部辺境グレイル砦へ転属させる。
転属。
実地試験。
西部辺境。
言葉が三つ並ぶだけで、こんなに嫌な匂いがするものなのか。
カイは命令書を三度読み返した。
三度読んでも内容は変わらなかった。
変われよ。
紙なんだから、少しくらい気を利かせろ。
「まだ見てるのか」
トマが後ろから覗き込んできた。
「内容が変わるかと思って」
「変わるわけないだろ」
「夢がないな」
「お前、命令書に夢を見るのか」
「できれば悪夢じゃない方がいい」
トマは肩をすくめた。
再編隊の面々は、朝から出発準備に追われていた。
荷車に食料、矢束、予備の盾、古い魔石杭、天幕、治癒具を積む。
移動先はグレイル砦。
前線から少し離れた西部辺境の古い防衛拠点だという。
表向きの理由は、敗残部隊再編の実地試験。
つまり、昨日の訓練で小さな成果を出したカイたちを、より実戦に近い環境で試す。
……ということになっている。
だが、カイはそこまで素直ではなかった。
これはたぶん、中央に置いておきたくないのだ。
平民の補助兵が、大連鎖の失敗を予見した。
昨日の公式説明と矛盾することを証言した。
兵たちが妙に従い始めた。
しかも再検査では、よく分からない反応を示した。
ならば、遠ざける。
でも使えるかもしれないので、捨てはしない。
辺境に送って様子を見る。
合理的だ。
合理的すぎて腹が立つ。
俺は麦袋か。
いや、麦袋なら行き先は市場か倉庫だ。
砦に送られる麦袋。
うん、補給物資としては自然だな。
嫌な納得をしてしまった。
「カイ」
ユナが声をかけてきた。
弓と矢筒の確認を終えたらしい。顔色は変わらないが、視線は鋭い。
「その顔、また余計なこと考えてる」
「俺の顔、そんなに読みやすい?」
「かなり」
「最近、顔面の防御力が低いってよく言われる」
「行きたくない?」
カイは少し考えた。
「行きたくはない」
「正直」
「でも、残りたいかと言われると、それも違う」
カイは周囲を見た。
臨時集結地はまだ混乱の中にある。
名簿を持った軍吏。
負傷者を運ぶ治癒兵。
再編される部隊。
補給の列。
そして、王国軍の公式発表を読み上げる掲示板。
そこには、昨日の敗北についてこう書かれていた。
ヴァルム連合軍所属の魔族傭兵による未知の干渉魔法により、王国軍左翼に一時的損害。西部方面軍は戦線整理のため計画的に後退。
一時的損害。
計画的に後退。
カイはその文字を見た瞬間、喉の奥が固まった。
白く焼けた左翼。
燃えた軍旗。
叫んでいた兵。
帰ってこなかった二人。
あれが一時的損害。
あの敗走が計画的後退。
言葉ってすごいな。
現実をここまで磨いて、別物にできるのか。
兵法書の勝ち戦が美しく書かれる理由が、少し分かった気がした。
紙は、いつも血を吸わない。
だから綺麗に書ける。
「カイ」
ユナが少し低い声で呼んだ。
カイは我に返った。
「あ、ごめん。今ちょっと顔が暗かった?」
「かなり」
「じゃあ明るくしよう。グレイル砦だって。名前は格好いいよな。グレイル。何か強そう。リンド村とは大違いだ」
「名前で安心するの?」
「少しだけ。名前が『湿った豆砦』とかだったら嫌だろ」
「それは嫌」
「だろ?」
ユナは少しだけ笑った。
その笑いを見て、カイも少し楽になった。
やっぱり、冗談は必要だ。
世界が嘘みたいに重くなる時、軽口だけが足元に小さな板を置いてくれる。
沈まないための板。
かなり薄いけれど。
荷造りの最中、ヘイン百人隊長が近づいてきた。
昨日の訓練を監督した現場士官だ。
「カイ・リンド」
「はい」
「出発前に、アルド参謀がお前を呼んでいる」
「俺、また何かしました?」
「まだ何もしていない」
「まだ」
「今後のためだ」
今後。
嫌な響きだ。
カイはトマたちに手を振り、指揮天幕へ向かった。
天幕の前には警備兵がいたが、今回は止められなかった。顔を覚えられたらしい。
それはそれで怖い。
悪名でも顔は覚えられる。
できれば良い意味で覚えてほしい。
いや、今の俺に良い意味がどれくらいあるかは知らない。
中にはアルド参謀がいた。
地図の前に立ち、西部一帯を見ている。
グレイル砦は地図の左端、山地と森の境にある小さな印だった。
その近くには、薄く青い線で魔力脈が描かれている。
さらにその奥には、小さな黒い穴の記号。
ダンジョン。
カイはその記号を見つけ、少しだけ眉を動かした。
「来たか」
「はい」
「出発前に確認しておく」
アルドは地図上のグレイル砦を指した。
「グレイル砦は西部防衛線の古い拠点だ。戦略上、主要拠点ではない。だが近くに小規模ダンジョンと魔力脈がある」
「ダンジョン資源の監視ですか」
「そうだ。魔石、触媒、魔獣素材。量は多くないが、敵に渡せば厄介になる」
カイは頷いた。
ダンジョンは国家の血管だ。
魔石は魔法兵団の燃料。
スキル結晶は兵士の強化に使われる。
魔法金属は軍旗や魔石杭、結界具の材料になる。
だから戦争になる。
王国も、ヴァルム連合も、ただ土地を奪い合っているわけではない。
魔力の流れを奪い合っている。
兵法書で読んだ知識が、急に現実の地図と繋がる。
「お前に与える任務は三つ」
アルドが言った。
「一つ。再編隊の観測と訓練補助。二つ。グレイル砦守備隊の部隊循環の確認。三つ。敵のチェーン妨害兆候の報告」
「三つ目、かなり重くないですか」
「重い」
「ですよね」
「だが、お前には正式指揮権はない。判断は砦長が下す」
「そこは安心しました」
「本心か」
「半分」
アルドは少しだけ口元を動かした。
笑った、かもしれない。
「砦長はマルタ・レイヴン。叩き上げの元盾兵隊長だ。貴族ではないが、現場の信頼は厚い。お前の話も聞くだろう」
「聞いてくれる人、ありがたいです」
「ただし、甘くはない」
「でしょうね」
「それから」
アルドは少し声を低くした。
「グレイル砦には古い記録が残っている」
「古い記録?」
「三十年前、あの一帯で小規模な連鎖事故があった。公式記録では、ダンジョン暴走による魔力災害とされている」
公式記録では。
その言い方が、すでに怪しい。
「本当は違うんですか」
「確証はない」
「確証はないけど、疑っている」
「そうだ」
アルドはカイを見た。
「お前が持っている『第五連鎖崩壊記録』。あれを書いた者たちの一部は、グレイル周辺の調査にも関わっていた」
カイは息を止めた。
やっぱり繋がっている。
グレン爺の本。
第五連鎖崩壊記録。
グレイル砦。
古い連鎖事故。
「グレン・アーヴィンもですか」
カイは聞いた。
アルドはすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えの半分は分かった。
「グレンは、かつて西部方面軍にいた」
「ただの下級将校じゃなかったんですか」
「下級将校ではあった」
「でも、それだけじゃない」
「それは本人に聞け」
「聞いても言ってくれないんですけど」
「だろうな」
なんで少し嬉しそうなんだ。
グレン爺の知人、みんな性格が悪いのかもしれない。
アルドは机から一通の封書を取った。
「これをマルタ砦長に渡せ。お前たちの扱いと、観測任務について書いてある」
「中を見ても?」
「駄目だ」
「ですよね」
「それと、これも」
アルドはもう一枚、小さな紙を出した。
それは正式文書ではなく、手書きの短いメモだった。
「これは?」
「グレン・アーヴィンに関する記録を砦で見つけた場合、写しを取れ。無理に探す必要はない。だが見つけたら報告しろ」
「俺、密偵みたいなこともするんですか」
「書庫で迷子になるだけでいい」
「それなら得意です」
「だろうと思った」
完全に読まれている。
カイは紙を受け取った。
「アルド参謀」
「何だ」
「俺を中央に置いておくと、まずいんですか」
聞いてしまった。
聞くつもりはなかった。
でも言葉が出た。
アルドはしばらくカイを見ていた。
「まずい」
正直だった。
ありがたくないくらい正直。
「理由は、俺が昨日のことを知っているからですか」
「それもある」
「他には」
「お前に兵が従い始めている」
カイは眉をひそめた。
「それ、そんなにまずいですか」
「平民の補助兵に、正規兵が命令外で従う。軍にとっては極めてまずい」
「俺は命令してません」
「兵はそう受け取らないことがある」
その言葉は重かった。
拍を取っただけ。
自分ではそう思っている。
でも、兵がそれに従えば、それは命令の形を持つ。
カイは喉の奥が冷たくなった。
「それから」
アルドは続けた。
「お前の能力が将器の芽なら、貴族将校の中には面白く思わない者も出る」
「俺、まだ何者か分からないのに」
「分からないものほど、人は怖がる」
「俺も怖いです」
「だからだ」
アルドの声は静かだった。
「怖がっているうちは、まだ使える」
「俺、使われるんですね」
「軍にいる限り、誰もが使われる。私も、ディグレイ卿も、王族も、兵も、魔石杭を打つ工兵もだ」
「それ、慰めですか」
「事実だ」
事実。
アルドはいつも、慰めより事実を渡してくる。
それは冷たいが、嘘ではない。
カイは封書を鞄にしまった。
「分かりました。行ってきます」
「カイ・リンド」
「はい」
「グレイルで学べ。お前はまだ兵法書を読んでいるだけの段階だ」
カイは少しだけ笑った。
「昨日から、兵法書がどんどん厳しい本に見えてきました」
「なら読めてきた証拠だ」
アルドは地図へ視線を戻した。
「行け」
カイは敬礼して天幕を出た。
外では、再編隊の準備がほぼ終わっていた。
荷車が三台。
護衛の兵が十数人。
カイたち再編隊三十六名。
ヘイン百人隊長は中央には残るらしい。代わりに若い副官が同行する。
その副官を見て、カイは少し嫌な予感がした。
金髪。
整った顔。
綺麗すぎる鎧。
ディグレイ卿ではない。
だが、雰囲気が似ている。
彼はカイを見ると、軽く顎を上げた。
「君がカイ・リンドか」
「はい」
「私はエルネスト・ヴァイン。今回の移動隊の監督を務める」
貴族だ。
声で分かる。
立ち方で分かる。
汚れを知らない靴で分かる。
いや、靴への偏見はよくない。だが本当に綺麗だ。戦場でどうやってそんな靴を維持するんだ。やっぱり貴族専用泥よけ魔法があるんじゃないか?
「よろしくお願いします」
カイは頭を下げた。
エルネストは薄く笑った。
「君の噂は聞いている。命令ではなく拍を合わせる、だったかな」
うわ。
広まっている。
やめてくれ。
本人の許可なく広めるな。
「現場で少し混乱していたので」
「混乱した戦場で、平民の補助兵が兵を動かす。興味深い話だ」
興味深い。
その言い方には、少し棘があった。
カイは曖昧に笑った。
「俺としては、あまり興味深くない日々を希望しています」
「安心したまえ。グレイル砦は地味な場所だ。君のような者には、ちょうどよいだろう」
君のような者。
ああ。
これはそういう人だ。
カイは心の中で一歩下がった。
こういう相手には、正面からぶつからない方がいい。水車でも、硬すぎる異物は砕くより逃がす。いや、相手を異物扱いするのは失礼か。心の中だから許してほしい。
「ご期待に沿えるよう、地味に頑張ります」
「期待はしていない」
「それは助かります」
エルネストの眉が少し動いた。
しまった。
反射で返してしまった。
軽口、自重。
だが相手はそれ以上何も言わず、馬へ向かった。
トマが隣に来て、小声で言った。
「あいつ、嫌な感じだな」
「しっ。貴族の耳は遠くても届くかもしれない」
「獣人かよ」
「貴族には貴族の魔法があるかも」
ユナが横から言う。
「ただの嫌味でしょ」
「冷静だな」
「慣れてる」
「何に?」
「弓兵隊にもいた。ああいう人」
ユナはそれ以上言わなかった。
カイも聞かなかった。
出発の角笛が鳴る。
移動隊が動き始めた。
臨時集結地を出て、西へ。
街道は昨日の敗走で傷んでいたが、グレイル砦へ向かう道は前線主路から少し外れている。進むにつれ、人の数は減り、風の音が増えた。
空は高い。
雲が流れている。
戦場の煙ではない。
それだけで、少し息が楽になる。
トマが槍を担いで歩き、ラッドが荷車の横につき、ミロは積み荷の固定を何度も確認している。
ユナは少し離れた場所で周囲を見ている。
ニナは魔法兵用の小杖を抱え、エリオは結界具を確認していた。
バルクは魔石杭の箱を見張り、セトは隊列の外を歩いている。人間の歩幅に合わせる気がないのか、少し先に行っては戻ってくる。
その様子を見ながら、カイは思った。
この隊はまだ、部隊ではない。
でも、完全にばらばらでもない。
昨日よりは繋がっている。
それぞれ違う拍のまま、同じ方向へ歩いている。
それだけで、少し嬉しかった。
「嬉しそう」
ユナが横に来た。
「顔に出てた?」
「少し」
「俺の顔、本当に防諜性能が低いな」
「何を考えてたの」
「みんな、歩けてるなって」
「それだけ?」
「それだけ。今はそれが結構すごい」
ユナは少し黙った。
「そうかも」
街道はやがて森沿いに入った。
夕方、最初の野営地に到着する。
移動隊は天幕を張り、簡易結界を設置し、見張りを立てた。
エルネスト副官は正規兵に指示を出している。手際は悪くない。嫌味な貴族だからといって無能ではないらしい。残念だ。無能なら分かりやすかったのに。いや、味方が無能だと困る。複雑だな。
カイたち再編隊は荷下ろしを手伝った。
夜、火の周りで簡単な食事を取る。
干し肉、硬いパン、薄いスープ。
豆はない。
素晴らしい。
カイは心の中で拍手した。
食後、カイは鞄から『第五連鎖崩壊記録』を取り出した。
グレイル砦の名前がどこにあったのか、確認したかった。
火の光の下で、付録地図を広げる。
古い地図だ。
今の行政区分とは違う線が引かれている。
第五連鎖崩壊の主戦場は、もっと北東。
だが、その調査記録の注記に、小さくこう書かれていた。
グレイル旧砦周辺、同種の循環歪みあり。詳細不明。
同種の循環歪み。
カイは指でその文字をなぞった。
詳細不明。
便利な言葉だ。
分からないことを、分からないまま綺麗に閉じ込める言葉。
「何読んでるの」
ミロが覗き込んできた。
「借り物の本」
「兵法書?」
「敗戦記録」
「それ、面白いの?」
カイは少し考えた。
「面白いと思って読んでた」
「今は?」
「怖い」
ミロは目を丸くした。
「じゃあなんで読むの」
「読まないと、もっと怖いから」
言ってから、カイは苦笑した。
なんだそれ。
でも本当だ。
知るのは怖い。
だが、知らないまま同じことを繰り返す方がもっと怖い。
ミロはしばらく地図を見ていた。
「グレイル砦って、ここ?」
「うん」
「近くに黒い穴の印がある」
「小規模ダンジョンらしい」
「ダンジョンって、魔獣が出るんだよな」
「出る」
「魔石も」
「出る」
「じゃあ、行く価値はあるのか」
「たぶん、軍にはね」
「俺たちには?」
カイは地図から目を離した。
火の向こうで、ニナが小杖を磨いている。
エリオが結界具を確認している。
トマが槍を抱えて寝転がり、ラッドが靴を脱いで足を揉んでいる。
ユナは少し離れた木の根元で矢を整えている。
セトは闇の中で耳を動かしている。
「俺たちには……」
カイは言葉を探した。
「生きて戻る価値はある」
ミロは少し笑った。
「またそれ」
「最近の俺の流行語だから」
「生きて戻る、か」
「うん。かなり大きな目標だ」
ミロは頷いた。
その夜、カイはなかなか眠れなかった。
火は小さくなり、見張りの足音だけが聞こえる。
森の奥では、獣の声がする。
遠くで水が流れている。
水の音。
村の水車を思い出す。
けれど、その音に混じって、かすかに別の拍が聞こえた気がした。
どん。
どん。
低い太鼓。
知らない太鼓。
今の野営地には、そんな太鼓はない。
カイは目を開けた。
闇の向こう、西の方。
グレイル砦のある方向。
胸の奥の糸が、ほんの少し震えている。
嫌な音ではない。
だが、古い音だった。
長く地面の下に埋まっていたような。
誰かが忘れたはずの拍が、まだ消えずに残っているような。
「……気のせい」
カイは小さく呟いた。
そういうことにしたかった。
だが、自分でも分かっていた。
最近、自分の「気のせい」はあまり信用できない。
カイは寝袋の中で、木札を握った。
才能なし。
無才の証明。
もうあまり当てにならない木札。
それでも、握っていると少し落ち着いた。
明日には、グレイル砦へ着く。
そこに何があるのかは分からない。
ただ、あの古い太鼓の音が、まだ耳の奥で鳴っていた。
どん。
どん。
まるで、誰かがずっと待っているように。




