グレイル砦の古い音
グレイル砦は、思っていたより小さかった。
いや、小さいというより、古い。
石壁は黒ずみ、ところどころ補修の跡がある。塔は四つあるが、そのうち北西の塔は上半分が崩れたまま木組みで支えられていた。門の鉄板には古い傷が残り、砦前の道には荷車の轍が何重にも刻まれている。
そして、全体的に地味だった。
とても地味。
王都近郊の軍営のような華やかな旗もない。大規模魔法陣の青い光もない。竜騎兵の高圧的な魔力もない。
あるのは、山の風と、湿った石の匂いと、古い軍旗が風に軋む音。
カイは門を見上げながら言った。
「いい砦だな」
隣のトマが眉を上げた。
「本気で言ってる?」
「少なくとも、王都より鼻に優しい」
「評価基準が鼻なのか」
「重要だろ。王都の匂いは強敵だった」
ユナが少し後ろから言った。
「砦の守りとしては?」
「うーん」
カイは改めて周囲を見た。
砦は低い丘の上に建っている。東に街道。西に森。北は山地へ続く岩場。南には小さな川が流れている。
悪くない。
高すぎる丘ではないから補給路は確保しやすい。南の川から水も取れる。西の森は敵の接近を隠すが、逆に斥候を置けば早く気づける。北の岩場は大型部隊の展開に向かない。
ただし、砦そのものは古い。
結界が弱そうだ。
門前の魔石杭も、本来の配置から何本か抜けている。壁上の弓台は使えるが、魔法兵用の詠唱台は狭い。大きなチェーンを組むには不向き。
「守るには悪くない。でも、大きく繋げる砦じゃない」
「どういう意味だ?」
トマが聞く。
「ここで王都式の四段防衛チェーンをやろうとすると、たぶん詰まる。砦が古いし、結界線が細い。門前で反動を逃がす場所も足りない」
「着いたばっかりで、よくそんな嫌なこと言えるな」
「俺も言いたくない」
「じゃあ言うなよ」
「聞こえたものは仕方ない」
カイは肩をすくめた。
自分で言って、少し嫌になった。
聞こえたものは仕方ない。
最近、それが言い訳になりつつある。
良くない。
でも事実でもある。
砦の門が開き、守備兵たちが出迎えた。
人数は多くない。
老兵が目立つ。若い兵もいるが、王都軍営の正規兵に比べると装備が不揃いだった。盾の大きさも違えば、槍の長さも揃っていない。弓兵の外套は色褪せ、結界具には補修跡がある。
ただ、目は死んでいない。
そこは少し安心した。
装備は古くても、兵が完全に諦めている砦ではない。
隊列の前に、一人の女性が立っていた。
背は高い。年齢は四十代半ばくらいだろうか。短く切った黒髪に、日焼けした肌。左頬に古い傷がある。鎧は簡素だが、よく手入れされていた。腰には剣。背には大きな盾。
その立ち方だけで、盾兵だった人だと分かった。
いや、今も盾兵なのかもしれない。
彼女はエルネスト副官を見ると、きっちり敬礼した。
「グレイル砦長、マルタ・レイヴンです。移動隊の到着を確認しました」
声が低い。
よく通る。
この人、怒鳴ったら絶対怖い。
カイは心の中で一歩下がった。
いや、実際には下がっていない。心の中だけ。最近よく下がるな、俺の心。
エルネスト副官は馬上から軽く頷いた。
「エルネスト・ヴァインだ。アルド参謀より命を受け、再編隊を連れてきた」
「承知しています」
マルタ砦長の視線が、カイたちへ移る。
その目がカイで止まった。
「お前がカイ・リンドか」
「はい。敗残部隊再編補佐です」
言ってから、また肩書きの長さにうんざりした。
マルタは眉一つ動かさなかった。
「本読みの小僧だと聞いている」
「あ、はい。その情報、思ったより広く流通してますね」
「戦場で妙な拍を取るとも」
「そちらもですか」
「変な噂ほど速い」
「身をもって学んでいます」
マルタはカイを上から下まで見た。
その目は、ディグレイ卿やエルネスト副官のような見下しではなかった。
測っている。
どれくらい使えるか。どれくらい危険か。どれくらい信用していいか。
現場の目だった。
「ここでは肩書きより、役に立つかどうかだ」
「分かりやすくて助かります」
「役に立たなければ荷運びをさせる」
「それも得意……ではないですが、やります」
「いい返事だ」
褒められたのか。
いや、たぶん違う。
荷運び要員としての採用通知かもしれない。
マルタは全員に向き直った。
「長旅ご苦労。まずは荷を下ろせ。負傷者は治癒室へ。工兵は魔石杭の点検に回れ。弓兵は壁上の射線を確認。槍兵と盾兵は南庭で待機だ」
命令が速い。
無駄がない。
兵たちがすぐ動き出す。
カイはその様子を見ながら、胸の奥の糸が静かに震えるのを感じた。
グレイル砦の兵たちは、正規軍ほど整っていない。
だが、砦全体に独自の拍がある。
遅く、重く、少し錆びついているが、途切れてはいない拍。
古い水車に似ている。
新しくはない。速くもない。だが、ずっと回り続けてきた音。
悪くない。
そう思った。
少なくとも、昨日の白く焼けた左翼よりずっといい。
荷下ろしが始まった。
ラッドは盾と荷板の入った箱を担ぎ、ミロは荷車の車輪を点検している。バルクはすぐに砦の魔石杭を見に行きたがった。ニナは治癒室へ運ばれる軽傷者を手伝い、エリオは結界具の保管場所を確認している。セトは壁上へ登り、森の匂いを嗅いでいた。
ユナは弓台を見に行った。
トマは槍兵たちと一緒に南庭へ向かう。
それぞれ違う動き。
でも、昨日ほど不安定ではない。
移動中の数日で、少しだけ同じ方向へ歩くことに慣れたのかもしれない。
カイが荷車から箱を下ろそうとした時、横から太い腕が伸びてきた。
「それは重い。腰をやるぞ」
声の主は、砦の老兵だった。
白髪交じりの髭。片目の下に深い皺。盾兵用の古い胸当てをつけている。年齢は六十近いだろうか。だが背筋はまっすぐで、腕もまだ太い。
「ありがとうございます」
カイは素直に箱から手を離した。
老兵はひょいと箱を持ち上げる。
すごい。
俺が持とうとしていた努力は何だったのか。
粉袋なら多少は持てるのに。軍の箱、なぜこんなに重い。
「お前が拍取りか」
「またその名で」
「違うのか」
「仮称です」
「なら拍取りだ」
老兵は笑った。
「わしはロウガン。ここの古株だ」
「カイ・リンドです」
「知ってる。マルタが朝から三度名前を確認していた」
「三度も?」
「面倒な客が来るとな」
「俺、面倒な客ですか」
「違うのか?」
「反論材料が少ないですね」
ロウガンは笑い、箱を倉庫の方へ運んだ。
カイも軽い荷物を持って後を追う。
砦の中は、外から見た以上に古かった。
石の床には摩耗した跡があり、壁には昔の矢傷や焦げ跡が残っている。廊下は狭く、ところどころ天井が低い。新しい増築部分と古い部分が継ぎ接ぎになっていて、慣れないと迷いそうだった。
だが、どこも掃除はされている。
古いが、放置されてはいない。
使い続けられている砦だ。
「この砦、どのくらい古いんですか」
カイが聞くと、ロウガンは顎を撫でた。
「最初の石積みは百年以上前だ。今の形になったのは五十年ほど前。三十年前に一度、大きく壊れた」
カイの足が少し遅れた。
三十年前。
アルド参謀の言葉と重なる。
「大きく壊れた?」
「ダンジョン暴走だと聞いている」
聞いている。
その言い方が、妙だった。
「実際は?」
ロウガンがこちらを見た。
目が少し細くなる。
「若いのに、嫌な聞き方をする」
「最近、嫌な話ばかり聞くので」
「記録ではダンジョン暴走だ。わしはその時、別の前線にいた。だから実際は知らん」
「そうですか」
「ただ」
ロウガンは倉庫の扉を開けた。
中は薄暗く、古い武具や予備の盾、壊れた結界具、布に包まれた軍旗が置かれていた。
「戻ってきた時、ここには変な音が残っていた」
カイは息を止めた。
「音?」
「ああ。石の奥で、太鼓が鳴っているような音だ。今はもう、ほとんど聞こえんがな」
胸の奥の糸が震えた。
昨日の夜、野営地で聞いた古い太鼓。
あれと同じかもしれない。
ロウガンは箱を置き、棚の上の布を見た。
「お前、本を持っているそうだな」
「はい?」
「『第五連鎖崩壊記録』」
カイの背筋が冷えた。
この砦に着いて、まだほとんど話していない。
なぜ知っている。
「誰から聞いたんですか」
「マルタがアルド参謀の封書を読んだ。そこに少し書いてあった」
「ああ……」
封書。
やはり中身を見た方がよかったのでは。
いや、駄目と言われた。駄目なものは駄目。たぶん。時と場合によるかもしれないが。
ロウガンはカイを見た。
「それを誰から借りた」
同じ質問だ。
以前、アルド参謀にも聞かれた。
「グレン・アーヴィンという退役軍人からです。俺の村の近くに住んでいます」
ロウガンの表情が変わった。
わずかに。
だが、確かに。
「グレンか」
「知っているんですか」
「昔の名だ」
「みんなそう言いますね」
「みんな?」
「アルド参謀も」
「そうか。あの爺さん、まだ生きているのか」
「だいぶ口は悪いですが、生きてます」
「なら本物だ」
「何がですか」
「グレンだ」
会話が噛み合っているようで、噛み合っていない。
年寄り同士の関係、複雑すぎる。
ロウガンは奥の棚へ歩いた。
布に包まれた何かの前で足を止める。
「これは、三十年前に焼け残った軍旗だ」
カイは思わず一歩近づいた。
布は黒ずみ、端が焦げている。紋章はほとんど読めないが、中央に鎖のような模様がかすかに残っていた。
軍旗。
部隊の魔力循環を束ねる中継点。
燃えた旗。
白く焼けた左翼を思い出す。
カイの喉が詰まった。
ロウガンが言う。
「触るなよ」
「触りません」
触りたくない。
だが、目が離せない。
古い軍旗の周囲の空気が、ほんのわずかに重い。
ただの布ではない。
何かが残っている。
音が。
古い拍が。
どん。
心臓が跳ねた。
聞こえた。
確かに。
どん。
低い太鼓。
砦の外では誰も太鼓を叩いていない。
ロウガンも動いていない。
でも、聞こえる。
どん。
どん。
カイは後ずさった。
「おい?」
ロウガンの声が遠い。
倉庫の壁が歪む。
床が傾いたように見える。
太鼓の音が大きくなる。
どん。
どん。
どん。
兵の足音が重なる。
盾が並ぶ。
槍が地を叩く。
誰かが叫ぶ。
繋げるな。
いや、違う。
聞き取れない。
声が古すぎる。
音が割れている。
黒い光が走る。
白い火ではない。
黒く沈むような逆流。
軍旗が燃える。
いや、燃えていない。
沈んでいる。
兵たちの拍が、地面の下へ引きずり込まれる。
やめろ。
カイは胸を押さえた。
息ができない。
これは記憶か?
残響か?
誰の?
砦?
旗?
死んだ兵?
何だこれ。
頭の奥で、かすれた声がした。
――断て。
カイは膝をついた。
「カイ!」
ロウガンの声で、意識が戻った。
倉庫の床が目の前にある。
自分は膝をついている。
手が震えている。
呼吸が荒い。
ロウガンが肩を掴んでいた。
「おい、小僧。大丈夫か」
「……たぶん」
「たぶんで倒れるな」
「すみません。倒れる時は確信を持つようにします」
「軽口が出るなら死なんな」
「便利な診断ですね」
ロウガンはカイを立たせた。
その目は、さっきよりずっと真剣だった。
「聞こえたのか」
カイは息を整えながら頷いた。
「太鼓みたいな音が」
「やはりな」
「やはり?」
「昔、グレンも同じことを言った」
カイは顔を上げた。
「グレン爺が?」
「ああ。三十年前ではない。もっと後だ。調査でここへ来た時、あの軍旗の前で同じように膝をついた」
「何を聞いたんですか」
「知らん。言わなかった」
グレン爺。
また言わなかったのか。
どこへ行っても秘密を残している。あの老人、本当に性格が悪い。いや、悪いというか、何かを隠している。
ロウガンは軍旗に布をかけ直した。
「この倉庫には、あまり近づくな」
「そうしたいです」
「本当に近づくな」
「はい」
カイは素直に頷いた。
本当に嫌だった。
太鼓の音がまだ胸に残っている。
古く、低く、地面の奥から鳴る拍。
あれは戦場の音だ。
でも、生きている軍の音ではない。
死んだ軍の音。
そんな言葉が浮かんで、カイは自分でぞっとした。
倉庫を出ると、外の光が眩しかった。
砦の中庭では、再編隊の面々が荷下ろしを続けている。
トマがカイを見つけて手を振った。
「おーい、カイ! 大丈夫か?」
大丈夫。
大丈夫ではない。
でも、今ここで「死んだ軍の太鼓が聞こえた」などと言えば、また変人階段を一段上ってしまう。もうかなり上っている気もするが、限度というものがある。
カイは手を振り返した。
「大丈夫! 倉庫の空気が古すぎて負けた!」
「何だそれ!」
「俺も分からん!」
トマは笑った。
その笑い声が、やけに生きている音に聞こえた。
カイは少しだけ安心した。
午後、カイたちは砦長マルタに正式に挨拶するため、会議室へ集められた。
会議室といっても、小さな石造りの部屋だ。中央に古い木の卓。壁には砦周辺の地図が貼られている。地図には、街道、森、川、魔力脈、そして西の小規模ダンジョンが記されていた。
マルタ砦長は卓の前に立っていた。
エルネスト副官もいる。
ロウガンも壁際に立っていた。
「まず確認する」
マルタが言った。
「この砦は王都の飾りではない。古く、狭く、魔石も足りない。だが、ここを抜かれれば西の村と魔力脈が危ない。お前たちには再編訓練の名目で来てもらったが、砦にいる以上は守備兵として扱う」
言葉に飾りがない。
カイはこういう人の方が分かりやすくて好きだった。
怖いけど。
「カイ・リンド」
「はい」
「お前には守備隊の部隊循環を見てもらう。気づいたことは私に言え。エルネスト副官ではなく、私にだ」
エルネストの眉がわずかに動いた。
カイも少し驚いた。
「俺から直接でいいんですか」
「その方が早い。私は早い方が好きだ」
「分かりました」
「ただし、勝手に兵を動かすな」
「……はい」
少し間が空いたのは仕方ない。
最近、それを守れる自信がない。
マルタはそこを見逃さなかった。
「間が長い」
「守る努力を」
「守れ」
「はい」
またこの流れだ。
軍の人、みんな同じことを言う。
マルタは地図を叩いた。
「現状、敵の大規模部隊は近くにいない。ただし、森側で斥候の痕跡がある。魔獣の動きも増えている。ダンジョンの影響か、敵の誘導かは不明だ」
セトの耳が動いた。
「森にいる」
全員が彼を見る。
セトは短く続けた。
「匂いがある。人間じゃない。魔族でも薄い。魔獣に混ぜた匂い」
マルタはすぐに頷いた。
「明朝、斥候を出す」
「今行く」
セトが言う。
マルタは睨んだ。
「命令前に動くな」
セトは不満そうに耳を伏せた。
カイはそのやり取りを見て、少しだけ胸の奥が鳴った。
セトは速い。
砦の拍よりずっと速い。
彼を砦の太鼓に合わせようとすると、たぶん腐る。
でも放置すると勝手に走る。
難しい。
カイは思わず口を開きかけた。
だが、マルタが先にこちらを見た。
「何かあるか」
読まれている。
顔に出すぎだ。
カイは咳払いした。
「セトは、見張りの太鼓とは別に動かした方がいいと思います」
「理由は」
「砦の拍が遅いからです。遅いのが悪いわけじゃありません。守るには合っています。ただ、斥候の拍には合わない。だから、砦の命令に縛るより、戻る拍だけ決めた方がいい」
「戻る拍?」
「ええと……どこまで行くかではなく、いつ戻るかを決める。森に入ってから何拍、あるいは角笛一つで戻る。自由に動くけど、帰る接点だけ作る感じです」
マルタはセトを見た。
「できるか」
セトは少し考えた。
「行きは自由?」
「帰りは決める」
「ならできる」
マルタは頷いた。
「採用する」
早い。
カイは少し驚いた。
「いいんですか」
「役に立つなら使うと言った」
「確かに言いました」
エルネスト副官が口を挟んだ。
「砦長、平民補佐の提案を即時採用するのは慎重さを欠くのでは」
マルタは彼を見る。
「では、ヴァイン副官。斥候運用について代案は」
「通常通り、二名一組で森縁を確認し、定時報告を」
「セトがそれに従うか」
「従わせるべきです」
「従わず単独で走られるより、帰る拍を決めた方がましだ」
エルネストは口を閉じた。
マルタ、強い。
カイは心の中で拍手した。
いや、他人事ではない。自分もそのうち叱られる側だ。怖い。とても怖い。
会議が終わる頃、外が少し騒がしくなった。
伝令兵が駆け込んでくる。
「砦長! 西森の見張り台より報告! 森の奥で魔獣の群れを確認。数は少数。ただし、通常の移動ではありません」
マルタの表情が変わった。
「どういう意味だ」
「隊列を組んでいるように見える、と」
部屋の空気が固まった。
魔獣が隊列を組む。
普通ではない。
魔獣は本能で群れることはある。だが軍のような隊列を組むなら、指揮個体か、魔族の干渉がある。
カイの胸の奥の糸が震えた。
まただ。
古い太鼓とは別の音。
森の奥から、低いが整った拍が聞こえる。
敵は大軍ではない。
だが、ただの魔獣でもない。
マルタは即座に命じた。
「全員、配置につけ。まだ交戦はしない。見張りを増やせ。セト」
セトはすでに扉の方を見ていた。
「行け。ただし、角笛二つで戻れ。深追いは許さん」
「分かった」
セトは走り出した。
カイは思わずその背中を見送る。
速い。
砦の拍から外れ、森の拍へ入っていく。
それでいい。
だが、何かが引っかかった。
森の奥の魔獣の拍が、妙に整っている。
整いすぎている。
昨日の敵の太鼓と、少し似ている。
マルタがカイを見た。
「聞こえるか」
カイは息を呑んだ。
聞こえる。
そう答えるのが怖かった。
でも、聞こえている。
「少し」
「何が」
「魔獣の群れじゃないです。誰かが、魔獣を拍に乗せてます」
エルネスト副官が眉をひそめる。
「魔獣を拍に?」
カイは森の方を見た。
夕暮れの光が、砦の壁を赤く染めている。
その向こうから、森の奥の音が近づいてくる。
どん。
どん。
今朝の古い太鼓ではない。
もっと生々しい。
敵の拍。
「小部隊です」
カイは言った。
「でも、ただの偵察じゃない。たぶん……こっちにチェーンを組ませたいんだと思います」
マルタの目が細くなった。
「どういうことだ」
「まだ分かりません」
カイは正直に言った。
「でも、嫌な音がします。大きく繋げたら、読まれる気がする」
部屋が静かになった。
カイは自分の手が震えていることに気づいた。
また始まる。
グレイル砦に来て、まだ一日も経っていない。
それなのに、もう音が鳴り始めている。
やめてくれ。
頼むから、もう少し休ませてくれ。
そんな願いは、当然のように届かなかった。
西の森から、角笛が一つ鳴った。
セトの合図だ。
敵影確認。
続いて、もう一つ。
戻る合図ではない。
異常あり。
砦の空気が一気に張り詰めた。
マルタが短く言う。
「戦闘準備」
その声で、グレイル砦の古い拍が動き出した。
低く、重く、錆びついている。
けれど確かに、戦うための音だった。




