表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/13

繋ぎすぎるな

 戦闘準備。

 その言葉が砦に落ちた瞬間、グレイル砦は古い獣のように目を覚ました。

 兵たちが走る。

 盾が運ばれる。

 弓兵が壁上へ上がる。

 魔石杭の箱が開けられ、ドワーフ工兵たちが門前へ駆けていく。

 結界兵が中庭に並び、魔法兵が詠唱台へ向かう。

 古い太鼓が鳴った。

 どん。

 どん。

 重い。

 王都軍営の太鼓のような華やかさはない。音の皮も少し緩んでいる。たぶん張り替え時だ。いや、今そんなことを考えている場合ではない。けれど、そういう細部ばかり気になる自分が嫌になる。

 だが、その古い太鼓には、妙な安心感があった。

 速くはない。

 強くもない。

 でも、ずっとこの砦を動かしてきた音だ。

 この音で、兵たちは門を閉め、矢を番え、結界を張り、何度も魔獣を追い払ってきたのだろう。

 グレイル砦の拍。

 カイはそれを聞きながら、中庭の端に立っていた。

 立っているだけ。

 そう、立っているだけだ。

 指揮権はない。

 正式な軍才認定もない。

 肩書きは敗残部隊再編補佐。

 補佐。

 補佐だぞ。

 人に何かを言う時は、まず「すみません、補佐なんですが」と前置きしたい。いや、戦場でそんな前置きしていたら間に合わない。補佐の弱点、発見。

「カイ!」

 トマが槍を担いで走ってきた。

 その後ろにラッド、ミロ、ユナ、ニナ、エリオ、バルクもいる。

 セトはいない。西森へ出ている。

「配置は?」

 トマが聞く。

「俺に聞くな」

「じゃあ誰に聞く」

「マルタ砦長」

「お前の方が近い」

「距離で指揮系統を決めるな」

 そう言いながらも、カイは砦内の動きを見ていた。

 マルタ砦長は門前の指揮位置にいる。

 エルネスト副官は壁上へ上がって、弓兵と魔法兵の配置を確認している。

 砦の通常防衛配置は、分かりやすかった。

 門前に盾兵。

 その後ろに槍兵。

 壁上に弓兵。

 詠唱台に魔法兵。

 結界兵は門を中心に半円状。

 ドワーフ工兵が魔石杭を門前に打ち、反動を南の地脈へ逃がす。

 敵を門前に引きつけ、盾で止め、弓で縫い、魔法で叩き、最後に結界の反動で押し返す。

 定型の防衛チェーン。

 教範通りなら悪くない。

 この砦の戦力でできる、最も自然な防衛だ。

 ただし。

 カイの胸の奥で、糸が嫌な震え方をした。

 整いすぎている。

 いや、整ってはいない。兵の練度も装備も古い。王都の正規軍に比べれば粗い。

 でも、構造が読まれやすい。

 門前に力が集まりすぎる。

 盾、槍、弓、魔法、結界、魔石杭。

 全部が門前で一本に繋がろうとしている。

 敵がもし、それを待っているなら。

 昨日の王国軍大連鎖のように、伸び切った瞬間を狙っているなら。

 まずい。

 カイは西森の方を見た。

 森の奥から、低い拍が近づいている。

 魔獣の足音。

 その後ろに、もっと細い音がある。

 魔族干渉兵か。

 直接見えない。

 でも、音がある。

 魔獣たちはばらばらに走っているようで、実は一定の間隔を保っている。

 本能ではない。

 誰かが拍に乗せている。

「カイ」

 ユナが低く言った。

「顔、悪い」

「それ最近の挨拶になってない?」

「何が聞こえるの」

「敵が、こっちの防衛を待ってる」

 ラッドが眉をひそめた。

「どういう意味だ」

「門前で大きく繋げたら、たぶん読まれる。弓、魔法、結界、全部一つにすると、敵の干渉が入る場所ができる」

 ミロが言った。

「じゃあ、どうするの」

「繋ぎすぎない」

 自分の口から出た言葉に、カイは少しだけぞっとした。

 繋ぎすぎない。

 それは、グレイル砦に来る前から頭の中にあった考えだ。

 昨日の王国軍は繋げすぎた。

 美しく、大きく、一直線に。

 だから敵に読まれた。

 だから逆流した。

 なら、この砦では逆をやる。

 小さく繋ぐ。

 すぐ切る。

 敵に鎖を掴ませない。


 カイは息を吸い、マルタ砦長のもとへ走った。

「砦長!」

 マルタは門前で盾兵に指示を出していた。

「何だ」

「提案があります」

「言え」

 早い。

 本当に早い。

 ありがたいが、逃げ場がない。

 カイは門前の配置を指した。

「通常の四段防衛チェーンは組まない方がいいです」

 近くにいた兵たちがざわついた。

 エルネスト副官が壁上からこちらを見下ろす。

「何を言っている。敵接近時の防衛教範だぞ」

「分かっています」

「ならば黙っていろ」

 エルネストの声は冷たい。

 だがマルタは片手を上げ、彼を止めた。

「理由を言え」

「敵は魔獣を拍に乗せています。たぶん後ろに干渉兵がいます。目的は砦を一気に落とすことじゃない。こちらに定型チェーンを組ませて、そこへ鎖返しを入れることです」

「鎖返し?」

 マルタの目が細くなる。

「敵の干渉で、こっちの連鎖圧を反転させるやつです。昨日の大連鎖ほど大きくはなくても、門前で逆流すれば盾兵と結界兵が焼けます」

「証拠は」

 エルネストが言う。

 正しい問いだ。

 証拠。

 カイにはない。

 あるのは音だけ。

 嫌な音。

 また、それだ。

 でも今は言うしかない。

「証拠はありません。ただ、敵の拍が門前の防衛チェーンを待っているように聞こえます」

「聞こえる、か」

 エルネストは鼻で笑った。

「また感覚論だ」

 カイは言い返さなかった。

 言い返す時間が惜しい。

 マルタが問う。

「代案は」

「大きく繋げないでください。門前の盾兵は固定しない。二拍ごとに切る。弓兵は一斉射ではなく、三組に分ける。魔法兵は第二階梯以上を使わない。結界兵は門全体を覆わず、反動が来た場所だけ受ける。魔石杭は深く打ちすぎない。逃がす穴を残してください」

 近くのドワーフ工兵が眉をしかめる。

「浅い杭で受けられるか」

「受けるんじゃなくて逃がすんです。全部受けようとすると詰まります」

 バルクが横から言った。

「俺は分かる」

 カイは驚いてバルクを見た。

 バルクは拳を握っていた。

「昨日、深く打ちすぎた。逃げ道がなかった」

 その声は少し震えていた。

 でも、言った。

 マルタが短く頷く。

「続けろ」

「獣人斥候は本線に入れないでください。セトは森側で敵の始鎖だけを乱す。戻る拍は角笛二つ。ミロには門前に荷車を置かせたいです。敵が突っ込んできた時に、正面で止めずに横へ流すために」

 ミロが目を丸くした。

「俺?」

「お前」

「俺、また荷車?」

「戦場で一番頼れる荷車の男だから」

「今言う?」

「今だから言う」

 ミロは緊張した顔で頷いた。

「やる」

「トマの槍兵は門前固定じゃなくて、最後の接続点に。ユナは弓兵の一斉射に混ぜないで、敵の干渉兵を探してほしい。ニナは火花だけでいい。エリオさんは全体結界を張らない。一点だけ」

 エリオが喉を鳴らす。

 でも、以前のように顔を伏せなかった。

「一点なら、できます」

 ニナも小杖を握る。

「火花だけなら」

「十分です」

 カイは言った。

「今日は大きい火はいりません」

 エルネスト副官が壁上から降りてきた。

「砦長、これは危険です。定型チェーンを捨てれば火力不足になります。敵を門前で押し返せません」

 マルタはカイを見る。

「勝てるのか」

 来た。

 この質問。

 勝てるのか。

 言えるわけがない。

 勝てます、なんて。

 そんなことを言えるほど、カイは戦場を知らない。

 知ったばかりだ。

 勝てる道より、死ぬ道の方がずっと多い。

 だから、カイは正直に答えた。

「分かりません」

 エルネストが苛立ったように息を吐く。

「ならば――」

「でも、負け方は減らせます」

 自分でも、声が少し震えているのが分かった。

 それでも続けた。

「定型通りに大きく繋げたら、敵はたぶんそこを狙います。勝つために一番強い鎖を作るより、今は敵に掴まれない鎖を作った方がいいです。短く繋いで、すぐ切る。敵に読まれる前に拍を変える」

 マルタは黙っていた。

 カイは最後に言った。

「砦長。繋ぎすぎない方がいいです」

 沈黙。

 古い太鼓だけが鳴っている。

 どん。

 どん。

 西森の奥から、魔獣の低い唸りが聞こえた。

 近い。

 もう時間がない。

 マルタは決断した。

「定型四段チェーンを中止する」

 エルネストが目を見開いた。

「砦長!」

「責任は私が取る」

 マルタは周囲の兵に向き直った。

「聞け! 門前に大連鎖は組まない! 小隊ごとに拍を分けろ! 弓兵は三組、魔法兵は第二階梯以下、結界兵は局所防御! 工兵、魔石杭は浅く打て! 荷車を門前へ出せ!」

 命令が砦に走る。

 兵たちは一瞬戸惑ったが、マルタの声に従って動き出した。

 エルネストは不満そうだったが、さすがにこの場で命令を覆すことはしなかった。


 カイは息を吐きかけた。

 だが、すぐにそれどころではなくなった。

 配置変更は、簡単ではない。

 古い砦の兵たちは定型防衛に慣れている。

 太鼓を一つ止め、弓兵を三組に分け、魔法兵の詠唱段階を落とし、結界兵の位置を変える。

 それだけで砦の拍が大きく乱れた。

 まずい。

 敵が来る前に、こっちが勝手に乱れている。

「カイ!」

 マルタが叫ぶ。

「お前が提案した。整えろ!」

「俺が!?」

「他に誰がいる!」

 ごもっとも。

 非常にごもっとも。

 でも俺、補佐。

 いや、もうその言い訳は無理だ。

 カイは中庭の中央へ走った。

「太鼓を二つにしてください!」

「二つ!?」

「低い太鼓は門前! 高い太鼓は壁上の弓兵! 魔法兵は太鼓に合わせないで、砦長の旗を見てください!」

 兵たちが動く。

 混乱している。

 音が多い。

 砦の古い拍。

 弓兵の速い拍。

 魔法兵の慎重な拍。

 結界兵の不安定な拍。

 ドワーフ工兵の重い拍。

 ミロの荷車の車輪。

 ラッドの盾。

 トマの槍。

 ユナの弓弦。

 全部が耳に入る。

 頭が痛い。

 でも、昨日の敗走ほどではない。

 これは壊れた軍ではない。

 古いが、生きている砦だ。

 なら、繋がる。

 全部を一つにしなければ。

「ラッド、盾は門に貼りつかない!」

「分かった!」

「ミロ、荷車は真ん中じゃなく右寄り!」

「また右?」

「右! 左は杭の逃げ道にする!」

「了解!」

「バルク、杭は三本だけ深く! 残りは浅く!」

「三本?」

「門の正面、右下、南側の地脈! 他は逃がすだけ!」

「やってみる!」

「ユナ!」

「見てる!」

 ユナは壁上から答えた。

 すでに弓を構えている。

「敵の後ろの術者を探して! 魔獣じゃなくて拍を作ってるやつ!」

「分かった」

「トマ!」

「おう!」

「突くな!」

「まだ何もしてないぞ!」

「お前は早いから先に言った!」

「信用がない!」

「信用してるから止めてる!」

 トマが笑った。

 それだけで、少し空気が軽くなる。

 ニナは詠唱台の脇で小杖を握っていた。

 顔は青い。

「ニナ!」

「はい!」

「火花だけ!」

「はい!」

「火花を馬鹿にするな! 小さい火は便利だ!」

「馬鹿にはしてません!」

「ならよし!」

 エリオは結界兵たちの中にいた。

 手は少し震えているが、立っている。

「エリオさん、門全体を守ろうとしないでください!」

「分かっています!」

「ニナの火花と、ラッドの盾の間だけ!」

「そこだけなら!」

「そこだけで十分です!」

 角笛が鳴った。

 西森からセトが戻ってくる。

 速い。

 門の横の小さな通用口から滑り込むように戻り、息を荒げて叫んだ。

「魔獣八! 後ろに黒い外套三! 一人、拍を持ってる!」

「拍を持ってる?」

 マルタが聞く。

 セトはカイを見た。

「こいつの言うやつ。太鼓なしで、魔獣を走らせてる」

 カイの胸が冷えた。

 やはり。

 敵は小部隊。

 だが、チェーン妨害に特化している。

 魔獣八体。

 魔族干渉兵三。

 指揮役一。

 狙いは砦の定型防衛チェーン。

 そこに干渉を入れて、逆流させる。

「セト、もう一度出られるか」

 カイが聞いた。

 セトの耳が動く。

「行ける」

「敵の始鎖を鳴らして。追い込まなくていい。走り始めをずらすだけでいい」

「分かる」

 セトは笑った。

 初めて少し、楽しそうに見えた。

「人間の太鼓より分かる」

「それはよかった」

 セトは再び外へ走った。

 マルタが門上へ上がる。

 エルネスト副官は不満を押し殺した顔で、壁上の兵に指示を出している。

 彼は嫌な奴だが、仕事はする。

 そこは認めるしかない。


 敵影が見えた。

 森の奥から、黒い魔獣が走ってくる。

 狼に似ているが、背中に骨の突起があり、目が赤い。八体。横一列ではなく、斜めにずれた隊列。

 その後ろに黒い外套の魔族兵が三人。

 さらに一歩後ろに、杖を持った背の高い影。

 そいつだ。

 拍を持っている。

 太鼓はない。

 でも、魔獣たちの足音がそいつを中心に揃っている。

 カイの耳に、敵の拍が入る。

 低い。

 速い。

 そして、こちらの門前の拍に絡みつこうとしている。

「来るぞ!」

 マルタが叫んだ。

 砦の低い太鼓が鳴る。

 どん。

 盾兵が構える。

 高い太鼓が鳴る。

 たん。

 弓兵が三組に分かれて構える。

 魔法兵はまだ詠唱しない。

 結界兵もまだ張らない。

 敵の魔獣が速度を上げる。

 普通ならここで弓兵一斉射。

 だが、カイは叫んだ。

「まだ!」

 弓兵たちがこらえる。

 敵の干渉兵が杖を上げる。

 彼らは待っている。

 王国側の第一射に合わせて、矢の魔力循環へ干渉するつもりだ。

「一組目だけ!」

 ユナが合図する。

 弓兵第一組が射る。

 少数の矢。

 敵の干渉魔法が動く。

 だが、矢が少ない。

 干渉が空振り気味に流れる。

「二組目、半拍遅らせて!」

 第二組の矢が遅れて飛ぶ。

 敵の魔獣一体が脚を止める。

 隊列がわずかに乱れる。

 セトが森の端から飛び出し、魔獣の横を走った。

 魔獣二体がそちらに反応する。

 始鎖がずれる。

 よし。

 カイは拳を握った。

 いける。

 まだ、こちらの鎖は掴まれていない。

 敵指揮役が杖を振る。

 魔獣たちが再び門へ向かう。

 黒い干渉魔法が、門前の盾兵へ伸びる。

 カイの胸の糸が鳴った。

 ここで盾と結界を繋げると、掴まれる。

「盾、切って!」

 カイが叫ぶ。

 ラッドが怒鳴る。

「盾下げろ! 二拍だけ!」

 門前の盾兵が、ほんのわずかに姿勢を崩す。

 普通なら危険。

 だが、敵の干渉魔法は空を掴んだ。

 盾列が完全な壁になる瞬間を狙っていたのだ。

 その壁が、なかった。

 敵の魔法が空振る。

 次の瞬間、ラッドが盾を上げ直す。

「今!」

 魔獣の先頭が盾にぶつかる。

 しかし正面ではない。

 少し斜め。

 ミロの荷車が右寄りに置かれている。

 魔獣の突進がそちらへ流れる。

「ミロ!」

「いけ!」

 ミロが荷車の留め具を外す。

 荷車が斜めに転がり、魔獣の脚をさらう。

 一体が転倒。

 後続が詰まる。

 トマが槍を構える。

「まだ!」

 カイが叫ぶ。

「分かってる!」

 トマが歯を食いしばる。

 偉い。

 早く突かない。

 成長している。

 偉そうに思うな、俺。お前も成長途中だ。

「三拍目!」

 カイが叫ぶ。

「突け!」

 トマの槍兵が斜めに突く。

 魔獣の首ではなく、脚と肩の間。

 倒すためではない。

 流れを割るため。

 魔獣の隊列がさらに乱れる。

 敵の指揮役が、初めてこちらを見た。

 遠くて顔は見えない。

 だが、苛立ちの音がした。

 カイの背筋が冷えた。

 見られた。

 敵が、こちらの拍取りに気づいた。

「ニナ!」

 カイは叫んだ。

「火花!」

 ニナが小杖を上げる。

 顔は青い。

 だが声は出た。

「第一階梯――《火花》!」

 小さな火が飛ぶ。

 敵を焼くには弱すぎる。

 だが、転倒した魔獣の鼻先で弾けた。

 魔獣が怯む。

 その瞬間、エリオが一点だけ結界を張る。

 反動がバルクの浅い魔石杭へ抜ける。

 青い光が地面を走る。

 詰まらない。

 抜けた。

「よし!」

 カイは思わず叫んだ。

 魔獣の始鎖は乱れた。

 敵の干渉は、まだこちらの大きなチェーンを掴めていない。

 だが、敵もすぐに変えた。

 黒外套の三人が横に広がる。

 干渉魔法が、今度は弓兵ではなく太鼓へ伸びる。

 高い太鼓。

 壁上の弓兵を動かしている拍だ。

 やばい。

 太鼓を掴まれる。

「高い太鼓、止めて!」

 カイが叫んだ。

 太鼓役が戸惑う。

 戦闘中に太鼓を止めるなど、普通はしない。

 エルネスト副官が叫ぶ。

「止めるな! 弓兵の拍が乱れる!」

「止めて!」

 カイの声が裏返る。

 ユナが壁上で即座に判断した。

「弓兵、私を見る!」

 彼女は太鼓に代わって弓を高く掲げた。

 弓兵たちが太鼓ではなく、ユナの動きに合わせる。

 高い太鼓が止まった。

 敵の干渉魔法が、また空振る。

 エルネストがこちらを見る。

 その顔は怒りではなく、驚きに近かった。

 だがまだ終わっていない。

 敵の指揮役が杖を高く掲げた。

 魔獣の残りが一斉に吠える。

 ばらばらだった隊列が、強引に再接続される。

 敵は焦っている。

 だが、力はある。

 このまま押し込まれれば門前が崩れる。

 こちらも小さなチェーンを組む必要がある。

 ただし、短く。

 すぐ切れるものを。

 カイは深く息を吸った。

 耳が痛い。

 頭も痛い。

 でも聞こえる。

 今、繋げる場所。

 ミロの荷車。

 ユナの弓。

 トマの槍。

 ニナの火花。

 エリオの一点結界。

 バルクの浅い杭。

 ラッドの斜め盾。

 短く。

 短く繋ぐ。

 そして、すぐ切る。

「三段だけ!」

 カイは叫んだ。

 誰に説明しているのか分からない。

 でも皆がこちらを見た。

「荷車、弓、槍! 火花は最後じゃない、途中! 結界は受けない、逸らす!」

 ミロが荷車の残りを押す。

 敵魔獣の進路に入る。

 ユナの矢が飛ぶ。

 魔獣ではなく、黒外套の一人が構えた杖へ。

 杖の先が弾かれる。

 敵の干渉が一瞬乱れる。

 トマの槍兵が門前から半歩出る。

 早い。

 だが、今はその早さが必要だ。

「今!」

 槍が突く。

 同時にニナの火花が魔獣の足元で弾ける。

 魔獣が跳ねる。

 ラッドの盾が斜めに受け、エリオの結界がほんの一瞬だけ反動を逸らす。

 バルクの杭が青く光る。

 敵の突撃線が、門から外れた。

 魔獣二体が互いにぶつかる。

 後続が巻き込まれる。

 敵の小さな軍陣循環が崩れた。

 砦の兵たちが歓声を上げた。

「押せ!」

 誰かが叫んだ。

 その声に、門前の盾兵が前へ出ようとする。

 弓兵も追撃の矢を構える。

 魔法兵が詠唱を上げる。

 カイの胸の糸が、鋭く鳴った。

 駄目だ。

 ここで押すと、敵の残った干渉兵が待っている。

 敵は崩れたふりをして、こちらの追撃チェーンを誘っている。

 繋げれば、掴まれる。

「繋ぐな!」

 カイは喉が裂けるほど叫んだ。

 声が砦に響いた。

「ここで切る!」

 兵たちの動きが止まる。

 マルタが一瞬で判断した。

「断鎖! 追うな!」

 砦の太鼓が止まった。

 門前の兵が踏みとどまる。

 弓兵は構えを解く。

 魔法兵は詠唱を切る。

 敵の黒い干渉魔法が、伸びかけた先で空を掴んだ。

 やはり。

 追撃を待っていた。

 カイは膝から力が抜けそうになった。

 まだ倒れるな。

 まだ終わっていない。

 しかし敵は、それ以上押してこなかった。

 魔獣は数体が倒れ、残りは森へ下がる。

 黒外套の干渉兵も後退する。

 最後に、杖を持った指揮役だけがこちらを見ていた。

 遠い。

 顔は見えない。

 でも、カイには分かった。

 あいつは、こちらを見ている。

 砦ではなく。

 マルタでもなく。

 カイを。

 背中に冷たい汗が流れた。

 敵の指揮役は、杖を一度だけ地面に打った。

 どん。

 太鼓のような音。

 それから森の奥へ消えた。

 戦闘は終わった。

 少なくとも、今は。


 砦の中に、遅れて歓声が広がった。

 守った。

 グレイル砦は守った。

 大きな勝利ではない。

 敵の小部隊を退けただけ。

 だが、門は破られていない。

 盾兵は焼けていない。

 結界兵も崩れていない。

 魔法兵も暴発していない。

 カイはその場に座り込んだ。

 もう無理だった。

 足が完全に仕事を放棄した。

 こら、足。勤務中だぞ。いや、よく働いた。休め。俺も休みたい。

 トマが駆け寄ってくる。

「カイ!」

「生きてる」

「まだ何も聞いてねえよ」

「先に答えた」

 ユナも壁上から降りてきた。

「顔、悪い」

「それ、もう挨拶だな」

「今までで一番悪い」

「更新したか」

 ミロが汗だくで笑った。

「荷車、また壊れた」

「よくやった。荷車も英雄だ」

「修理するの俺だよ」

「英雄の整備士だな」

 ニナは小杖を抱えたまま、少し離れて立っていた。

 目に涙が浮かんでいる。

「火花、出ました」

 カイは頷いた。

「出ました」

「小さい火でした」

「十分でした」

「本当に?」

「本当に。今日の火花は、たぶん砦を守りました」

 ニナは口元を押さえ、何度も頷いた。

 エリオは自分の左手を見ていた。

 震えていない。

 バルクは魔石杭の前にしゃがみ込んでいた。

「浅くても、抜けた」

「うん」

「深けりゃいいってもんじゃないんだな」

「水路と同じです」

「また水車か?」

「今回は水路です」

「似たようなもんだろ」

「まあ、だいたい」

 セトが森側から戻ってきた。

 耳がぴんと立っている。

「あいつ、逃げた」

「敵の指揮役?」

「うん。でも、見られた」

「俺も」

 セトはカイを見た。

「次は狙われる」

 とても嫌なことを、あっさり言う。

 やめてほしい。

 でも、その通りだろう。

 マルタ砦長が近づいてきた。

 兵たちの歓声の中でも、彼女の足音は重い。

 カイは慌てて立とうとした。

「そのままでいい」

「すみません、足が一時的に退役しました」

「よく働いた足だ」

「足が褒められました」

「お前もだ」

 カイは言葉に詰まった。

 マルタはカイを見下ろし、短く言った。

「助かった」

 それだけだった。

 だが、十分すぎた。

 カイは目を逸らした。

 胸が変に熱くなる。

 やめろ。

 今そういうのは困る。

 泣きそうになるだろ。

 トマが横でにやにやしている。

 見られるな。

 ユナも見ている。

 やめろ。

 カイは咳払いした。

「ええと……次は、もう少し静かな敵でお願いします」

 マルタは鼻で笑った。

「敵に注文するな」

「ですよね」

 その時、エルネスト副官が近づいてきた。

 表情は複雑だった。

 不満もある。

 驚きもある。

 認めたくない、という顔もある。

「カイ・リンド」

「はい」

「……先ほどの断鎖判断は、妥当だった」

 カイは目を瞬いた。

「今、褒められました?」

「判断は妥当だったと言った」

「それは、褒めでは?」

「評価だ」

「なるほど。貴族式の褒めですね」

 エルネストの眉がぴくりと動いた。

 しまった。

 余計なことを言った。

 だがエルネストは怒鳴らなかった。

「調子に乗るな」

「はい」

 それだけ言って、彼は去った。

 トマが小声で言う。

「褒められたな」

「貴族式に」

「よかったじゃねえか」

「何だろう、あまり喜び方が分からない」

 砦の歓声はまだ続いている。

 だが、カイの耳には、その下に別の音も聞こえていた。

 森の奥へ遠ざかる敵の拍。

 そして、砦の地下からかすかに響く、古い太鼓。

 どん。

 どん。

 まるで、今の戦いを聞いていたかのように。

 カイは門の奥、砦の石床を見た。

 グレイル砦は守った。

 でも、この砦にはまだ何かが残っている。

 過去の音。

 壊れた鎖の残響。

 そして敵は、こちらに気づいた。

 カイは深く息を吐いた。

「……まずいな」

 トマが聞いた。

「何が?」

「勝ったのに、次がある音がする」

「縁起でもないこと言うなよ」

「俺も言いたくない」

 カイは空を見上げた。

 夕暮れの空は赤かった。

 白く焼けた左翼とは違う、ただの夕焼け。

 けれど、その赤の向こうに、まだ見ぬ戦場の拍がかすかに鳴っている気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ