繋ぎすぎるな
戦闘準備。
その言葉が砦に落ちた瞬間、グレイル砦は古い獣のように目を覚ました。
兵たちが走る。
盾が運ばれる。
弓兵が壁上へ上がる。
魔石杭の箱が開けられ、ドワーフ工兵たちが門前へ駆けていく。
結界兵が中庭に並び、魔法兵が詠唱台へ向かう。
古い太鼓が鳴った。
どん。
どん。
重い。
王都軍営の太鼓のような華やかさはない。音の皮も少し緩んでいる。たぶん張り替え時だ。いや、今そんなことを考えている場合ではない。けれど、そういう細部ばかり気になる自分が嫌になる。
だが、その古い太鼓には、妙な安心感があった。
速くはない。
強くもない。
でも、ずっとこの砦を動かしてきた音だ。
この音で、兵たちは門を閉め、矢を番え、結界を張り、何度も魔獣を追い払ってきたのだろう。
グレイル砦の拍。
カイはそれを聞きながら、中庭の端に立っていた。
立っているだけ。
そう、立っているだけだ。
指揮権はない。
正式な軍才認定もない。
肩書きは敗残部隊再編補佐。
補佐。
補佐だぞ。
人に何かを言う時は、まず「すみません、補佐なんですが」と前置きしたい。いや、戦場でそんな前置きしていたら間に合わない。補佐の弱点、発見。
「カイ!」
トマが槍を担いで走ってきた。
その後ろにラッド、ミロ、ユナ、ニナ、エリオ、バルクもいる。
セトはいない。西森へ出ている。
「配置は?」
トマが聞く。
「俺に聞くな」
「じゃあ誰に聞く」
「マルタ砦長」
「お前の方が近い」
「距離で指揮系統を決めるな」
そう言いながらも、カイは砦内の動きを見ていた。
マルタ砦長は門前の指揮位置にいる。
エルネスト副官は壁上へ上がって、弓兵と魔法兵の配置を確認している。
砦の通常防衛配置は、分かりやすかった。
門前に盾兵。
その後ろに槍兵。
壁上に弓兵。
詠唱台に魔法兵。
結界兵は門を中心に半円状。
ドワーフ工兵が魔石杭を門前に打ち、反動を南の地脈へ逃がす。
敵を門前に引きつけ、盾で止め、弓で縫い、魔法で叩き、最後に結界の反動で押し返す。
定型の防衛チェーン。
教範通りなら悪くない。
この砦の戦力でできる、最も自然な防衛だ。
ただし。
カイの胸の奥で、糸が嫌な震え方をした。
整いすぎている。
いや、整ってはいない。兵の練度も装備も古い。王都の正規軍に比べれば粗い。
でも、構造が読まれやすい。
門前に力が集まりすぎる。
盾、槍、弓、魔法、結界、魔石杭。
全部が門前で一本に繋がろうとしている。
敵がもし、それを待っているなら。
昨日の王国軍大連鎖のように、伸び切った瞬間を狙っているなら。
まずい。
カイは西森の方を見た。
森の奥から、低い拍が近づいている。
魔獣の足音。
その後ろに、もっと細い音がある。
魔族干渉兵か。
直接見えない。
でも、音がある。
魔獣たちはばらばらに走っているようで、実は一定の間隔を保っている。
本能ではない。
誰かが拍に乗せている。
「カイ」
ユナが低く言った。
「顔、悪い」
「それ最近の挨拶になってない?」
「何が聞こえるの」
「敵が、こっちの防衛を待ってる」
ラッドが眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「門前で大きく繋げたら、たぶん読まれる。弓、魔法、結界、全部一つにすると、敵の干渉が入る場所ができる」
ミロが言った。
「じゃあ、どうするの」
「繋ぎすぎない」
自分の口から出た言葉に、カイは少しだけぞっとした。
繋ぎすぎない。
それは、グレイル砦に来る前から頭の中にあった考えだ。
昨日の王国軍は繋げすぎた。
美しく、大きく、一直線に。
だから敵に読まれた。
だから逆流した。
なら、この砦では逆をやる。
小さく繋ぐ。
すぐ切る。
敵に鎖を掴ませない。
カイは息を吸い、マルタ砦長のもとへ走った。
「砦長!」
マルタは門前で盾兵に指示を出していた。
「何だ」
「提案があります」
「言え」
早い。
本当に早い。
ありがたいが、逃げ場がない。
カイは門前の配置を指した。
「通常の四段防衛チェーンは組まない方がいいです」
近くにいた兵たちがざわついた。
エルネスト副官が壁上からこちらを見下ろす。
「何を言っている。敵接近時の防衛教範だぞ」
「分かっています」
「ならば黙っていろ」
エルネストの声は冷たい。
だがマルタは片手を上げ、彼を止めた。
「理由を言え」
「敵は魔獣を拍に乗せています。たぶん後ろに干渉兵がいます。目的は砦を一気に落とすことじゃない。こちらに定型チェーンを組ませて、そこへ鎖返しを入れることです」
「鎖返し?」
マルタの目が細くなる。
「敵の干渉で、こっちの連鎖圧を反転させるやつです。昨日の大連鎖ほど大きくはなくても、門前で逆流すれば盾兵と結界兵が焼けます」
「証拠は」
エルネストが言う。
正しい問いだ。
証拠。
カイにはない。
あるのは音だけ。
嫌な音。
また、それだ。
でも今は言うしかない。
「証拠はありません。ただ、敵の拍が門前の防衛チェーンを待っているように聞こえます」
「聞こえる、か」
エルネストは鼻で笑った。
「また感覚論だ」
カイは言い返さなかった。
言い返す時間が惜しい。
マルタが問う。
「代案は」
「大きく繋げないでください。門前の盾兵は固定しない。二拍ごとに切る。弓兵は一斉射ではなく、三組に分ける。魔法兵は第二階梯以上を使わない。結界兵は門全体を覆わず、反動が来た場所だけ受ける。魔石杭は深く打ちすぎない。逃がす穴を残してください」
近くのドワーフ工兵が眉をしかめる。
「浅い杭で受けられるか」
「受けるんじゃなくて逃がすんです。全部受けようとすると詰まります」
バルクが横から言った。
「俺は分かる」
カイは驚いてバルクを見た。
バルクは拳を握っていた。
「昨日、深く打ちすぎた。逃げ道がなかった」
その声は少し震えていた。
でも、言った。
マルタが短く頷く。
「続けろ」
「獣人斥候は本線に入れないでください。セトは森側で敵の始鎖だけを乱す。戻る拍は角笛二つ。ミロには門前に荷車を置かせたいです。敵が突っ込んできた時に、正面で止めずに横へ流すために」
ミロが目を丸くした。
「俺?」
「お前」
「俺、また荷車?」
「戦場で一番頼れる荷車の男だから」
「今言う?」
「今だから言う」
ミロは緊張した顔で頷いた。
「やる」
「トマの槍兵は門前固定じゃなくて、最後の接続点に。ユナは弓兵の一斉射に混ぜないで、敵の干渉兵を探してほしい。ニナは火花だけでいい。エリオさんは全体結界を張らない。一点だけ」
エリオが喉を鳴らす。
でも、以前のように顔を伏せなかった。
「一点なら、できます」
ニナも小杖を握る。
「火花だけなら」
「十分です」
カイは言った。
「今日は大きい火はいりません」
エルネスト副官が壁上から降りてきた。
「砦長、これは危険です。定型チェーンを捨てれば火力不足になります。敵を門前で押し返せません」
マルタはカイを見る。
「勝てるのか」
来た。
この質問。
勝てるのか。
言えるわけがない。
勝てます、なんて。
そんなことを言えるほど、カイは戦場を知らない。
知ったばかりだ。
勝てる道より、死ぬ道の方がずっと多い。
だから、カイは正直に答えた。
「分かりません」
エルネストが苛立ったように息を吐く。
「ならば――」
「でも、負け方は減らせます」
自分でも、声が少し震えているのが分かった。
それでも続けた。
「定型通りに大きく繋げたら、敵はたぶんそこを狙います。勝つために一番強い鎖を作るより、今は敵に掴まれない鎖を作った方がいいです。短く繋いで、すぐ切る。敵に読まれる前に拍を変える」
マルタは黙っていた。
カイは最後に言った。
「砦長。繋ぎすぎない方がいいです」
沈黙。
古い太鼓だけが鳴っている。
どん。
どん。
西森の奥から、魔獣の低い唸りが聞こえた。
近い。
もう時間がない。
マルタは決断した。
「定型四段チェーンを中止する」
エルネストが目を見開いた。
「砦長!」
「責任は私が取る」
マルタは周囲の兵に向き直った。
「聞け! 門前に大連鎖は組まない! 小隊ごとに拍を分けろ! 弓兵は三組、魔法兵は第二階梯以下、結界兵は局所防御! 工兵、魔石杭は浅く打て! 荷車を門前へ出せ!」
命令が砦に走る。
兵たちは一瞬戸惑ったが、マルタの声に従って動き出した。
エルネストは不満そうだったが、さすがにこの場で命令を覆すことはしなかった。
カイは息を吐きかけた。
だが、すぐにそれどころではなくなった。
配置変更は、簡単ではない。
古い砦の兵たちは定型防衛に慣れている。
太鼓を一つ止め、弓兵を三組に分け、魔法兵の詠唱段階を落とし、結界兵の位置を変える。
それだけで砦の拍が大きく乱れた。
まずい。
敵が来る前に、こっちが勝手に乱れている。
「カイ!」
マルタが叫ぶ。
「お前が提案した。整えろ!」
「俺が!?」
「他に誰がいる!」
ごもっとも。
非常にごもっとも。
でも俺、補佐。
いや、もうその言い訳は無理だ。
カイは中庭の中央へ走った。
「太鼓を二つにしてください!」
「二つ!?」
「低い太鼓は門前! 高い太鼓は壁上の弓兵! 魔法兵は太鼓に合わせないで、砦長の旗を見てください!」
兵たちが動く。
混乱している。
音が多い。
砦の古い拍。
弓兵の速い拍。
魔法兵の慎重な拍。
結界兵の不安定な拍。
ドワーフ工兵の重い拍。
ミロの荷車の車輪。
ラッドの盾。
トマの槍。
ユナの弓弦。
全部が耳に入る。
頭が痛い。
でも、昨日の敗走ほどではない。
これは壊れた軍ではない。
古いが、生きている砦だ。
なら、繋がる。
全部を一つにしなければ。
「ラッド、盾は門に貼りつかない!」
「分かった!」
「ミロ、荷車は真ん中じゃなく右寄り!」
「また右?」
「右! 左は杭の逃げ道にする!」
「了解!」
「バルク、杭は三本だけ深く! 残りは浅く!」
「三本?」
「門の正面、右下、南側の地脈! 他は逃がすだけ!」
「やってみる!」
「ユナ!」
「見てる!」
ユナは壁上から答えた。
すでに弓を構えている。
「敵の後ろの術者を探して! 魔獣じゃなくて拍を作ってるやつ!」
「分かった」
「トマ!」
「おう!」
「突くな!」
「まだ何もしてないぞ!」
「お前は早いから先に言った!」
「信用がない!」
「信用してるから止めてる!」
トマが笑った。
それだけで、少し空気が軽くなる。
ニナは詠唱台の脇で小杖を握っていた。
顔は青い。
「ニナ!」
「はい!」
「火花だけ!」
「はい!」
「火花を馬鹿にするな! 小さい火は便利だ!」
「馬鹿にはしてません!」
「ならよし!」
エリオは結界兵たちの中にいた。
手は少し震えているが、立っている。
「エリオさん、門全体を守ろうとしないでください!」
「分かっています!」
「ニナの火花と、ラッドの盾の間だけ!」
「そこだけなら!」
「そこだけで十分です!」
角笛が鳴った。
西森からセトが戻ってくる。
速い。
門の横の小さな通用口から滑り込むように戻り、息を荒げて叫んだ。
「魔獣八! 後ろに黒い外套三! 一人、拍を持ってる!」
「拍を持ってる?」
マルタが聞く。
セトはカイを見た。
「こいつの言うやつ。太鼓なしで、魔獣を走らせてる」
カイの胸が冷えた。
やはり。
敵は小部隊。
だが、チェーン妨害に特化している。
魔獣八体。
魔族干渉兵三。
指揮役一。
狙いは砦の定型防衛チェーン。
そこに干渉を入れて、逆流させる。
「セト、もう一度出られるか」
カイが聞いた。
セトの耳が動く。
「行ける」
「敵の始鎖を鳴らして。追い込まなくていい。走り始めをずらすだけでいい」
「分かる」
セトは笑った。
初めて少し、楽しそうに見えた。
「人間の太鼓より分かる」
「それはよかった」
セトは再び外へ走った。
マルタが門上へ上がる。
エルネスト副官は不満を押し殺した顔で、壁上の兵に指示を出している。
彼は嫌な奴だが、仕事はする。
そこは認めるしかない。
敵影が見えた。
森の奥から、黒い魔獣が走ってくる。
狼に似ているが、背中に骨の突起があり、目が赤い。八体。横一列ではなく、斜めにずれた隊列。
その後ろに黒い外套の魔族兵が三人。
さらに一歩後ろに、杖を持った背の高い影。
そいつだ。
拍を持っている。
太鼓はない。
でも、魔獣たちの足音がそいつを中心に揃っている。
カイの耳に、敵の拍が入る。
低い。
速い。
そして、こちらの門前の拍に絡みつこうとしている。
「来るぞ!」
マルタが叫んだ。
砦の低い太鼓が鳴る。
どん。
盾兵が構える。
高い太鼓が鳴る。
たん。
弓兵が三組に分かれて構える。
魔法兵はまだ詠唱しない。
結界兵もまだ張らない。
敵の魔獣が速度を上げる。
普通ならここで弓兵一斉射。
だが、カイは叫んだ。
「まだ!」
弓兵たちがこらえる。
敵の干渉兵が杖を上げる。
彼らは待っている。
王国側の第一射に合わせて、矢の魔力循環へ干渉するつもりだ。
「一組目だけ!」
ユナが合図する。
弓兵第一組が射る。
少数の矢。
敵の干渉魔法が動く。
だが、矢が少ない。
干渉が空振り気味に流れる。
「二組目、半拍遅らせて!」
第二組の矢が遅れて飛ぶ。
敵の魔獣一体が脚を止める。
隊列がわずかに乱れる。
セトが森の端から飛び出し、魔獣の横を走った。
魔獣二体がそちらに反応する。
始鎖がずれる。
よし。
カイは拳を握った。
いける。
まだ、こちらの鎖は掴まれていない。
敵指揮役が杖を振る。
魔獣たちが再び門へ向かう。
黒い干渉魔法が、門前の盾兵へ伸びる。
カイの胸の糸が鳴った。
ここで盾と結界を繋げると、掴まれる。
「盾、切って!」
カイが叫ぶ。
ラッドが怒鳴る。
「盾下げろ! 二拍だけ!」
門前の盾兵が、ほんのわずかに姿勢を崩す。
普通なら危険。
だが、敵の干渉魔法は空を掴んだ。
盾列が完全な壁になる瞬間を狙っていたのだ。
その壁が、なかった。
敵の魔法が空振る。
次の瞬間、ラッドが盾を上げ直す。
「今!」
魔獣の先頭が盾にぶつかる。
しかし正面ではない。
少し斜め。
ミロの荷車が右寄りに置かれている。
魔獣の突進がそちらへ流れる。
「ミロ!」
「いけ!」
ミロが荷車の留め具を外す。
荷車が斜めに転がり、魔獣の脚をさらう。
一体が転倒。
後続が詰まる。
トマが槍を構える。
「まだ!」
カイが叫ぶ。
「分かってる!」
トマが歯を食いしばる。
偉い。
早く突かない。
成長している。
偉そうに思うな、俺。お前も成長途中だ。
「三拍目!」
カイが叫ぶ。
「突け!」
トマの槍兵が斜めに突く。
魔獣の首ではなく、脚と肩の間。
倒すためではない。
流れを割るため。
魔獣の隊列がさらに乱れる。
敵の指揮役が、初めてこちらを見た。
遠くて顔は見えない。
だが、苛立ちの音がした。
カイの背筋が冷えた。
見られた。
敵が、こちらの拍取りに気づいた。
「ニナ!」
カイは叫んだ。
「火花!」
ニナが小杖を上げる。
顔は青い。
だが声は出た。
「第一階梯――《火花》!」
小さな火が飛ぶ。
敵を焼くには弱すぎる。
だが、転倒した魔獣の鼻先で弾けた。
魔獣が怯む。
その瞬間、エリオが一点だけ結界を張る。
反動がバルクの浅い魔石杭へ抜ける。
青い光が地面を走る。
詰まらない。
抜けた。
「よし!」
カイは思わず叫んだ。
魔獣の始鎖は乱れた。
敵の干渉は、まだこちらの大きなチェーンを掴めていない。
だが、敵もすぐに変えた。
黒外套の三人が横に広がる。
干渉魔法が、今度は弓兵ではなく太鼓へ伸びる。
高い太鼓。
壁上の弓兵を動かしている拍だ。
やばい。
太鼓を掴まれる。
「高い太鼓、止めて!」
カイが叫んだ。
太鼓役が戸惑う。
戦闘中に太鼓を止めるなど、普通はしない。
エルネスト副官が叫ぶ。
「止めるな! 弓兵の拍が乱れる!」
「止めて!」
カイの声が裏返る。
ユナが壁上で即座に判断した。
「弓兵、私を見る!」
彼女は太鼓に代わって弓を高く掲げた。
弓兵たちが太鼓ではなく、ユナの動きに合わせる。
高い太鼓が止まった。
敵の干渉魔法が、また空振る。
エルネストがこちらを見る。
その顔は怒りではなく、驚きに近かった。
だがまだ終わっていない。
敵の指揮役が杖を高く掲げた。
魔獣の残りが一斉に吠える。
ばらばらだった隊列が、強引に再接続される。
敵は焦っている。
だが、力はある。
このまま押し込まれれば門前が崩れる。
こちらも小さなチェーンを組む必要がある。
ただし、短く。
すぐ切れるものを。
カイは深く息を吸った。
耳が痛い。
頭も痛い。
でも聞こえる。
今、繋げる場所。
ミロの荷車。
ユナの弓。
トマの槍。
ニナの火花。
エリオの一点結界。
バルクの浅い杭。
ラッドの斜め盾。
短く。
短く繋ぐ。
そして、すぐ切る。
「三段だけ!」
カイは叫んだ。
誰に説明しているのか分からない。
でも皆がこちらを見た。
「荷車、弓、槍! 火花は最後じゃない、途中! 結界は受けない、逸らす!」
ミロが荷車の残りを押す。
敵魔獣の進路に入る。
ユナの矢が飛ぶ。
魔獣ではなく、黒外套の一人が構えた杖へ。
杖の先が弾かれる。
敵の干渉が一瞬乱れる。
トマの槍兵が門前から半歩出る。
早い。
だが、今はその早さが必要だ。
「今!」
槍が突く。
同時にニナの火花が魔獣の足元で弾ける。
魔獣が跳ねる。
ラッドの盾が斜めに受け、エリオの結界がほんの一瞬だけ反動を逸らす。
バルクの杭が青く光る。
敵の突撃線が、門から外れた。
魔獣二体が互いにぶつかる。
後続が巻き込まれる。
敵の小さな軍陣循環が崩れた。
砦の兵たちが歓声を上げた。
「押せ!」
誰かが叫んだ。
その声に、門前の盾兵が前へ出ようとする。
弓兵も追撃の矢を構える。
魔法兵が詠唱を上げる。
カイの胸の糸が、鋭く鳴った。
駄目だ。
ここで押すと、敵の残った干渉兵が待っている。
敵は崩れたふりをして、こちらの追撃チェーンを誘っている。
繋げれば、掴まれる。
「繋ぐな!」
カイは喉が裂けるほど叫んだ。
声が砦に響いた。
「ここで切る!」
兵たちの動きが止まる。
マルタが一瞬で判断した。
「断鎖! 追うな!」
砦の太鼓が止まった。
門前の兵が踏みとどまる。
弓兵は構えを解く。
魔法兵は詠唱を切る。
敵の黒い干渉魔法が、伸びかけた先で空を掴んだ。
やはり。
追撃を待っていた。
カイは膝から力が抜けそうになった。
まだ倒れるな。
まだ終わっていない。
しかし敵は、それ以上押してこなかった。
魔獣は数体が倒れ、残りは森へ下がる。
黒外套の干渉兵も後退する。
最後に、杖を持った指揮役だけがこちらを見ていた。
遠い。
顔は見えない。
でも、カイには分かった。
あいつは、こちらを見ている。
砦ではなく。
マルタでもなく。
カイを。
背中に冷たい汗が流れた。
敵の指揮役は、杖を一度だけ地面に打った。
どん。
太鼓のような音。
それから森の奥へ消えた。
戦闘は終わった。
少なくとも、今は。
砦の中に、遅れて歓声が広がった。
守った。
グレイル砦は守った。
大きな勝利ではない。
敵の小部隊を退けただけ。
だが、門は破られていない。
盾兵は焼けていない。
結界兵も崩れていない。
魔法兵も暴発していない。
カイはその場に座り込んだ。
もう無理だった。
足が完全に仕事を放棄した。
こら、足。勤務中だぞ。いや、よく働いた。休め。俺も休みたい。
トマが駆け寄ってくる。
「カイ!」
「生きてる」
「まだ何も聞いてねえよ」
「先に答えた」
ユナも壁上から降りてきた。
「顔、悪い」
「それ、もう挨拶だな」
「今までで一番悪い」
「更新したか」
ミロが汗だくで笑った。
「荷車、また壊れた」
「よくやった。荷車も英雄だ」
「修理するの俺だよ」
「英雄の整備士だな」
ニナは小杖を抱えたまま、少し離れて立っていた。
目に涙が浮かんでいる。
「火花、出ました」
カイは頷いた。
「出ました」
「小さい火でした」
「十分でした」
「本当に?」
「本当に。今日の火花は、たぶん砦を守りました」
ニナは口元を押さえ、何度も頷いた。
エリオは自分の左手を見ていた。
震えていない。
バルクは魔石杭の前にしゃがみ込んでいた。
「浅くても、抜けた」
「うん」
「深けりゃいいってもんじゃないんだな」
「水路と同じです」
「また水車か?」
「今回は水路です」
「似たようなもんだろ」
「まあ、だいたい」
セトが森側から戻ってきた。
耳がぴんと立っている。
「あいつ、逃げた」
「敵の指揮役?」
「うん。でも、見られた」
「俺も」
セトはカイを見た。
「次は狙われる」
とても嫌なことを、あっさり言う。
やめてほしい。
でも、その通りだろう。
マルタ砦長が近づいてきた。
兵たちの歓声の中でも、彼女の足音は重い。
カイは慌てて立とうとした。
「そのままでいい」
「すみません、足が一時的に退役しました」
「よく働いた足だ」
「足が褒められました」
「お前もだ」
カイは言葉に詰まった。
マルタはカイを見下ろし、短く言った。
「助かった」
それだけだった。
だが、十分すぎた。
カイは目を逸らした。
胸が変に熱くなる。
やめろ。
今そういうのは困る。
泣きそうになるだろ。
トマが横でにやにやしている。
見られるな。
ユナも見ている。
やめろ。
カイは咳払いした。
「ええと……次は、もう少し静かな敵でお願いします」
マルタは鼻で笑った。
「敵に注文するな」
「ですよね」
その時、エルネスト副官が近づいてきた。
表情は複雑だった。
不満もある。
驚きもある。
認めたくない、という顔もある。
「カイ・リンド」
「はい」
「……先ほどの断鎖判断は、妥当だった」
カイは目を瞬いた。
「今、褒められました?」
「判断は妥当だったと言った」
「それは、褒めでは?」
「評価だ」
「なるほど。貴族式の褒めですね」
エルネストの眉がぴくりと動いた。
しまった。
余計なことを言った。
だがエルネストは怒鳴らなかった。
「調子に乗るな」
「はい」
それだけ言って、彼は去った。
トマが小声で言う。
「褒められたな」
「貴族式に」
「よかったじゃねえか」
「何だろう、あまり喜び方が分からない」
砦の歓声はまだ続いている。
だが、カイの耳には、その下に別の音も聞こえていた。
森の奥へ遠ざかる敵の拍。
そして、砦の地下からかすかに響く、古い太鼓。
どん。
どん。
まるで、今の戦いを聞いていたかのように。
カイは門の奥、砦の石床を見た。
グレイル砦は守った。
でも、この砦にはまだ何かが残っている。
過去の音。
壊れた鎖の残響。
そして敵は、こちらに気づいた。
カイは深く息を吐いた。
「……まずいな」
トマが聞いた。
「何が?」
「勝ったのに、次がある音がする」
「縁起でもないこと言うなよ」
「俺も言いたくない」
カイは空を見上げた。
夕暮れの空は赤かった。
白く焼けた左翼とは違う、ただの夕焼け。
けれど、その赤の向こうに、まだ見ぬ戦場の拍がかすかに鳴っている気がした。




