新兵の証言
翌朝、カイは声が出なかった。
正確には、出る。
出ることは出る。
ただし、出た声が自分のものとは思えないくらい掠れていた。
「……あー」
ひどい。
鳥の断末魔みたいだ。
いや、鳥に失礼かもしれない。鳥はもっと綺麗に鳴く。少なくとも、喉に砂を詰めたみたいな声は出さない。
「……おはようございます」
隣の寝台にいた後衛観測班の兵が、ぎょっとした顔で振り向いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫です。声が死んだだけで」
「死んでるなら大丈夫じゃないだろ」
「本体は生きてます」
「本体もだいぶ怪しいぞ」
その通りだった。
体中が痛い。
脚は棒。
腕は荷板を持ったせいで重い。
喉は昨日ずっと叫び続けたせいで焼けている。
目を閉じると、白い光が見える。
つまり最悪。
でも、生きている。
生きているだけで上出来。
……という言葉を、本当に上出来だと思う日が来るとは。
カイは寝袋から這い出た。
外に出ると、臨時集結地はすでに動いていた。
負傷者は治癒幕舎へ運ばれ、動ける兵は再編され、軍吏たちは名簿を持って走り回っている。
名簿。
名前が線で消される紙。
カイはそれを見て、少しだけ足を止めた。
昨日までは、本の中の死者数を疑っていた。
「この戦で死者三百は少なすぎる」とか、「左翼が崩れているのに損耗一割はおかしい」とか。
賢いつもりで紙の余白に書いていた。
今なら分かる。
数字の裏には、線を引く人間がいる。
その線の下に、誰かの声がある。
カイは目を逸らした。
駄目だ。
朝から重くなるな。
今日の目標。生きる。怒られすぎない。できれば水を飲む。以上。
「カイ・リンド」
低い声で呼ばれた。
振り向くと、昨日の士官が立っていた。
カイを後衛観測班に回すと言った人物ではない。昨日、最初に事情を聞いてきた、整った鎧の士官だ。
名前はまだ聞いていない。
いや、聞いたかもしれない。戦場で耳が半分死んでいたから覚えていない。失礼だな俺。でも相手も俺のこと補助兵扱いだったし、お互い様ということで。ならないか。
「はい」
声が掠れた。
士官は眉をひそめた。
「声がひどいな」
「昨日ちょっと歌いすぎまして」
「歌?」
「撤退の拍です」
「……ふざけているのか?」
「半分くらいは癖です」
「残り半分は?」
「怖さです」
士官は一瞬黙った。
カイも黙った。
言うつもりはなかった。
なのに出た。
昨日から、余計な本音が漏れやすい。疲れると口の蓋が緩むのかもしれない。修理が必要だ。口の蓋ってどこで直せるんだ。製粉所では無理だな。
「来い。聴取がある」
「またですか」
「正式なものだ」
「昨日のは非公式だったんですか?」
「戦場で歩きながら聞いた話を、正式記録にできるか」
「なるほど。俺の人生、まだ正式に怒られてなかったんですね」
「黙って歩け」
はい。
と言おうとして、声がまた変な音になった。
カイは素直に歩いた。
連れていかれたのは、集結地の中央にある大きめの天幕だった。
昨日の指揮天幕とは違う。
中には机があり、椅子があり、水差しがあった。
水。
カイの視線は水差しに吸い寄せられた。
いけない。
今の俺、完全に犬だ。餌を前にした犬。いや、水だから犬でもいいか。よくないか。
机の向こうには三人いた。
一人は昨日の老参謀。
灰色の髪と鋭い目を持つ男。名前はまだ聞いていない。たぶん高位の人だ。偉そうではないが、周囲が明らかに気を遣っている。
もう一人は若い貴族将校。
金髪で、綺麗な鎧で、昨日カイを「詩を詠む余裕がある」と皮肉った男。
そして三人目は、白い外套を着た女性だった。
治癒兵。
いや、ただの治癒兵ではない。襟元の紋章からして、治癒兵団の士官だ。淡い銀髪を後ろでまとめ、目つきは穏やかだが、妙に逃げ場がない。
医者の目だ。
悪いことを隠しても、脈でばれるやつだ。
カイは無意識に背筋を伸ばした。
「カイ・リンド」
老参謀が口を開いた。
「座れ」
「はい」
椅子に座った瞬間、全身が軋んだ。
痛い。
椅子ってこんなにありがたいのか。
ありがとう椅子。君は偉大だ。俺が王になったら椅子に勲章を与えたい。いや、王にはならない。まず平民補助兵から始めよう。始まってるか。
老参謀が言った。
「私は西部方面軍参謀、アルド・ヴェインだ」
やっぱり偉かった。
カイは慌てて背筋を伸ばし直した。
「こちらは第四魔法騎兵隊付参謀、レオナール・ディグレイ卿」
金髪の貴族将校が軽く顎を引いた。
ディグレイ卿。
名前まで貴族っぽい。
なんだ、ディグレイって。響きがもう高そう。俺のリンドとは違う。リンドは粉が舞っている感じがする。いや、自分で言って悲しくなるな。
「そして治癒兵団のセリア・ノルン士官」
白外套の女性が静かに頷いた。
「昨日、あなたが連れてきた負傷者の一部を診ました」
「ありがとうございます」
カイは自然に頭を下げた。
これは本心だった。
セリアは少しだけ目を細めた。
「礼を言うなら、後で治癒兵たちに。彼らは昨夜、三度魔力枯渇しかけました」
「……はい」
治癒兵も戦っている。
その事実が、重く胸に落ちた。
剣を持たなくても、槍を突かなくても、戦場で削られる人間はいる。
また一つ、知りたくなかったことが増えた。
アルド参謀が机の上に一枚の紙を置いた。
「昨日の敗走時、お前が連れてきた兵の数は八十七名。うち重傷者十三名。死亡者は、集結地到着後に二名」
カイの喉が鳴った。
二名。
到着後。
助けたと思った中から、二人死んだ。
顔は。
覚えているだろうか。
分からない。
覚えていない自分が嫌だった。
「一方、同じ区域にいた第七歩兵補充隊および周辺予備兵の損耗は甚大だ。反動直撃域にいた者はほぼ壊滅。お前が三歩後退させた数名は生存している」
ディグレイ卿が冷たく言う。
「偶然かもしれないがな」
カイは水差しを見た。
今、そこを見るな。
でも喉が痛い。
水、飲みたい。
この状況で「水をください」と言ったらどうなるだろう。怒られるか? いや、でも喉が死んでいる。証言にも差し支える。これは正当な要求では?
セリア士官が、すっと杯に水を注いだ。
「飲んでください。声が潰れています」
「あ、ありがとうございます」
神か。
いや、治癒兵だ。
でも今は神に近い。
カイは水を飲んだ。
喉に染みる。
生き返る。
水、偉大。
粉挽きの息子として水には感謝してきたが、今日ほど感謝したことはない。
アルド参謀が続ける。
「証言を取る。お前は、解鎖前に左翼への逆流を予測したか」
カイは杯を置いた。
「予測というか……そうなる気がしました」
「根拠は」
「左翼盾列の遅れ。魔石杭の沈下。魔法兵団の詠唱遅延。竜騎兵の魔力過多です」
ディグレイ卿が机を指で叩いた。
「新兵が知るには、随分と専門的だ」
「兵法書を読んでいました」
「どこの軍学校で?」
「製粉所で」
「ふざけるな」
「本当です」
ディグレイ卿の眉間に皺が寄る。
カイは心の中で謝った。
違うんです。これ、ふざけて聞こえるけど本当なんです。俺ももっと格好いい経歴が欲しかった。軍学校とか、名将の弟子とか、古代王家の血筋とか。でも現実は製粉所。水車と麦粉。人生は演出に配慮してくれない。
アルド参謀が言った。
「どの本を読んだ」
カイは少し迷った。
そして答えた。
「『ガルディア平原会戦記』『北湿原防衛記』『第三王子遠征録』、それと……『第五連鎖崩壊記録』です」
最後の一冊を出した瞬間、天幕の空気が変わった。
アルド参謀の目が細くなる。
ディグレイ卿の指が止まる。
セリア士官もわずかに顔を上げた。
あれ。
言っちゃいけない本だった?
グレン爺、そういうのは貸す時に言ってくれ。いや、あの人なら「言ったら面白くない」とか言いそうだ。困る。本当に困る。
「その本をどこで手に入れた」
アルド参謀の声が低くなった。
「村の退役軍人から借りました。グレン・アーヴィンという人です」
今度は、アルド参謀が明確に反応した。
「グレン……」
「ご存じですか?」
「古い名だ」
アルド参謀はそれ以上言わなかった。
気になる。
めちゃくちゃ気になる。
グレン爺、やっぱりただの偏屈老人じゃなかったのか。いや、ただの偏屈老人が『第五連鎖崩壊記録』なんて持っている時点で怪しい。気づけ、俺。読書欲に目が曇っていた。
ディグレイ卿が口を開く。
「『第五連鎖崩壊記録』は禁書ではないが、一般に流通するものではない。あれは公式戦記とは異なる解釈を含む」
「公式戦記では、敵の奇襲魔法が原因とされています」
「そうだ」
「でも昨日の戦場は、あの記録に似ていました」
言った瞬間、自分でもしまったと思った。
これは、かなり危ない発言だ。
つまり、昨日の敗北は敵の奇襲ではなく、自軍チェーンの失敗だと言っているのと同じだ。
天幕が冷えた。
ディグレイ卿の目が鋭くなる。
「新兵が、王国軍の作戦失敗を断ずるか」
「断じてません」
「今、似ていると言った」
「似ていました。でも俺は全部を見たわけじゃないです。見えた範囲では、という話で」
「逃げるな」
カイは口を閉じた。
逃げたい。
とても逃げたい。
だが、ここで言葉を濁すと、昨日死んだ兵たちがただの「敵奇襲による損耗」になる。
それでいいのか。
いいわけがない。
でも俺が言ってどうなる?
平民の新兵が。
無才の補助兵が。
王国軍の失敗を指摘して。
何ができる?
カイは拳を握った。
怖い。
でも、昨日も怖かった。
怖くても声を出した。
なら、今も出せ。
「俺は、王国軍の作戦を批判できる立場じゃありません」
カイは言った。
「でも、昨日の解鎖は敵中央へまっすぐ行きませんでした。左に引かれました。あの前から、左翼の流れは濁っていました。もしそれを全部『敵の奇襲』で済ませるなら、次も同じことが起きると思います」
ディグレイ卿が立ち上がりかけた。
「貴様――」
「レオナール卿」
アルド参謀が止めた。
静かな声だったが、ディグレイ卿は動きを止めた。
アルド参謀はカイを見ていた。
「続けろ」
続けろと言われても、これ以上言うと首が飛びそうなんですが。
物理的にか比喩的にかは知らない。どっちも嫌だ。
「……敵は待っていました」
カイは言った。
「解鎖が曲がるのを。左翼が焼けるのを。だからすぐ魔獣騎兵と干渉兵を入れてきた。あれは偶然じゃないと思います」
アルド参謀は黙った。
セリア士官が口を開いた。
「治癒幕舎の記録でも、左翼の負傷者には敵魔法による外傷より、内部循環の焼損が多く見られます。これは逆流傷に近い」
ディグレイ卿が彼女を見る。
「治癒兵団も、敵奇襲説に異を唱えるのか」
「私は傷を述べているだけです」
「言い方は違えど同じだ」
「傷は政治に合わせて変わりません」
強い。
セリア士官、強い。
カイは心の中で拍手した。
いや、拍手している場合ではない。自分の命運が机の上で転がっている。
アルド参謀は紙を一枚取り上げた。
「昨日、カイ・リンドに救助された兵の証言を集めた。ラッド・オルセン、ミロ・ケイン、トマ・ハルド、他二十七名。内容はほぼ一致している」
読み上げる。
「解鎖前に三歩下がれと言われた」
「左に行くな、杭が死んでいないと言われた」
「敵騎兵の突撃を、止めずに逸らせと言われた」
「拍を合わせろと言われた」
「命令ではない、拍だと言われた」
やめろ。
自分の言葉を他人に読み上げられるの、きつい。
特に「命令ではない、拍だ」は何だ。改めて聞くと完全に変な奴だ。いや、その場では必死だったんです。本当です。
アルド参謀が紙を置く。
「新兵の混乱とは思えない」
ディグレイ卿が冷たく返す。
「扇動とも言えます」
扇動。
また怖い言葉が来た。
カイは背中に汗をかいた。
「その気はありません」
「結果として兵を動かした」
「はい」
「軍規違反だ」
「はい」
「認めるのか」
「動かしたのは認めます。でも……」
カイは言葉を探した。
でも、何だ。
命令がなかったから?
壊れそうだったから?
みんな死にそうだったから?
どれも本当だ。
でも軍規の前では、どれも言い訳に聞こえる。
「でも、あの場に命令は届いていませんでした」
カイは言った。
「太鼓は混ざっていました。軍旗は燃えていました。指揮官は倒れていました。あのまま誰も数えなければ、全員ばらばらに死んでいたと思います」
ディグレイ卿が言う。
「だからお前が数えた?」
「はい」
「自分にその資格があると思ったのか」
「思ってません」
即答だった。
そこだけは迷わなかった。
「今も思ってません。俺は指揮官じゃない。平民の補助兵です。昨日も怖くて、足が震えて、何度も逃げたかった。でも、音が聞こえたんです。流れが切れる音が。だから……」
カイは拳を握った。
「直さないと、壊れると思いました」
天幕の中が静かになった。
アルド参謀は目を閉じた。
セリア士官はカイの手元を見ていた。
ディグレイ卿は、何かを言いかけて、言わなかった。
しばらくして、アルド参謀が口を開いた。
「カイ・リンド。お前を処罰するかどうかは、まだ決めない」
カイは息を止めた。
「え」
「同時に、自由にも戻さん」
「え」
どっちだ。
間だ。
嫌な間だ。
「お前には再検査を受けてもらう。通常の徴兵検査では見落とされたものがある可能性が高い」
「でも、木札には軍才なしと」
「木札は便利だが、万能ではない」
木札、敗北。
いや、俺としては木札に勝ってほしかった。無才の証明、頑張れよ。
セリア士官が言った。
「その前に、身体検査をします」
「身体検査?」
「昨日からあなたの魔力循環に奇妙な負荷痕が出ています」
「俺、魔法は使ってません」
「だから奇妙なのです」
嫌な言い方。
非常に嫌な言い方。
「あなたは戦闘に参加した兵たちと似た反動痕を持っています。特に、即席隊列で拍を合わせた者たちの循環痕と、薄く接続しているように見えます」
カイは固まった。
「接続?」
「まだ断定はできません」
セリア士官は淡々と言った。
「ただ、あなたは命令を出しただけではない。周囲の兵の循環に、何らかの形で触れています」
触れた。
あの時の感覚が蘇る。
足音。
呼吸。
槍の震え。
荷板を持つ腕。
負傷者の遅れ。
全部が頭に流れ込んできた。
あれはただの観察ではなかったのか。
カイの口が乾いた。
「それ、危ないやつですか」
「分かりません」
「分からないが一番怖いんですが」
「正直でよろしい」
「褒められてます?」
「少しだけ」
セリア士官はわずかに微笑んだ。
この人、優しそうに見えて容赦ない。
治癒兵ってそういうものなのかもしれない。痛いところを正確に押す職業。
ディグレイ卿が不満げに言った。
「しかし閣下、この者を正式に扱うとなれば、報告が必要になります。平民の補助兵が大連鎖の欠陥を予見したなど、軍内部に不要な混乱を招きます」
不要な混乱。
つまり、黙らせたいということだろう。
カイはそれを理解した。
昨日の失敗は、公式には敵の奇襲になる。
自軍のチェーンが逆流したとは言えない。
なら、その逆流を予見した新兵など、都合が悪い。
アルド参謀は言った。
「だからこそ、扱いは慎重にする。表向きは、後衛観測班の補助。記録上は、撤退時に現地判断をした補助兵にすぎない」
「実際には?」
セリア士官が尋ねる。
「再検査の結果次第だ」
アルド参謀はカイを見る。
「お前の力が本物なら、使わざるを得ない。だが同時に、危険でもある」
「危険?」
「兵を動かせる者は、兵を殺せる者でもある」
その言葉が、胸に刺さった。
カイは何も言えなかった。
昨日、自分の声で兵が動いた。
その結果、生きた者がいる。
だが、もし間違えていたら?
三歩下がれが間違っていたら。
右へ行けが間違っていたら。
水路跡が罠だったら。
八十七人を、自分の声で死なせていた。
喉が、また痛くなった。
アルド参謀は静かに言った。
「今日は休め。午後、治癒兵団の検査。明日、軍才再検査を行う」
「はい」
「それから」
アルド参謀の声が少しだけ柔らかくなった。
「昨日、お前の判断で生きた者がいる。それは事実だ」
カイは目を伏せた。
「でも、死んだ人もいます」
「それも事実だ」
逃げ道のない言葉だった。
けれど、不思議と少し楽だった。
慰めでも、否定でもない。
事実。
生きた者がいる。
死んだ者もいる。
その両方を持つしかない。
天幕を出ると、外の光が眩しかった。
トマとユナが待っていた。
ラッドとミロも少し離れたところにいる。
みんな、こちらを見る。
カイは笑った。
笑おうとした。
少し引きつったかもしれない。
「朗報。まだ処刑されない」
トマが露骨に息を吐いた。
「笑えねえよ」
「俺も今、言ってから思った」
ユナが近づいてきた。
「どうなったの」
「再検査だって。あと治癒兵団に身体を見られる」
「変な言い方しない」
「いや、緊張を和らげようと」
「和らいでない」
「ごめん」
ラッドが言った。
「俺たちの証言、役に立ったか?」
「たぶん。ありがとう」
「礼を言うのはこっちだろ」
「いや、でも、みんなが言ってくれなかったら俺、ただの命令違反者だったし」
ミロが首を傾げる。
「今もそうじゃないの?」
「……そうかもしれない」
「じゃあ役に立ってない?」
「いや、役に立った。命令違反だけど少し役に立つ命令違反者になった」
「それ出世?」
「肩書きが長くなったから出世」
ラッドが笑った。
ミロも笑った。
トマも。
ユナは呆れた顔をしたが、少しだけ口元が緩んでいた。
笑い声が、小さく集まる。
昨日の拍とは違う。
でも、カイの胸の奥で、細い糸が穏やかに震えた。
人がいる。
自分の声を聞いて、生き残った人たちがいる。
その事実は重い。
重いけれど、完全に悪い重さではなかった。
午後、セリア士官の治癒検査を受けることになった。
治癒幕舎の一角に座らされ、腕に薄い銀色の術式を巻かれる。
セリア士官は無駄口を叩かない。
そのせいで、カイが無駄口を叩きたくなる。
「これ、痛いですか」
「少し」
「少しって、治癒兵が言うと信用できないんですよね」
「では正直に言います。痛いです」
「言い直さなくてよかったです」
セリア士官はカイの腕に指を添えた。
術式が淡く光る。
次の瞬間、腕の奥を細い針でなぞられるような感覚がした。
「いっ……!」
「動かないで」
「痛いって言ったじゃないですか」
「正直に言いました」
「正直って残酷ですね」
セリア士官は反応しない。
やがて彼女の眉が少し寄った。
「やはり、おかしい」
「できれば、もう少し柔らかく言ってほしいです」
「あなたの魔力循環は弱い。個人レベルも低い。通常なら、昨日のような部隊干渉に耐えられません」
「なら、俺は何をしたんですか」
「分かりません」
「またそれ」
「ただ、あなたの循環は強くない代わりに、境目が薄い」
「境目?」
「自分と他者の魔力循環を分ける膜が、普通より薄いのです。だから周囲の乱れを拾いやすいのかもしれません」
カイは嫌な汗をかいた。
「それ、良いことですか」
「良い面もあります」
「悪い面は」
「他人の負荷まで拾います」
セリア士官は淡々と言った。
「昨日あなたが倒れかけたのは、疲労だけではありません。即席隊列の反動を、わずかに受けています」
「俺、反動を受けるようなことしました?」
「周囲の兵の拍を合わせたでしょう」
「声で数えただけです」
「声に、魔力が乗っていた可能性があります」
「俺、魔力量低いんですけど」
「低い魔力でも、流し方が異常なら作用します」
異常。
またその言葉だ。
カイは目を伏せた。
無才の方がよかった。
そう思った。
無才なら、怖くてもただの兵でいられる。
後ろにいて、命令を聞いて、運が良ければ帰れる。
でも異常なら?
軍は使う。
敵も狙う。
周囲は期待する。
自分の声で、人が動く。
そして死ぬかもしれない。
セリア士官が言った。
「怖いですか」
カイは反射的に笑った。
「怖くないです、と言えたら格好いいんですけど」
「けど?」
「めちゃくちゃ怖いです」
セリア士官は静かに頷いた。
「それは良いことです」
「え?」
「怖がらない者に、兵を預けてはいけません」
カイは黙った。
その言葉は、グレンの言葉に似ていた。
臆病は恥じゃない。
臆病を隠して前に出る奴が、一番早く死ぬ。
カイは小さく息を吐いた。
「俺、怖がりすぎて使い物にならないかもしれません」
「昨日は使い物になりました」
「それ、褒めてます?」
「少しだけ」
「セリアさんの少しだけ、だいぶ少ないですね」
「慣れてください」
検査が終わった頃には、空は夕方になっていた。
カイは幕舎を出て、少し離れた場所に腰を下ろした。
前線は遠ざかったはずなのに、まだ太鼓の音が聞こえる気がする。
頭の中で、昨日の拍が繰り返される。
前進。
後退。
敵の太鼓。
自分の一、二。
カイは首から木札を外し、手のひらに置いた。
才能なし。
その文字を親指でなぞる。
「なあ、お前」
木札に話しかける。
かなり疲れている証拠だ。
「俺、本当に何なんだろうな」
木札は何も答えない。
当たり前だ。
答えたら怖い。
でも、その沈黙が少しだけありがたかった。
その夜、カイは『第五連鎖崩壊記録』を開かなかった。
代わりに、白紙の切れ端を取り出した。
兵法書の余白に挟んでいた紙片だ。
そこに、震える手で一行書く。
兵は矢印ではない。拍を失うと、人は迷う。
それから少し考えて、もう一行足した。
命令が届かない時、拍は命令の代わりになる。
書いてから、カイは苦笑した。
「何かそれっぽいな。未来の俺、調子に乗るなよ」
でも、その紙片は捨てなかった。
鞄の奥へしまう。
外では、負傷兵の呻き声がまだ聞こえている。
遠くでは、軍吏たちが明日の再編について話している。
カイは寝袋に潜り込んだ。
明日は再検査。
自分が無才なのか、異常なのか、それともただの勘違いなのか。
分かるかもしれない。
分からないかもしれない。
怖い。
だが、眠らないとまた声が死ぬ。
カイは目を閉じた。
すると、意識が落ちる直前、遠くで水車の音が聞こえた気がした。
村の水車。
規則正しく、穏やかに回る音。
そこに、ほんの一瞬だけ、別の音が重なった。
戦場の太鼓。
兵たちの足音。
そして、まだ聞いたことのない、もっと大きな軍の拍。
カイは眠りに落ちながら思った。
頼むから、明日は静かであってくれ。
その願いが叶わないことくらい、もう分かっていた。




