表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
連鎖の将器 〜無才の拍取りは万軍を繋ぐ〜  作者: 鷹山
第一部 無才の木札
5/6

第5話:命令じゃない、拍を合わせろ

 撤退とは、もっと整ったものだと思っていた。

 兵法書にはそう書いてあった。

 前衛が敵を抑え、後衛が負傷者を収容し、騎兵が追撃を牽制し、魔法兵が煙幕や結界で退路を守る。部隊は段階的に後退し、軍旗を中心に再集合する。

 実に美しい。

 理屈としては完璧だ。


 では現実はどうか。

 現実の撤退は、うるさい。

 まず、うるさい。

 怒号、悲鳴、馬の嘶き、魔獣の唸り、壊れた荷車の軋み、治癒兵を呼ぶ声、誰かの名前を叫ぶ声、倒れた兵が喉の奥で漏らす変な音。

 あと、臭い。

 煙、汗、血、泥、焼けた革、割れた魔石。

 そして、何より分かりにくい。

 どれが味方の太鼓で、どれが敵の太鼓なのか。

 どの旗がまだ生きていて、どの旗が燃え残りなのか。

 どの道が退路で、どの道が死に道なのか。

 兵法書を書いた人間は、一度この光景を見てからもう一度書き直すべきだと思う。

 いや、たぶん見たうえで綺麗に書いたんだろう。

 その方が売れるから。

 くそ、商売上手め。


「一、二。一、二」

 カイは声を出し続けた。

 喉が痛い。

 それでも声を切れない。

 声が切れたら、後ろの足音も切れる気がした。

 三十人ほどの壊れかけた一団。

 槍兵、補助兵、負傷兵、荷板を担いだ者、槍を杖にしている者。

 それぞれ別の部隊だったはずの兵が、今はカイの数える拍に合わせて動いている。

 部隊と呼ぶには雑すぎる。

 行列と呼ぶには血まみれすぎる。

 でも、ばらばらではない。

 ばらばらでないだけで、今は十分すぎる。

「右の煙、濃くなってる! そっち行くな!」

 カイが叫ぶ。

 前を行くラッドが頷き、荷板を抱えたまま進路を少し左へ変えた。

「左は?」

 トマが聞く。

 彼は槍を持って最後尾寄りを守っている。さっき敵の魔獣騎兵を逸らしたせいで、肩で大きく息をしていた。

「左は駄目。低くなってる。煙が溜まる」

「じゃあ真ん中か」

「真ん中も嫌」

「全部嫌じゃねえか」

「戦場に好きな道があると思うなよ」

「お前、言うようになったな!」

「言ってないと泣きそうなんだよ!」

 トマが笑った。

 ほんの一瞬だけ。

 その笑いに、後ろの数人の顔が少し緩む。

 よし。

 冗談はまだ効く。

 冗談が効くなら、まだ全滅していない。

 カイは自分にそう言い聞かせた。


 前方に、小さな丘が見えた。

 草地の盛り上がり。背は高くないが、白煙を避けるには十分だ。丘の裏を回れば、主撤退路に合流できる可能性がある。

 たぶん。

 いや、「たぶん」で三十人を動かすな。

 でも他に道はない。

 正しい道が分からない時は、死ななそうな道を選ぶしかない。これも兵法なのか? いや、ただの生存本能だな。生存本能、偉大。もっと本に書いておけ。

「丘の裏へ回る! 負傷者、遅れてるぞ!」

「こいつ、歩けない!」

 ミロが叫んだ。

 見ると、槍兵の一人が膝をついていた。太腿に深い傷。血が流れている。

 カイは一瞬だけ迷った。

 置いていくべきか。

 兵法書なら、たぶん置いていく。

 機動力を保て。

 追撃下での負傷者回収は損耗を拡大させる。

 生き残るためには切り捨てろ。

 理屈は分かる。

 分かるけど。


 カイは歯を食いしばった。

「二人で肩を貸せ! 槍は捨てるな、杖にしろ!」

「遅れるぞ!」

 誰かが叫んだ。

「分かってる!」

「なら――」

「分かってるけど、置いていかない!」

 自分の声が、思ったより強かった。

 周囲が一瞬静かになる。

 カイ自身も驚いた。

 今の、俺か?

 俺、こんな声出るのか。

 いや、感心してる場合じゃない。

 トマが負傷兵の片腕を担いだ。ラッドが反対側に入る。

「重いな、お前!」

 トマが言う。

 負傷兵が青い顔で答える。

「す、すまん……」

「謝るなら軽くなれ!」

「無茶言うな」

「冗談だ。死ぬなよ」

 そんなやり取りを聞きながら、カイは再び歩き出した。

「一、二。一、二」

 拍を刻む。

 小さな足音が続く。


 だが、背後から別の音が近づいていた。

 蹄音。

 まただ。

 今度は二騎ではない。

 もっと多い。

 白煙の向こうから、敵の追撃部隊が回り込んでいる。

 このまま丘へ向かえば、背後を突かれる。

 止まって迎撃すれば、負傷者が潰れる。

 逃げ切れるか?

 無理だ。

 この人数と状態では無理。

 なら、進路を変える?

 変えたら迷う。

 迷えば散る。

 散れば死ぬ。

 考えろ。

 考えろ、カイ。

 水車ならどうする。

 流れが強すぎて軸が耐えられない時は、流れを止めるんじゃない。逃がす。横の水路へ流す。

 敵の突撃も同じだ。

 止めるな。

 流せ。

 どこへ?


 カイは前方を見た。

 丘の手前に、壊れた補給荷車が横倒しになっている。矢束と空の樽が散らばっている。さらにその右側、地面に青い光を失った魔石杭が数本転がっていた。

 死んだ杭だ。

 反動は抜けている。

 なら使える。

「ミロ!」

「また俺!?」

「お前が一番荷車に詳しい!」

「こんな時だけ褒めるな!」

「本気で褒めてる! あの倒れた荷車、動かせるか?」

「車輪が片方死んでる!」

「転がせなくていい。傾けろ。壁にする」

「何する気だよ!」

「敵に道を間違えてもらう!」

 ミロは一瞬だけカイを見た。

 それから、歯を食いしばって走った。

「荷板持ち、右へ! 槍兵は丘側に斜め陣! 真正面を向くな、左肩を引け!」

 槍兵たちが困惑する。

 トマが叫んだ。

「聞け! カイの拍に合わせろ!」

「でもこいつ補助兵だぞ!」

「今は知らん! 生きたい奴は合わせろ!」

 ありがたい。

 いや、ありがたいけど雑だな。今は知らん、って何だ。俺の肩書き、戦場限定で消失したぞ。

 だが兵たちは動いた。

 槍兵が斜めに並ぶ。荷板持ちが右に出る。ミロが荷車に取りつき、二人が手伝って車体を傾ける。空の樽がごろごろと転がる。

 カイは背後の音を聞いた。

 敵は速い。

 魔獣騎兵が三、四、五。

 いや、六騎。

 小集団を刈るには十分すぎる。

 このまま突撃されたら終わりだ。

 カイは叫んだ。

「魔石杭、拾え! 光ってないやつ!」

「使えるのか!?」

「使えない! だから投げろ!」

「はあ!?」

「馬は踏みたくないものを避ける!」

 それが魔獣にも通じるかは知らない。

 知らないが、やる。

 カイも一本拾った。

 重い。

 ずしりと腕に来る。

 これを日常的に扱うドワーフ工兵、腕どうなってるんだ。丸太か。いや、今は感心してる場合ではない。

 白煙から敵影が出た。

 黒い魔獣。

 赤い目。

 騎兵の槍。

 先頭がこちらを見つけ、進路を変える。

 突撃線がこちらに向く。

 カイは胸の中で拍を数えた。

 一。

 二。

 三。

 まだ。

 まだ。

「杭、投げろ!」

 数本の魔石杭が地面へ転がる。

 先頭の魔獣がわずかに足を変えた。

 避けた。

 よし。

「樽!」

 ミロが空樽を蹴る。

 樽が斜面を転がり、魔獣の前へ入る。

 突撃線がさらにずれる。

「荷車!」

 ミロたちが傾けた荷車が、ぎしりと音を立てて倒れる。

 敵の進路に、斜めの障害物ができた。

 先頭騎は避ける。

 だが後続が詰まる。

 小さな混乱。

 そこへ、トマの槍兵が斜めから突く。

「今だ!」

 カイとトマの声が重なる。

 槍が揃った。

 敵を倒すための槍ではない。

 進路を曲げるための槍。

 一騎目が大きく左へ流れ、丘の低地へ逸れる。

 二騎目が荷車にぶつかり、速度を落とす。

 三騎目は突撃を止め、後続とぶつかりかける。

 敵の連鎖が途切れた。

 カイには、それがはっきり分かった。

 敵騎兵の突撃は、個々の速さだけでなく、連続した圧でこちらを潰すものだった。

 その一拍目をずらした。

 だから後ろも乱れた。

 小さい。

 本当に小さい。

 でも、チェーンが切れた。


「走れ!」

 カイは叫んだ。

「今は走っていい! 丘の裏まで!」

「さっき走るなって言っただろ!」

 ラッドが叫ぶ。

「状況が変わった! 俺の言うことはすぐ古くなる!」

「最低の指揮官だな!」

「まだ指揮官じゃない!」

 全員が丘へ向かった。

 背後で敵騎兵が体勢を立て直す音がする。

 間に合うか。

 間に合え。

 頼む。間に合え。

 丘の裏に回り込むと、風が少し変わった。


 白煙が薄い。

 視界が開ける。

 そこには、他の敗残兵たちがいた。

 王国軍の盾兵、弓兵、魔法兵見習い、負傷した治癒兵。数は五十ほど。だが、彼らは完全に混乱していた。

 軍旗がない。

 太鼓もない。

 指揮官も見えない。

 兵たちは互いに別々の方向を見て、どこへ行くべきか分からずに立ち尽くしていた。

 まずい。

 これ、放っておくと散る。

 散ったら敵騎兵に刈られる。

 カイは息を吸った。

 やめろ。

 今の三十人だけでも手一杯なのに。

 五十人増える?

 無理だろ。

 俺は粉挽きだぞ。

 レベル二だぞ。

 才能なしだぞ。

 木札見せようか? ほら、軍公認で無才だ。信頼の刻印付き。

 だが、耳の奥で音が鳴っている。

 壊れる前の音。

 この五十人の流れが、ばらばらに裂ける音。

 カイは歯を食いしばった。

 くそ。

 聞こえるなよ。

 聞こえたら、放っておけないだろ。

「トマ」

「分かってる」

「まだ何も言ってない」

「どうせまとめるんだろ」

「俺、そんな顔してた?」

「死ぬほど嫌そうな顔してた」

「正解」

 トマは笑い、槍を立てた。

「おい! まだ動ける奴、こっちを見ろ!」

 声が飛ぶ。

 敗残兵たちが振り向く。

 カイは一瞬、逃げたくなった。

 見るな。

 全員で見るな。

 俺は何も持ってない。

 指揮権も、階級も、将器も、まともな武器も。

 あるのは震える膝と、嫌な音を拾う耳と、本で読んだだけの兵法。

 足りない。

 絶対に足りない。

 でも、黙っていたら足りないまま死ぬ。


 カイは前に出た。

「聞け!」

 自分でも驚くほど、声が通った。

 兵たちの視線が集まる。

 怖い。

 やばい。

 吐きそう。

 でも笑え。

 少しでいいから、軽くしろ。

「俺は偉くない! 階級もない! たぶんこの中で一番木札がしょぼい!」

 何人かが呆気に取られた。

 そりゃそうだ。

 最初に言うことじゃない。

「でも、あっちに行くと死ぬ。そっちも死ぬ。今、生き残る道は丘の裏を回って主撤退路に合流することだけだ」

 一人の盾兵が怒鳴った。

「誰の命令だ!」

「命令じゃない」

 カイは即答した。

「命令は今、届いてない。だからこれは命令じゃない」

「じゃあ何だ!」

 カイは一瞬迷った。

 何だ?

 俺は何をしている?

 命令ではない。

 指揮でもない。

 それを名乗る資格はない。

 ただ、流れが壊れないように声を出している。

「拍だ」

 カイは言った。

「命令じゃない。拍を合わせるだけだ。生き残りたいなら、今だけ同じ拍で動け」

 自分で言って、変なことを言っているなと思った。

 でも、兵たちは黙った。

 たぶん、意味は半分も伝わっていない。

 だが、何かは届いた。

 トマが槍を地面に打ちつけた。

「一!」

 ラッドが続けて荷板を叩いた。

「二!」

 ミロが空樽を蹴った。

「一!」

 別の兵が、盾を叩いた。

「二!」

 音が生まれた。

 ばらばらの兵の間に、粗い拍ができる。

 カイの胸の奥で、糸が震える。

 今度は少し太い。

 五十人が、三十人と繋がろうとしている。

 危うい。

 無理やりだ。

 でも、流れはできる。

「盾を持ってる奴、外側! 槍はその内側! 弓は丘の上へ三人だけ、残りは負傷者を見ろ! 魔法を使える奴は撃つな、温存しろ。今撃っても濁る!」

「濁るって何だ!」

「後で説明する! たぶん!」

「たぶん!?」

「俺も全部は分かってない!」

 正直に言いすぎたかもしれない。

 でも兵たちは動いた。

 たぶん、分からないなりに、立ち止まっているよりはましだと思ったのだ。


 カイは丘の上へ登り、戦場を見渡した。

 王国軍の左翼は白煙の中で崩れている。中央はまだ主旗を保っているが、敵が左右から圧をかけ始めている。主撤退路は北西。だがそこへ向かうには、低地を通らなければならない。

 低地は駄目だ。

 煙と魔力残滓が溜まっている。

 なら、丘沿いに西へ回り、古い水路跡を使う。

 水路跡。

 あった。

 地形図で見た。

 前夜、野営地で配られた簡易地図の端に描かれていた。今は干上がっているが、窪地として残っている。

 ただし、本隊の撤退路からは外れる。

 怒られる道。

 さっき自分で言った通りだ。

 怒られるのは生きてから。

「西の水路跡へ向かう!」

 カイは叫んだ。

「低地じゃないのか?」

「水路跡は煙が流れる! 足元は悪いが、敵騎兵の速度も落ちる!」

「確かか!」

「確かだったらもっと偉そうに言ってる!」

「お前、ほんとに大丈夫か!」

「俺も不安だ!」

 兵たちの間に、微妙な笑いが起きた。

 いい。

 笑え。

 笑いながら動け。

 怖くても動け。


 カイは再び拍を刻んだ。

「一、二。一、二」

 八十人ほどになった敗残兵の一団が、動き出す。

 最初より重い。

 人数が増えたからだ。

 足音がずれる。

 負傷者が遅れる。

 盾兵は速く歩けない。

 槍兵は焦る。

 弓兵は周囲を見すぎて足が乱れる。

 カイの頭に、音が流れ込む。

 あっちが遅い。

 こっちが早い。

 右外側が崩れる。

 負傷者の列が詰まる。

 弓兵三人、丘の上で止まりすぎ。

 魔法兵見習い、詠唱しようとするな。今撃つな。

 情報が多い。

 多すぎる。

 頭が痛い。

 やめろ、全部聞こえるな。

 いや、聞け。

 聞かないと死ぬ。


 カイは指示を飛ばし続けた。

「右外側、速い! 半拍落とせ!」

「負傷者列、詰まるな! 二人ずつじゃなく三人で回せ!」

「弓兵、丘の上で止まるな! 撃ったら下がれ!」

「魔法兵、撃つなって言っただろ! 今撃ったら煙が返る!」

 魔法兵見習いがびくっとして詠唱を止める。

 直後、風が逆に吹いた。

 もし撃っていれば、火煙がこちらに流れたかもしれない。

 見習いは青ざめてカイを見た。

 見るな。

 俺をそんな顔で見るな。

 俺はたぶん、今かなり必死なだけだ。

 それ以上の何かじゃない。


 敵の追撃は続いている。

 魔獣騎兵は、丘沿いのルートに速度を落としながらも迫ってきた。

 さらに敵の歩兵が煙の向こうから現れ始める。

 黒い盾を持つ部隊。

 その後ろに魔族干渉兵。

 まずい。

 あの干渉兵がこちらの小さな流れに触れたら、全員ばらける。

 こちらの部隊レベルは低い。低すぎる。即席の糸で縫い合わせているだけだ。

 切られたら終わり。

 何か、間に入れるもの。

 地形。

 水路跡。

 そうだ。

 水路跡の手前に、壊れた灌木の列がある。そこを越えれば敵騎兵の横展開ができない。

「急げ! 灌木の向こうへ!」

「負傷者が遅れてる!」

「置くな! 荷板を担架にしろ!」

「荷板足りない!」

「盾を使え!」

「盾を!?」

「盾は守るためのものだろ! 今日は人を運んで守れ!」

 盾兵が一瞬固まった。

 だがすぐに、二人が盾を外し、負傷兵を乗せた。

 いい。

 そういう使い方もできる。

 本には載っていなかったけど。

 いや、載っていないことばかりだ。

 戦場は、本よりずっと汚くて、ずっと融通が利かなくて、でも時々、本より柔らかい。

 灌木の列に入る直前、敵の干渉魔法が飛んできた。

 黒い糸のような魔力が、こちらの列に伸びる。

 カイの胸の糸がびりっと震えた。

 鎖濁し。

 敵のチェーン妨害。

 命令系統や部隊循環にノイズを混ぜる魔法。

 この即席部隊に食らえば、たぶん一瞬でばらける。

 カイは叫んだ。

「声出せ!」

 兵たちが困惑する。

「何でもいい! 数えろ! 叫べ! 自分の声で拍を保て!」

 カイは自分で叫んだ。

「一!」

 トマが続ける。

「二!」

 ラッドも。

「一!」

 ユナではない弓兵が。

「二!」

 盾兵が。

「一!」

 負傷兵まで掠れた声で。

「二……!」

 声が重なった。

 不格好な拍。

 でも、自分たちの拍。

 黒い干渉魔法が触れた瞬間、列が大きく揺れた。

 何人かがふらつく。

 だが、切れない。

 切れなかった。

 カイは目を見開いた。

 いける。

 部隊レベルなんてない寄せ集めでも、自分たちの拍を持てば、少しだけ耐えられる。

 グレンの言葉が頭をよぎる。

 美しい流れほど疑え。

 なら、不格好な流れは?

 不格好でも、生きていればいい。

 カイは笑った。

 自分でもどうかと思う笑いだった。

「いいぞ! 下手くそだけど切れてない!」

「褒めてるのかそれ!」

「めちゃくちゃ褒めてる!」


 灌木の列を抜け、水路跡へ入った。

 地面はぬかるんでいるが、両側が少し高く、敵騎兵は一列にならざるを得ない。

 これなら追撃速度を殺せる。

 カイたちは水路跡を西へ進んだ。

 後方では、敵が足を取られて速度を落としている。

 助かった。

 いや、まだ助かっていない。

 でも、一つ死なずに済んだ。

 水路跡を進むうちに、遠くで王国軍の本隊の角笛が聞こえてきた。

 主撤退路だ。

 合流できる。

 その音を聞いた兵たちの間に、安堵が広がる。

 足音が少し乱れた。

「気を抜くな!」

 カイは叫んだ。

「助かったと思った時が一番転ぶ!」

「お前は縁起でもないことばっかり言うな!」

「俺の得意分野だ!」


 やがて、水路跡の先に王国軍の後衛部隊が見えた。

 灰色の軍旗。

 撤退支援の盾兵隊。

 彼らはカイたちを見ると、驚いたように声を上げた。

「敗残兵だ!」

「こっちへ!」

「負傷者を先に通せ!」

 ようやく。

 ようやく味方のきちんとした部隊に合流できた。

 その瞬間、カイの体から力が抜けた。

 膝が落ちる。

 倒れそうになったところを、トマが支えた。

「おい!」

「大丈夫。ちょっと……足が反抗期」

「意味分からん」

「俺も」

 カイは笑おうとした。

 しかし、うまく笑えなかった。

 安心したせいで、怖さが一気に戻ってきた。

 手が震える。

 喉が痛い。

 目の奥が熱い。

 ラッドが近づいてきた。

「カイ」

「ん?」

「助かった」

 ミロも言った。

「俺も」

 他の兵たちも、ぽつぽつと礼を言った。

 カイは困った。

 どう返せばいい。

「どういたしまして」?

 違う。

 俺は助けたかったわけじゃない。

 いや、助けたかった。

 でも、助けられなかった人もたくさんいる。

 さっき左へ走って倒れた兵。

 白く焼けた左翼。

 燃えた軍旗。

 叫び声。

 礼を言われるたびに、救えなかった音が混じる。

 カイは無理やり口角を上げた。

「じゃあ、今度から俺のことは三歩下がる男と呼んでくれ」

 ラッドが一瞬ぽかんとして、それから笑った。

「だせえ」

「ひどいな。命名に自信あったのに」

「ない方がいい」

 笑いが少しだけ広がった。


 その笑いの向こうから、硬い声が飛んだ。

「お前たち、どこの部隊だ!」

 王国軍の後衛士官が近づいてくる。

 整った鎧。泥の少ない外套。腰には指揮官用の短杖。貴族か、少なくとも士官学校出の将校だろう。

 カイは立とうとしたが、足に力が入らない。

 トマが代わりに前へ出ようとする。

 だが士官の視線は、すでにカイに向いていた。

「貴様がこの集団を連れてきたのか?」

 カイは一瞬、返答に迷った。

 連れてきた。

 たぶん。

 でもそう言うとまずそうだ。

 命令違反とか、指揮権侵害とか、そういう言葉が頭をよぎる。

 ここは慎重に。

 慎重に、明るく、無害そうに。

「ええと……道に迷ったら、みんなが偶然同じ方向に来まして」

 士官の眉がぴくりと動いた。

 失敗した。

 無害ではなく怪しい。

「名前は」

「カイ・リンドです。第七歩兵補充隊、予備線補助」

「階級は」

「ありません」

「指揮権は」

「もっとありません」

 士官の表情が険しくなる。

「ではなぜ、部隊を動かした」

 カイは口を閉じた。

 後ろでラッドが言う。

「こいつがいなきゃ俺たちは焼けてました」

 ミロも続ける。

「敵騎兵も逸らした。水路跡へ導いたのもカイです」

 トマが槍を支えながら言った。

「俺の槍兵も、こいつの拍で動いた」

 やめろ。

 ありがたいけど、やめろ。

 証言が積み上がるたびに、俺の罪状も積み上がっていく気がする。

 士官はカイを見下ろした。

「補充兵が、命令系統を無視して兵を動かした、ということか」

 ほら来た。

 やっぱり来た。

 カイは乾いた笑いを浮かべた。

「できれば、命令系統の方が一時的に俺たちを見失っていた、という方向で……」

「ふざけているのか」

「半分くらいは、恐怖で」

「立て」

 士官の声が冷たくなった。

「事情を聞く。貴様には命令違反の疑いがある」

 周囲の空気が固まった。


 助かった。

 生き残った。

 怒られるのは生きてから。

 さっき自分で言った。

 本当にその通りになった。

 カイはゆっくり立ち上がった。

 足が震える。

 だが今度は、恐怖だけではなかった。

 疲労。

 混乱。

 そして、妙な怒り。

 命令違反。

 そうなのだろう。

 軍ではそうなるのだろう。

 でも、あの白い火の中で、命令は届かなかった。

 太鼓は喧嘩していた。

 旗は燃えていた。

 誰も数えていなかった。

 だから数えた。

 それだけだ。


 カイは士官を見た。

 いつものように軽く言おうとした。

 でも口から出た声は、少しだけ低かった。

「分かりました。事情は話します」

 士官は頷く。

「ただ」

 カイは続けた。

「その前に、負傷者を治癒班へ。ここまで運んだのに、事情聴取待ちで死なれたら、俺がめちゃくちゃ怒られ損なので」

 一瞬、士官が黙った。

 それから後方へ命じる。

「負傷者を通せ」

 治癒兵たちが動き出す。

 カイは小さく息を吐いた。

 よかった。

 少なくとも、そこは通った。

 トマが小声で言う。

「お前、すごいな」

「どこが」

「怒られる直前に、さらに怒られそうなこと言えるところ」

「才能なしのはずなんだけどな」

 カイはそう言って、首から下がる木札に触れた。

 木札は灰で汚れていた。

 そこにはまだ、はっきりと刻まれている。

 固有スキルなし。

 軍才兆候なし。

 歩兵補助。

 才能なしの証明。

 カイはそれを見て、少しだけ笑った。

 どうやらこの木札は、あまり当てにならないのかもしれない。

 そして、それが少し怖かった。




 ====================================

 第五話 巻末資料

 王国軍臨時戦術記録:即席隊列と拍合わせ


 分類:非正規小隊行動

 発生状況:敗走中、軍旗・太鼓・指揮官を喪失した兵の一時的再編

 記録対象:カイ・リンド周辺の敗残兵集団


 概要:

 通常、異なる部隊・兵科の兵を即席でまとめた隊列は、部隊レベルを形成しにくい。

 軍旗、太鼓、指揮官、訓練拍のいずれも欠く場合、集団は短時間で散開・混乱する。


 しかし当該事例では、カイ・リンドが声によって単純拍を提示。

「一、二」という原始的な拍により、敗残兵の歩調と呼吸を一時的に同期させた。


 確認された効果:


 ・逃走方向の統一

 ・負傷者搬送の継続

 ・敵騎兵突撃に対する即席対応

 ・荷板・荷車・水樽など非武装物資の戦術利用

 ・魔族干渉兵による鎖濁しへの軽度抵抗


 戦術評価:

 正式なチェーンではない。

 ただし、完全に散開した兵を一時的に「流れ」として扱う効果があった。


 現場証言抜粋:

「命令じゃない、拍を合わせろと言われた」

「意味は分からなかったが、足は動いた」

「太鼓が聞こえない場所で、あいつが数えていた」


 備考:

 この段階では、カイ・リンドに正式な指揮権はない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ