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連鎖の将器 〜無才の拍取りは万軍を繋ぐ〜  作者: 鷹山
第一部 無才の木札
4/6

第4話:白く焼けた左翼

 世界が、白かった。

 白い煙。

 白い火。

 白く焼けた草。

 白く弾けた魔力の残滓。

 戦場というものは、もっと赤いのだと思っていた。

 兵法書の挿絵はだいたい赤かった。赤い矢印、赤い旗、赤く塗られた敵陣。血の色も、炎の色も、勝利の色も、赤で表されていた。

 だが実際に見た戦場は、白かった。

 目を焼くような白。

 音まで消し飛ばすような白。


 カイは地面に片膝をついたまま、何度も瞬きをした。

 耳がうまく働いていない。

 遠くで誰かが叫んでいる。近くでも誰かが叫んでいる。だが、声は分厚い布の向こうから聞こえるみたいだった。

 鼻の奥に焦げた匂いが入ってくる。

 肉の匂い。

 革の匂い。

 魔石が割れた時の、金属にも薬草にも似た嫌な匂い。

 やめろ。

 それ以上、何の匂いか考えるな。

 カイは口を押さえた。

 吐きそうだった。

 いや、吐いている場合じゃない。吐くなら後だ。後にしろ。今ここで吐いたら、ただでさえ役に立たない補助兵が、さらに足元を滑りやすくするだけだ。最悪の貢献だぞ、それ。

「カイ……!」

 ラッドの声がした。

 さっき腕を掴んで三歩下げた補助兵だ。顔は土と灰で汚れ、唇が震えている。

 その隣で、ミロが尻餅をついたまま呆然としていた。

「な、なんだよ、今の……」

 ミロの声は掠れていた。

「解鎖……だと思う」

 カイは答えた。

 自分でも驚くほど、声が小さかった。


 違う。

 解鎖じゃない。

 解鎖に失敗した反動だ。

 王国軍の七段連鎖は、敵中央を砕くはずだった。

 獣人斥候が釣り、弓兵が縫い、盾兵が固定し、工兵が反動を逃がし、魔法兵団が詠唱を束ね、竜騎兵が槍を落とし、最後に第五階梯術式で弾けさせる。

 完璧な流れ。

 完璧に見えた。

 美しかった。

 そして、壊れた。

 左翼の方から、悲鳴が重なって聞こえてくる。

 盾兵隊の軍旗が一本、燃えていた。

 軍旗はただの布ではない。部隊の魔力循環を束ねる中継点だ。旗が燃えるということは、その部隊の循環が切れたということだ。

 カイは本で読んでいた。

 軍旗喪失。

 部隊レベル急落。

 命令伝達不能。

 士気崩壊。

 文字では知っていた。

 でも実物は、こんなにひどいのか。

 旗が燃えると、人が迷う。

 どこへ行けばいいか分からなくなる。

 誰の命令を聞けばいいか分からなくなる。

 軍という大きな流れから、兵士が一人ずつ千切れていく。

 カイはそれを見て、喉の奥が詰まった。


 だが、太鼓が鳴った。

 どん。

 どん。

 どんどん。

 いや、違う。

 太鼓が二つある。

 中央の太鼓は前進を告げている。

 左翼の太鼓は後退を告げている。

 拍が重なって、濁っている。

 気持ち悪い。

 水車の軸が二つの方向へ引っ張られるみたいだ。

「まずい」

 カイは呟いた。

 ラッドがこちらを見た。

「何が?」

「太鼓が混ざってる。前進と後退が同時に来てる」

「それが、どうしたんだよ」

「兵が割れる」

 言った瞬間、前方の予備線が乱れた。

 前に出ようとする者。

 左へ逃げる者。

 負傷者を抱えて下がる者。

 命令を聞こうと立ち止まる者。

 そこへ、白煙の向こうから黒い影が現れた。

 敵騎兵。

 いや、普通の騎兵ではない。

 馬の首が長い。脚が異様に細い。蹄が地面に触れるたび、黒い火花が散る。魔獣に騎乗した兵だ。隣国ヴァルム連合の魔獣騎兵。

 敵は待っていた。

 王国軍の大連鎖が逆流する、この瞬間を。

 カイの背筋が凍った。

 これ、読まれてた。

 こっちの失敗を、敵は待っていた。

 つまり、偶然じゃない。

 いやいや、考察は後。分析も後。生き残ってからやれ。死んだら「今のは敵の誘導だったのでは」とか言えない。死者の推理は読者に届かない。今は動け。


「立て」

 カイはラッドの肩を掴んだ。

「立て! ミロも!」

「む、無理だって」

「無理でも立て。座ってたら踏まれる。踏まれるのは俺も嫌だし、お前が踏まれるのを見るのも嫌だ」

「どこ行くんだよ!」

 どこ。

 カイは周囲を見た。

 前は白煙と敵騎兵。

 左は焼けた結界杭が残っている。魔力がまだ暴れている。近づいたら内側から焼かれる。

 右は補給荷車の列。倒れた荷馬車が道を塞いでいるが、遮蔽物にはなる。

 後ろは予備線の混乱。逃げる兵が集中していて、押し潰される。

 正しい撤退路は、たぶん中央後方。

 でも今そこへ行くと、前進命令を受けた部隊とぶつかる。

 カイの胸の奥で、細い糸が震えた。

 右だ。

 荷車の影を使って、白煙の右を抜ける。

 そこならまだ音が軽い。

「右。荷車の方だ」

「命令は?」

「命令は今、喧嘩してる」

「は?」

「太鼓が二つ鳴ってる。どっちも聞くな。俺を見るな。いや、俺を見るなは違う。俺について来い。くそ、ややこしいな!」

 自分でも何を言っているのか分からない。

 でも足は動いた。

 カイはラッドとミロを引っ張り、近くで固まっていた数人の補助兵にも叫んだ。

「左に行くな! 杭が死んでない! 焼けるぞ!」

 一人が怒鳴り返す。

「お前、何様だ!」

「粉挽きだよ!」

「ふざけてるのか!」

「ふざけてる余裕があればよかったな!」

 白煙の中から、熱風がもう一度吹いた。

 左へ走りかけた兵が、悲鳴を上げて倒れる。焼けた魔石杭の青い光が、彼の脚に絡んでいた。

 それを見た数人が青ざめ、カイの方へ走ってきた。

 よし。

 いや、よくない。

 一人倒れた。

 でも他が来た。

 喜ぶな。

 喜んじゃいけない。

 カイは荷車の裏へ回り込んだ。

 倒れた車輪。散らばった矢束。割れた水樽。地面は泥と灰で滑る。

 後方では小隊長が何か叫んでいるが、声は混乱に飲まれている。


 敵の魔獣騎兵が近づく。

 蹄音が速い。

 どどどど、と低い連打。

 それに混じって、敵の太鼓が鳴っている。

 王国軍の乱れた太鼓とは違う。

 低く、正確で、嫌になるほど落ち着いている。

 敵は始鎖を始めている。

 魔獣騎兵の突撃だけではない。

 白煙の向こうに、黒い外套の魔族兵が見えた。杖を掲げ、何かを唱えている。干渉魔法だ。王国軍の乱れた軍陣循環に、さらに濁りを入れている。

 やめろ。

 今そこに触るな。

 もう十分壊れている。

 カイは歯を食いしばった。

 何を怒っているんだ、俺は。

 敵だぞ。

 敵がこちらを壊すのは当たり前だ。

 でも、腹が立った。

 壊れかけたものを、わざと踏みにじるような音がした。

 荷車の裏に隠れた補助兵は、いつの間にか十人ほどになっていた。

 ラッド、ミロ、それに名前も知らない兵たち。誰かが腕を押さえている。誰かが泣いている。誰かがずっと「母さん」と呟いている。

 カイは自分の膝が震えているのに気づいた。

 止まれ。

 止まれよ。

 今震えるな。

 いや、震えてもいい。足が動けばいい。震えたまま動け。できるだろ? 水車だってガタつきながら回ることあるだろ。ある。あるけど、あとで直す。今はあとで直せ。自分を。

「カイ、どうするんだ」

 ラッドが聞いた。

 どうする。

 どうするんだろうな。

 俺も聞きたい。

 指揮官はどこだ。

 小隊長は。

 軍旗は。

 太鼓は。

 答えはどこにある。

 カイは周囲の音を聞いた。

 敵騎兵の蹄。

 味方の悲鳴。

 燃える軍旗。

 濁った太鼓。

 魔石杭の残響。

 そして、荷車の向こう側から聞こえる槍の金具の音。

 規則正しくはない。

 だが、まだ折れていない音。

 中央寄りに、槍兵隊がいる。

 トマの部隊かもしれない。

 あそこへ合流できれば、騎兵を止められる。

 ただし正面から行けば敵に見つかる。

 白煙の右、倒れた荷車の列、壊れた水樽の脇を抜ければ――。


「荷車の陰を伝って、中央寄りに抜ける」

 カイは言った。

「走るな。音を立てるな。負傷者は二人で持て。盾になるものは持っていけ」

「盾なんてないぞ」

「荷板を剥がせ」

「そんなの持って走れるかよ」

「走るなって言っただろ。歩け。拍を揃えろ」

 自分で言って、少し驚いた。

 拍を揃えろ。

 それは教官の言葉だった。

 だが今は、命令として自然に口から出た。

「一、二、一、二。太鼓は聞くな。俺が数える」

 ラッドが目を見開いた。

「お前が?」

「不満なら敵の太鼓に合わせるか?」

「……お前のでいい」

「ありがたい評価だ」

 カイは荷板を一枚引き剥がした。

 重い。

 当たり前だ。荷車の板だぞ。俺の腕力を考えろ。いや、考えたら持てない。考えるな。

 ミロが手伝った。

「俺、こういうの得意」

「荷車?」

「修理屋の息子」

「最高。今この戦場で一番頼れる職業かもしれない」

「本気?」

「かなり本気」

 ミロは少しだけ顔を上げた。

 その表情が、さっきより生きていた。

 よし。

 人は役割があると少し動ける。

 兵法書には、士気を保つには任務を与えよ、と書いてあった。あれは本当だった。珍しく本が役に立った。いや、本はいつも役に立つ。俺の信仰対象だからな。紙は神。さっきも言ったか。

 カイたちは荷車の影を伝って動き始めた。

「一、二。一、二」

 カイが小声で数える。

 十人ほどの足音が、それに合わせて動く。

 ばらばらだった呼吸が、少しだけ揃う。

 小さな流れ。

 弱い。

 でも繋がっている。

 カイの胸の奥で、細い糸が震えた。

 今度は嫌な音ではなかった。

 危ういが、まだ切れていない音。


 敵騎兵の一騎が、白煙を抜けてこちら側へ回り込んできた。

 黒い魔獣の目が赤く光る。

 見つかった。

 早い。

 カイの喉が詰まる。

 どうする。

 逃げる?

 無理だ。負傷者がいる。

 隠れる?

 もう見られた。

 戦う?

 誰が? 俺? レベル二の粉挽きが?

 はい無理。次の案。

 魔獣騎兵が槍を下げる。

 突っ込んでくる。

 その進路上に、倒れた水樽があった。

 中身はほとんどこぼれているが、樽そのものはまだ形を保っている。

「ミロ!」

「なに!」

「あの樽、転がせるか!」

「できる!」

「今!」

 ミロが駆け出し、水樽に肩をぶつけた。

 樽が転がる。

 魔獣騎兵は避けようとする。

 その瞬間、カイはラッドに叫んだ。

「荷板、前!」

 ラッドともう一人が荷板を構える。

 魔獣の脚が樽を避けて横へ流れ、荷板にぶつかった。

 衝撃。

 二人が吹き飛びかける。

 だが、止まった。

 完全ではない。

 ほんの一瞬だけ。

 それで十分だった。


 白煙の向こうから、槍が伸びた。

 数本の槍が魔獣の進路を塞ぐ。

 トマだ。

「カイ!」

 トマの声。

 槍兵の残存隊が、荷車の向こう側から現れた。数は少ない。十数人。隊列は乱れている。だが槍は前を向いていた。

 トマが歯を食いしばりながら叫ぶ。

「こっちだ!」

「遅い!」

「助けに来てやったんだぞ!」

「じゃあ早く来いよ!」

「無茶言うな!」

 言い合っている場合じゃない。

 だが、言い合えた。

 トマが生きている。

 それだけで、カイの胸の奥の何かが少し緩んだ。

 魔獣騎兵は体勢を立て直そうとする。

 トマの槍兵隊は突くべきか迷っていた。

 早い。

 今突くと弾かれる。

 魔獣の前脚がまだ沈んでいない。

 半拍待て。

「トマ、まだ!」

 カイは叫んだ。

 トマが一瞬だけこちらを見る。

 信じるか。

 迷ったのは一瞬だった。

 トマは槍を止めた。

 魔獣が前脚を踏み込む。

 ぬかるみに沈む。

 今。

「三拍目!」

「突け!」

 トマの号令と、カイの声が重なった。

 槍が揃った。

 完全ではない。

 だが、揃った。

 数本の槍が魔獣の胸と脚の隙間に入り、騎兵の体勢を崩す。

 敵騎兵が落馬した。

 周囲の兵が歓声を上げかける。

「止まるな!」

 カイが叫んだ。

「敵は一騎じゃない!」

 その通りだった。

 白煙の向こうで、さらに蹄音が近づいている。

 トマの槍兵隊とカイたち補助兵が合流した。

 数は三十人ほど。

 指揮官はいない。

 隊列は半壊。

 負傷者もいる。

 敵騎兵はまだ来る。

 そして王国軍全体は、まだ混乱の中にある。

 カイは息を吸った。

 吸った息が震えていた。

 やばい。

 これはやばい。

 でも、さっきよりはマシだ。

 今は槍がある。荷板がある。弓兵はいない。いや、ユナはどこだ。弓兵隊は右翼だったはず。無事か。考えるな。今は目の前。


 トマがカイの肩を掴んだ。

「どうする」

「なんで俺に聞く」

「さっきからお前の言う通りにしたら死んでないから」

「それは……かなり説得力があるな」

 嬉しくない形の信頼だ。

 でも、信頼は信頼だ。

 カイは周囲を見た。

 槍兵十数人。補助兵十人。荷板三枚。転がせる水樽二つ。負傷者四人。使えそうな盾が五枚。魔石杭の残骸が一本。

 敵騎兵は白煙の向こうから二騎、いや三騎。

 正面から受けると潰される。

 逃げると背を撃たれる。

 なら、止めるのではなく、逸らす。

 水の流れを変えるみたいに。

「道を開ける」

 カイは言った。

 トマが目を見開く。

「開ける?」

「止めない。受けたら死ぬ。荷板で左へ流す。槍は真正面じゃなく脚の外側を狙え。倒すな、曲げろ」

「そんなのできるか?」

「できなきゃ死ぬ」

「分かりやすいな!」

「俺も今そう思った!」


 カイは補助兵たちに向き直った。

「荷板持ち、前! 槍兵の邪魔をするな。斜めに構えろ! 正面で受けるな、流せ!」

「流せって何だよ!」

「川だと思え!」

「馬鹿か!」

「俺もそう思うけど今は川だ!」

 言っていることがめちゃくちゃだ。

 だが、兵たちは動いた。

 ラッドが荷板を斜めに構える。

 ミロが水樽を右手に用意する。

 トマが槍兵を二列に分ける。

 カイは数えた。

「一、二、一、二……」

 蹄音が近づく。

 敵騎兵が白煙を割って現れる。

 黒い魔獣の突撃。

 恐怖で喉が閉まる。

 逃げたい。

 今すぐ逃げたい。

 だが足を動かすな。

 違う。足は動かせ。でも後ろじゃない。横だ。横へ流す。

「まだ……まだ……」

 トマが槍を構えている。

 ラッドの腕が震えている。

 ミロが樽を押す体勢に入る。

 敵騎兵の槍先が見える。

 近い。

 近すぎる。

 もう無理だろ、これ。

 いや、無理でもやる。


「今!」

 水樽が転がる。

 敵騎兵の進路がわずかにずれる。

 荷板が斜めに受ける。

 衝撃。

 ラッドが叫ぶ。

 槍兵が外側から突く。

 魔獣の脚が流れる。

 完全には止まらない。

 だが、突撃線が逸れた。

 一騎目が荷車の残骸へ突っ込み、横転する。

 二騎目は速度を落として回避。

 その瞬間、トマが踏み込んだ。

「突け!」

 槍が二騎目の横腹へ入る。

 敵騎兵が叫び、馬上から落ちる。

 三騎目は突撃を中止し、距離を取った。


 生き残った。

 カイは息を吐いた。

 吐いた瞬間、足から力が抜けそうになった。

 だが、倒れなかった。

 倒れたら格好悪い。いや、格好を気にしている場合ではない。でも、倒れたら皆も崩れる気がした。

 だから立っていた。

 無理やり。

 トマが肩で息をしながら笑った。

「お前、ほんとに粉挽きか?」

「今のところは」

「軍師じゃなくて?」

「軍師はもっと安全な場所にいるはずだろ。俺、めちゃくちゃ危険な場所にいる。だから違う」

「理屈がお前っぽいな」

 周囲の兵たちが、カイを見る目が変わっていた。

 怖がっている者。

 驚いている者。

 助かったと安堵している者。

 その視線が重い。

 やめてくれ。

 俺を見るな。

 俺だって分からない。

 ただ、音がズレてるから直しただけだ。

 直さないと壊れると思っただけだ。


 遠くで撤退の角笛が鳴った。

 今度ははっきりと、王国軍全体に響く音だった。

 撤退。

 ようやく。

 だが、遅い。

 左翼はすでに崩れ、中央も乱れ、敵の追撃は始まっている。

 カイは西の空を見た。

 白煙の向こう、王国軍の主旗はまだ立っている。

 しかしその周囲の音は、もう美しくなかった。

 乱れている。

 千切れている。

 軍が、壊れていく音だ。


「カイ」

 トマが言った。

「次はどっちだ」

 次。

 まだ続くのか。

 そうだ。続く。

 戦場は、一度助かっただけでは終わらない。

 カイは唇を噛んだ。

 怖い。

 でも、聞こえる。

 生き残れる流れと、死ぬ流れ。

 完全ではない。

 正しいかも分からない。

 でも、今この場で一番マシな音を探すしかない。

 カイは荷車の残骸を越え、白煙の薄い方を指差した。

「右後方。低地は駄目だ。煙が溜まってる。丘の影を通る」

「負傷者は?」

「連れていく」

「遅れるぞ」

「置いていったら、俺が後で眠れない」

「兵法書には何て?」

 トマの問いに、カイは少しだけ笑った。

「たぶん置いていけって書いてある」

「じゃあ?」

「今日は本を疑う日だ」

 トマは一瞬だけ目を丸くして、それから頷いた。

「分かった」

 カイは振り返った。

 補助兵、槍兵、負傷者。

 たった三十人ほど。

 軍と呼ぶには小さすぎる。

 部隊と呼ぶにも壊れすぎている。

 それでも、まだ人がいる。

 まだ息がある。

 まだ歩ける。

 カイは震える声を、できるだけ明るくした。

「よし。全員、聞け。これから俺たちは、由緒正しい王国軍の撤退路を無視して、たぶん怒られる道を行く」

 兵たちが呆然と見る。

「でも大丈夫。怒られるのは生きてからだ。死んだら怒られ損だからな」

 ラッドが、ほんの少し笑った。

 ミロも口元を歪めた。

 トマが槍を担ぎ直す。

 カイは頷いた。

「拍を合わせろ。走るな。誰かが転んだら二人で起こせ。太鼓は聞くな。今は俺が数える」

 言ってから、胸の奥が冷えた。

 俺が数える。

 それは、命令だった。

 カイは初めて、自分が人を動かしているのだと理解した。

 怖い。

 ものすごく怖い。

 自分の声で、人が生きるか死ぬか決まるかもしれない。

 そんなの、背負えるわけがない。

 でも、誰も数えなければ全員ばらばらに死ぬ。

 カイは息を吸った。

 白く焼けた左翼から、黒い煙が上がっている。

 兵法書の中の矢印は、もうどこにもなかった。

 ここにいるのは、泥と灰にまみれた人間だけだ。


 カイは足を踏み出し、声を出した。

「一、二。一、二」

 三十人ほどの足音が、それに続いた。

 小さく、頼りなく、今にも切れそうな流れ。

 けれど確かに、まだ繋がっていた。




 ==============================

 第四話 巻末資料

 治癒兵団記録:逆流傷と軍旗喪失


 分類:軍団チェーン反動事故

 通称:逆流傷


 概要:

 軍団チェーンの解鎖が敵側へ到達せず、自軍側へ反転・逆流した際に発生する損傷。

 通常の火傷や斬創と異なり、兵士の魔力循環そのものが内側から焼損する。


 主な症状:


 外傷に比べて強い内部損傷

 魔力酔い

 詠唱不能

 反応遅延

 部隊拍への拒絶反応

 軍旗や太鼓の音に対する恐怖

 長期的なチェーン接続障害


 治療難度:高

 治癒魔法効果:限定的

 精神的後遺症:高確率で発生


 関連現象:軍旗喪失

 軍旗は部隊の魔力循環を束ねる中継点である。

 軍旗が焼損・喪失した場合、該当部隊は部隊レベルを急落させ、命令伝達・士気・チェーン接続のすべてに著しい障害を受ける。


 治癒兵団所見:

 逆流傷の兵は、外見上軽傷に見えても急変する場合がある。

 特に「自分は無事だ」と言い張る兵ほど、後に循環崩壊を起こすことが多い。


 備考:

 白く焼けた左翼より搬送された兵の多くに、通常火傷ではなく逆流傷が確認された。


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