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連鎖の将器 〜無才の拍取りは万軍を繋ぐ〜  作者: 鷹山
第一部 無才の木札
3/6

第3話:大連鎖の音

 前線へ向かう馬車の列は、長かった。

 長い、という言葉では足りない。

 村の収穫祭の行列が、かわいらしい芋虫に見えるくらい長い。いや、芋虫に失礼かもしれない。芋虫はもっと目的を持って進んでいる。少なくとも、途中で「俺たちどこ行くんだろうな」みたいな顔はしていない。

 馬車、荷車、歩兵、槍兵、弓兵、治癒兵、工兵、補給隊。


 人間だけではない。

 尖った耳を持つエルフの弓兵が、荷車の屋根に腰掛けて静かに弦を張っていた。背の低いドワーフの工兵たちは、鉄の杭と魔石箱を積んだ荷車のそばを歩いている。獣人の斥候らしき兵は、列の脇を軽やかに駆けていた。耳がぴくぴく動いている。便利そうだな、あれ。俺も耳が動けば、危険察知能力が上がるかもしれない。いや、たぶん家族に気味悪がられるだけだ。

 カイは補充兵の一人として、荷車の後ろを歩いていた。

 首から下がる木札が、歩くたびに胸に当たる。

 レベル二。魔力低。固有スキルなし。歩兵補助。

 もう分かった。そんなに自己主張しなくていい。

 木札って、本当に性格が悪い。

 隣ではトマが槍を担いでいる。彼の木札には《槍列適応》の印があるため、前線の槍兵補充に回される予定だった。

 ユナは弓兵補助として少し後ろの列にいる。ときどきこちらを見ては、無表情に手を振ってくる。あれは励ましなのか、別れの挨拶なのか、判断に困る。できれば前者であってほしい。後者だったら縁起が悪い。


「なあ、カイ」

 トマが言った。

「ん?」

「前線って、どんな感じなんだろうな」

「本によると、まず地形を確認して、軍旗の配置を見て、兵科ごとの距離を測って、魔法兵団の詠唱陣を――」

「いや、そういうのじゃなくて」

「じゃあ何」

「怖いのかなって」

 カイは一瞬、足を止めそうになった。

 トマは前を向いたまま、軽い調子で言った。だが、その手は槍の柄を少し強く握っていた。

 怖い。

 その言葉を、トマが言った。

 カイは少し驚いた。

 トマは明るい。背が高い。腕も立つ。スキルも出た。村の若者たちの中では、いかにも兵士に向いているように見えた。

 でも、怖いのか。

 そりゃそうだ。

 怖いに決まっている。

 むしろ怖くない奴の方がおかしい。

 カイは口を開いた。

「怖いだろ」

「だよな」

「俺なんか、昨日からずっと怖い。怖すぎて逆に元気。人間、一定以上怖いと喋る量が増えるらしい」

「それは元からだろ」

「否定しきれない」

 トマが少し笑った。

 カイも笑った。

 笑えるなら、まだ大丈夫。

 そう思った。


 前線に近づくにつれ、道は荒れていった。

 最初は整えられた街道だった。やがて石畳が途切れ、土の道になる。荷車の轍が深く刻まれ、雨の跡が泥になって残っている。

 道の脇には、折れた槍や壊れた車輪が転がっていた。

 戦場が近いのだと、それだけで分かった。


 昼過ぎ、遠くに白い天幕群が見えてきた。

 前線野営地。

 カイは思わず息を呑んだ。

 大きい。

 村が丸ごといくつも入りそうな規模だった。

 天幕が区画ごとに並び、その間を兵士が行き交っている。軍旗が何十本も立ち、色と紋章で部隊を示している。中央にはひときわ高い旗。王国軍西部方面軍の主旗だ。

 そして、その周囲に魔力が流れている。

 見えるわけではない。

 けれど、感じる。

 空気の奥に、低い唸りがある。

 水車小屋で川の水量が増えた時のような圧。

 いや、もっと大きい。

 水車どころではない。

 川そのものが、巨大な歯車になって回っているみたいだった。

「すげえ……」

 トマが呟いた。

 カイも同じことを言いかけた。

 だが口から出たのは、別の言葉だった。

「でかすぎる」

「え?」

「いや、すごいって意味」

 ごまかした。

 でも、本当は少し違う。

 すごい。

 確かにすごい。

 でも同時に、怖い。

 これだけ大きなものが動いたら、どこか一つの歯車が欠けただけで、どれだけのものが巻き込まれるのだろう。

 そんなことを考えてしまった。

 暗い。

 初めて本物の軍を見た感想がそれか、カイ。もう少し感動しろ。ほら、軍旗! 魔法兵! 竜騎兵! あ、竜騎兵はまだ見てない。見たい。ちょっと見たい。いや、かなり見たい。


 補充兵たちは、野営地の外れにある仮設広場へ集められた。

 そこで配属が告げられる。

「トマ・ハルド。第三槍兵補充隊」

「はい!」

 トマが前に出た。

「ユナ・セイル。第六弓兵補助隊」

「はい」

 ユナは淡々と答えた。

「カイ・リンド。第七歩兵補充隊、予備線補助」

「はい」

 予備線補助。

 相変わらず安全そうな言葉だ。

 後ろ。予備。補助。

 この三つが揃って危険だったら、もう言葉を信じられない。いや、すでにあまり信じていないけど。


 補充兵たちは、それぞれの部隊へ連れていかれた。

 カイの配属先は、前線主力のさらに後ろに置かれる予備線だった。主に、前線の穴埋め、負傷者搬送、簡易防壁の運搬、場合によっては槍兵や盾兵の後詰めをする。

 つまり、何でも屋。

 もっと悪く言えば、便利な隙間埋め。

 粉挽きから隙間埋めへ。成長しているのか、これは。

 野営地の中を歩きながら、カイは周囲を見回した。


 まず目についたのは盾兵隊だった。

 分厚い盾を並べ、横列を作っている。訓練用の木盾ではない。本物の鉄縁盾。盾の表面には術式が刻まれ、兵士たちが同じ姿勢で構えると、盾同士の間に淡い光が走った。

 《盾列共鳴》。

 兵法書で読んだ部隊スキル。

 個々の盾兵の魔力循環を、盾と盾の間で横につなぐ。成功すれば、ただの盾列が一枚の壁になる。

 カイは胸が熱くなった。

 ほんとにある。

 本当に繋がってる。

 いや、感動している場合じゃない。歩け。列から遅れるな。ほら、今ちょっと足が止まったぞ。完全に観光客だ。戦場観光客。最悪の職業だ。


 次に見えたのはドワーフ工兵たちだった。

 彼らは地面に鉄杭を打ち込んでいる。杭の頭には青い魔石が埋め込まれ、打ち込まれるたびに地面へ薄い光が広がった。

 魔石杭。

 軍団チェーンの反動を地脈へ逃がすための装置。

 グレンから借りた戦記にも何度も出てきた。湿地では効きが悪くなる。岩盤なら強い。砂地では反動が散りすぎる。

 今日の地面はどうだ?

 カイは足元を見た。

 少し湿っている。

 昨日か今朝、雨が降ったのかもしれない。

 魔石杭は大丈夫なのか。

 いや、俺が心配することじゃない。ドワーフ工兵の専門だ。俺はただの予備線補助。黙ってろ、カイ。専門家に任せろ。

 でも、気になる。

 すごく気になる。


 さらに進むと、エルフ弓兵の訓練場があった。

 彼らは普通の弓兵とは違う。一本一本の矢に薄い魔力をまとわせ、風の流れに乗せて飛ばす。標的に刺さる前、矢がわずかに曲がった。

 地形の魔力脈を読んでいる。

 美しい。

 正直に言うと、かなり格好いい。

 あれは反則だろ。弓が曲がるのはずるい。いや、剣から火が出る世界で何を今さら言っているんだ俺は。

 野営地の奥から、低い詠唱が聞こえてきた。

 魔法兵団だった。

 数百人が等間隔に並び、同じ術式を唱えている。彼らの足元には巨大な魔法陣。軍旗が陣の中心に立ち、詠唱のたびに旗布が光を帯びる。

 声が重なる。

 ひとつの声ではない。

 だが、全体として一つの流れになる。

 カイの胸の奥で、細い糸が震えた。

 これが《詠唱斉奏》。

 個人では扱えない大規模術式を、部隊レベルで成立させる技術。

 魔法兵団の詠唱は、戦場の心臓だ。

 カイはしばらく聞き入った。

 低音。中音。高音。

 声が層になっている。

 水車と石臼と粉落としが、別々の音を出しながら一つの仕事をしているのと似ている。

 似ている?

 いや、規模が違いすぎる。俺の実家、急に比較対象にされて困っているだろうな。ごめん、父さん。うちの水車と王国魔法兵団を並べてしまった。

 その時、風が変わった。

 詠唱の高音部が、ほんの少し流された。

 カイの眉が動く。

 半拍、遅れたように聞こえた。

 いや、気のせいか。

 今のは風だ。

 魔法兵団だって当然想定している。結界もある。軍楽隊もいる。

 俺が気にすることではない。

 でも。

 あの高音、少しだけ濁った。

「おい、補充兵。止まるな」

 先導の兵に怒鳴られた。

「す、すみません」

 カイは慌てて歩き出した。

 考えすぎだ。

 本当に考えすぎ。

 訓練場の火花事故で少し敏感になっているだけだ。そうに決まっている。俺は臆病。はい、解決。臆病で説明できることは全部臆病のせいにしよう。便利だな、臆病。


 夕方、補充兵たちは自分たちの区画で休息を与えられた。

 夕食は硬いパン、塩漬け肉、薄い麦粥。

 豆がない。

 カイは少し感動した。

 豆がないだけで、人生はこんなに明るくなるのか。

 いや、豆に失礼か。豆も悪くない。ただ連日だと敵に見えてくるだけだ。

 トマが槍兵区画から顔を出した。

「カイ!」

「お、生きてた」

「まだ一日も経ってないだろ」

「戦場では一日が長いって本に書いてあった」

「本、本、本」

「俺の構成成分だからな。水、粉、本」

 トマは笑いながら腰を下ろした。

 少し疲れているようだったが、目は輝いていた。

「すごいぞ、槍兵隊。横に並ぶだけで、腕の動きが合うんだ。俺のスキルも反応してる。なんか、列に入ると体が勝手に拍を取る」

「《槍列適応》か」

「たぶん。隊長にも悪くないって言われた」

「よかったじゃん」

「お前は?」

「予備線補助」

「何するんだ?」

「何でもするらしい。つまり、何をするのか誰も分かってない」

「便利だな」

「便利って言葉で誤魔化すな」


 ユナもやってきた。

 彼女は弓の手入れをしながら座った。

「明日、会戦らしい」

 その一言で、空気が変わった。

 トマの笑顔が少し固まる。

 カイはパンを持った手を止めた。

「明日?」

「第六弓兵隊の副長が言ってた。敵の本隊が近い。王国軍は明朝、新型の軍団チェーンで敵中央を割るって」

「新型?」

「多種族混成の七段連鎖だって。獣人斥候、盾兵、弓兵、工兵、魔法兵、竜騎兵、決戦術式」

 カイの胸が跳ねた。

 七段連鎖。

 兵法書で読んだことはある。

 だが、それは大国同士の決戦で使われる規模だ。

 まさか初陣で見ることになるとは。

 見たい。

 正直、見たい。

 でも、見たくない。

 この二つが同時にある。

 だから人間は面倒だ。もう本当に面倒。

「竜騎兵も出るのか」

 トマが言った。

「見た?」

 カイが聞くと、ユナは頷いた。

「西の区画にいる。近づくなって言われた。竜の魔力循環が強すぎて、普通の兵が近づくと酔うらしい」

「竜酔いか」

「何それ」

「今作った」

「作るな」

 ユナは弓弦を指で弾いた。

 細い音が鳴る。

 カイの胸の奥の糸が、少しだけそれに反応した。

 ユナがこちらを見た。

「カイ」

「ん?」

「顔、変」

「生まれつき?」

「そういう意味じゃない」

「よかった。いや、よくはないけど」

 ユナは少し眉をひそめた。

「また何か気づいた?」

 トマもこちらを見る。

 カイは言葉に詰まった。

 気づいた、というほどではない。

 ただ、魔法兵団の詠唱が少し濁った気がした。魔石杭の地面が湿っていた。風が変わっていた。盾兵の訓練場の南側はぬかるんでいた。

 一つ一つは小さい。

 小さいのだ。

 新兵の自分が口にするようなことではない。

「いや……明日、雨の後の地面で大連鎖って大丈夫なのかなって」

 トマが首を傾げた。

「大丈夫だろ。ドワーフ工兵もいるし」

「そうだよな」

 ユナがじっと見てくる。

「本当は?」

「本当も何も、俺はただの補助兵。軍の上の人たちが考えてるだろ」

「それ、答えになってない」

 鋭い。

 弓兵だからか? いや関係ないか。

 カイは笑った。

「大丈夫。俺の心配はだいたい過剰。村でもよく言われた。石臼がちょっと鳴っただけで大騒ぎするなって」

「それで?」

「だいたい本当に小石が噛んでた」

「だめじゃん」

「だから困ってる」

 三人は少し黙った。


 遠くで軍楽隊の太鼓が鳴っている。

 明日の拍を合わせるための練習だろう。

 どん。どん。どん。

 規則正しい。

 なのに、カイの耳には少し重く聞こえた。

 夜になっても、野営地は完全には静まらなかった。

 鍛冶場の槌音。馬の嘶き。竜らしき低い唸り。魔法兵団の最終調整。治癒兵たちが薬草を煮る匂い。

 カイは寝袋に入ったが、眠れなかった。

 明日、会戦。

 初陣。

 しかも、新型の七段軍団チェーン。

 兵法書の中なら、胸が躍る場面だ。

 だが今は、胃が重い。

 自分が参加する側になると、こんなに違うのか。

 当たり前だ。

 馬鹿か、俺は。

 当たり前だろ。

 誰だよ、戦場を見たいとか言ってた奴。俺だよ。ぶん殴りたい。過去の自分を呼べ。いや、呼んだら一緒に怯えるだけかもしれない。役に立たないな、過去の俺。


 カイは鞄から『第五連鎖崩壊記録』を取り出した。

 もう何度も読んだ箇所を開く。

 ――湿地における魔石杭の沈下は、解鎖反動の逃げ道を歪める。

 ――左翼の遅延は中央解鎖の成功率に直接影響する。

 ――軍楽拍の乱れは、詠唱斉奏に遅延を生む。

 カイは指で文字をなぞった。

 湿地。

 遅延。

 拍の乱れ。

 明日の戦場にも、似た条件がある。

 いや、だから何だ。

 王国軍には専門家がいる。

 工兵も、魔法士官も、軍才持ちの指揮官もいる。

 平民の補助兵が、古い敗戦記録を読んだからといって何ができる。

 何もできない。

 何もできない、はずだ。

 カイは本を閉じた。

「寝ろ、俺」

 小声で言った。

「明日寝不足で死んだら、死因が恥ずかしいぞ。戦場以前に自己管理不足。グレン爺に笑われる。いや、笑わないか。怒るか。どっちも嫌だ」

 目を閉じる。

 太鼓の音がまだ聞こえる。

 どん。どん。どん。

 その合間に、微かな軋みが混じっているような気がした。


 翌朝、霧が出ていた。

 薄い白い霧が、戦場予定地の草原にかかっている。太陽はまだ低く、空は淡い金色だった。

 王国軍はすでに動き始めていた。

 カイたち予備線補助は、主力の後方に配置される。

 前方には盾兵隊。さらにその後ろに槍兵隊。左右には弓兵と獣人斥候。後方中央に魔法兵団。少し離れた高地に竜騎兵。工兵たちは夜のうちに魔石杭を打ち終え、地面には青い術式線が走っている。

 軍旗が上がる。

 王国軍の主旗。

 その下で、総指揮官の号令が響いた。

 遠くて言葉までは聞こえない。

 だが、軍陣循環が動き出すのをカイは感じた。

 大きな流れ。

 村の川ではない。

 水路でもない。

 大河だ。

 何万もの魔力循環が、軍旗と太鼓と号令に導かれ、一つの方向へ流れ始める。

 カイは震えた。

 怖いのか。

 感動しているのか。

 分からない。

 たぶん両方だ。


「始まるぞ」

 隣の補助兵が呟いた。

 カイは前を見た。

 敵軍は霧の向こうにいた。

 黒と銀の軍旗。隣国ヴァルム連合軍。人間兵に加え、魔族傭兵もいるという話だった。

 敵も軍陣循環を持っている。

 霧の向こうで、黒い流れがうねっている。

 王国軍の太鼓が鳴った。


 第一拍。

 獣人斥候が走る。

 草原を斜めに切り、敵前衛を挑発する。速い。まるで風だ。敵が反応し、前列がわずかに乱れる。

 始鎖。


 第二拍。

 弓兵隊が斉射する。

 矢が空を覆い、敵の進路を縫い止める。エルフ弓兵の矢は霧の中で光り、敵結界の端をかすめていく。

 接続。


 第三拍。

 盾兵隊が前進する。

 盾が横に並び、淡い光が壁になる。《盾列共鳴》だ。敵の反撃を受け止め、前線を固定する。

 カイの胸が熱くなる。

 すごい。

 これが軍団チェーン。

 美しい。

 水が流れ、歯車が噛み合い、石臼が回る。

 すべてが順番通り。

 けれど。

 カイの耳に、ほんのわずかな濁りが入った。

 左翼。

 左翼の盾列が、遅い。

 ぬかるみだ。

 前夜の雨と霧で、左翼側の地面が重くなっている。

 半拍。

 いや、四分の一拍。

 小さい。

 小さすぎる。

 でも、ずれている。


 第四拍。

 ドワーフ工兵の魔石杭が青く光る。

 地面に反動逃がしの術式が広がる。

 しかし、左翼側の杭の光が少し沈んだ。

 湿っている。

 地脈に抜けきっていない。

 カイの喉が乾いた。


 第五拍。

 魔法兵団の詠唱が始まる。

 低音が地を震わせる。中音が空気を満たす。高音が術式を結ぶ。

 その高音が、風で流れた。

 昨日と同じだ。

 いや、昨日より悪い。

 霧の湿り気が、詠唱の伝播を重くしている。

 カイの胸の奥で、糸が強く震えた。

 嫌な音。

 壊れる前の音。

 周囲の兵たちは興奮している。

「いけるぞ!」

「敵中央が押されてる!」

「大連鎖だ!」

 誰かが勝利を叫んだ。

 まだ早い。

 まだ解鎖していない。

 カイは前方を見た。

 トマの槍兵隊は、中央寄りの第二線にいるはずだ。

 ユナの弓兵隊は右翼側。

 自分は予備線。

 位置は後ろ。

 安全なはず。

 安全、なはず。


 第六拍。

 竜騎兵が動いた。

 高地から、巨大な影が一つ舞い上がる。

 本物の竜だった。

 大きい。

 翼が空を切るたび、周囲の魔力が震える。竜の背には鎧を着た騎兵。槍の先に赤い光が灯っている。

 兵たちが歓声を上げる。

 竜騎兵。

 王国の切り札。

 その魔力が、中央のチェーンに接続される。

 瞬間、カイは顔をしかめた。

 強すぎる。

 竜の魔力循環が、周囲の流れを押し潰している。

 魔法兵団の詠唱が、それを受け止めようと軋む。

 左翼の遅れ。

 魔石杭の沈み。

 詠唱の濁り。

 竜の過剰な魔力。

 一つ一つは、たぶん調整可能な範囲だ。

 だが、繋がっている。

 全部が一本の鎖に乗っている。

 このまま第七拍で解鎖したら――。

 カイは息を止めた。

 見えた、わけではない。

 でも分かった。

 敵中央に向かうはずの解鎖が、左翼側の歪みに引かれる。

 反動の逃げ道が湿地で詰まり、魔法兵団の高音部が遅れ、竜の魔力が上から圧をかける。

 そして。

 自軍左翼に返る。


 カイの手が震えた。

 違う。

 これは違う。

 これは勝利の音じゃない。

 壊れる音だ。

「上官に言え」

 カイは自分に言った。

 声には出ていない。

 いや、出せ。

 言え。

 今言え。

 でも、誰に?

 予備線の小隊長か?

 新兵の自分が?

 何と言う?

「音が変です」?

 馬鹿か。いや、でも言え。言わないと。

 カイは近くにいた小隊長に駆け寄った。

「小隊長!」

「あ? 何だ!」

「左翼の反動が詰まってます。このまま解鎖すると、予備線まで返るかもしれません」

 小隊長は一瞬、意味が分からないという顔をした。

 それから怒鳴った。

「持ち場に戻れ!」

「でも――」

「貴様、軍才持ちか? 魔法士官か? 工兵か?」

「違います、けど」

「なら黙って命令を待て! 戦場で新兵が勝手に騒ぐな!」

 正しい。

 小隊長は正しい。

 軍は命令で動く。

 新兵が勝手なことを言えば混乱する。

 分かっている。

 分かっているけど。

 音が、ひどくなっている。


 第七拍が近い。

 魔法兵団の詠唱が頂点へ向かう。

 竜騎兵が敵中央へ降下する。

 王国軍の兵たちが歓声を上げる。

 敵中央が揺らいでいる。

 勝てる。

 誰もがそう思っている。

 カイだけが、一歩後ずさった。

 周囲の兵が怪訝そうに見る。

「おい、何してる」

 隣の若い補助兵が言った。名前はたしかラッド。昨日、故郷に婚約者がいると話していた。もう一人、隣にいるのはミロ。豆が嫌いだと言っていた。いい奴だ。豆嫌いに悪い奴はいない。いや、いるかもしれない。今はどうでもいい。

 カイは二人を見た。

 そして、自分でも驚くほど低い声で言った。

「三歩下がれ」

「は?」

「今すぐ。三歩だけでいい」

「命令違反だぞ」

「命令より先に鎖が切れる」

 自分で言って、ぞっとした。

 何だ今の言い方。

 誰だよ。

 でも時間がない。

 カイはラッドの腕を掴み、無理やり後ろへ引いた。

「来い!」

「お、おい!」

 ミロもつられて下がる。近くにいた数人が、何事かと振り返る。

 小隊長が怒鳴る。

「戻れ!」

 その瞬間。


 第七拍。

 王国軍の大連鎖が解鎖された。

 空が白く光った。

 竜騎兵の槍が敵中央へ突き下ろされ、魔法兵団の第五階梯術式がそれに重なる。盾兵、弓兵、工兵、魔法兵、竜騎兵。すべての流れが一本になり、敵軍へ向かって弾ける。

 はずだった。

 光は、途中で歪んだ。

 敵中央へ伸びる白い鎖が、左へ引かれる。

 まるで、見えない手に掴まれたように。

 カイの耳に、嫌な音が響いた。

 水車の軸が折れる音。

 石臼が割れる音。

 軍という巨大な歯車が、内側から砕ける音。

 次の瞬間、左翼の空が白く燃えた。

 轟音。

 熱風。

 悲鳴。


 カイは吹き飛ばされた。

 地面に叩きつけられ、息が止まる。

 耳が聞こえない。

 いや、聞こえている。

 遠い。

 水の中にいるみたいだ。

 カイは咳き込みながら顔を上げた。

 さっきまで自分たちがいた場所の前方が、白い煙に包まれている。

 予備線の端が焼けていた。

 完全な直撃ではない。

 だが、反動の一部が確かに返った。

 ラッドが隣で震えている。

 ミロは尻餅をついたまま、口をぱくぱくさせている。

 三歩。

 三歩下がっただけ。

 それだけで、直撃を外れた。

 カイは自分の手を見た。

 震えている。

 ひどく震えている。

 当たった。

 また当たった。

 嫌だ。

 当たってほしくなかった。

「カイ……」

 ラッドが呟いた。

「なんで……」

 知らない。

 知らないよ。

 俺が聞きたい。

 カイは答えられなかった。


 前方では怒号が飛び交っている。

 左翼が崩れた。

 魔法兵団の詠唱が乱れている。

 竜騎兵が旋回できずに高度を落としている。

 敵軍の黒い旗が、霧の向こうで揺れた。

 今度は敵の太鼓が鳴る。

 低く、重く、正確な拍。

 カイの胸の奥の糸が、冷たく震えた。

 敵が来る。

 王国軍のチェーンは失敗した。

 そして敵は、その失敗を待っていた。

 カイは立ち上がろうとして、膝をついた。

 怖い。

 怖い怖い怖い。

 でも、ここで座っていたら死ぬ。

 笑え。

 いや、笑えるかこんな状況で。

 無理だ。

 でも喋れ。

 黙るな。

 カイは乾いた口を無理やり開いた。

「……なあ、三歩で済んだの、すごくない?」

 ラッドが呆然とこちらを見る。

 ミロも見る。

 カイは引きつった笑みを浮かべた。

「次は、十歩くらい下がろう。たぶんその方が長生きできる」

 声は震えていた。

 笑顔もひどかったと思う。

 でも、二人の目に少しだけ光が戻った。

 カイは前を見た。

 戦場は、兵法書の図とは違った。

 矢印は叫ぶ。

 数字は血を流す。

 そして鎖は、美しく繋がるだけではない。

 壊れる。

 巻き込む。

 焼く。

 カイはその音を、確かに聞いてしまった。




==============================


 第三話 巻末資料

 王国軍教範抜粋:七段大連鎖


 分類:大規模軍団チェーン

 使用条件:正規軍複数兵科、魔法兵団、工兵隊、軍旗、太鼓、反動制御杭の完全同期

 推奨規模:一万以上の正規兵を含む会戦規模


 基本構成:


 1. 獣人斥候による始鎖

 敵前衛を揺らし、初期反応を誘発する。

 2. 弓兵による拘束

 敵の移動経路を制限し、防御方向を固定する。

 3. 盾兵による前線固定

 敵圧を受け止め、軍陣循環の基礎を作る。

 4. 工兵隊による反動逃がし

 魔石杭により地脈へ反動を流す。

 5. 魔法兵団による詠唱斉奏

 大規模術式を軍団単位で成立させる。

 6. 竜騎兵による高圧接続

 圧倒的魔力を一点に加え、敵陣を裂く。

 7. 決戦術式による解鎖

 蓄積された連鎖圧を敵中央へ叩き込む。


 利点:

 成功時、敵中央の結界・士気・部隊レベルを同時に破壊可能。

 会戦における決定打となる。


 危険性:

 長大なチェーンは、一箇所の遅延・沈下・詠唱濁りによって全体に歪みを生じる。

 特に解鎖直前の干渉、地脈不安定、竜騎兵の魔力過多には注意が必要。


 教範注記:

 大連鎖は、長く繋がるほど美しい。

 だが、美しさは安全性の証明ではない。


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