第3話:大連鎖の音
前線へ向かう馬車の列は、長かった。
長い、という言葉では足りない。
村の収穫祭の行列が、かわいらしい芋虫に見えるくらい長い。いや、芋虫に失礼かもしれない。芋虫はもっと目的を持って進んでいる。少なくとも、途中で「俺たちどこ行くんだろうな」みたいな顔はしていない。
馬車、荷車、歩兵、槍兵、弓兵、治癒兵、工兵、補給隊。
人間だけではない。
尖った耳を持つエルフの弓兵が、荷車の屋根に腰掛けて静かに弦を張っていた。背の低いドワーフの工兵たちは、鉄の杭と魔石箱を積んだ荷車のそばを歩いている。獣人の斥候らしき兵は、列の脇を軽やかに駆けていた。耳がぴくぴく動いている。便利そうだな、あれ。俺も耳が動けば、危険察知能力が上がるかもしれない。いや、たぶん家族に気味悪がられるだけだ。
カイは補充兵の一人として、荷車の後ろを歩いていた。
首から下がる木札が、歩くたびに胸に当たる。
レベル二。魔力低。固有スキルなし。歩兵補助。
もう分かった。そんなに自己主張しなくていい。
木札って、本当に性格が悪い。
隣ではトマが槍を担いでいる。彼の木札には《槍列適応》の印があるため、前線の槍兵補充に回される予定だった。
ユナは弓兵補助として少し後ろの列にいる。ときどきこちらを見ては、無表情に手を振ってくる。あれは励ましなのか、別れの挨拶なのか、判断に困る。できれば前者であってほしい。後者だったら縁起が悪い。
「なあ、カイ」
トマが言った。
「ん?」
「前線って、どんな感じなんだろうな」
「本によると、まず地形を確認して、軍旗の配置を見て、兵科ごとの距離を測って、魔法兵団の詠唱陣を――」
「いや、そういうのじゃなくて」
「じゃあ何」
「怖いのかなって」
カイは一瞬、足を止めそうになった。
トマは前を向いたまま、軽い調子で言った。だが、その手は槍の柄を少し強く握っていた。
怖い。
その言葉を、トマが言った。
カイは少し驚いた。
トマは明るい。背が高い。腕も立つ。スキルも出た。村の若者たちの中では、いかにも兵士に向いているように見えた。
でも、怖いのか。
そりゃそうだ。
怖いに決まっている。
むしろ怖くない奴の方がおかしい。
カイは口を開いた。
「怖いだろ」
「だよな」
「俺なんか、昨日からずっと怖い。怖すぎて逆に元気。人間、一定以上怖いと喋る量が増えるらしい」
「それは元からだろ」
「否定しきれない」
トマが少し笑った。
カイも笑った。
笑えるなら、まだ大丈夫。
そう思った。
前線に近づくにつれ、道は荒れていった。
最初は整えられた街道だった。やがて石畳が途切れ、土の道になる。荷車の轍が深く刻まれ、雨の跡が泥になって残っている。
道の脇には、折れた槍や壊れた車輪が転がっていた。
戦場が近いのだと、それだけで分かった。
昼過ぎ、遠くに白い天幕群が見えてきた。
前線野営地。
カイは思わず息を呑んだ。
大きい。
村が丸ごといくつも入りそうな規模だった。
天幕が区画ごとに並び、その間を兵士が行き交っている。軍旗が何十本も立ち、色と紋章で部隊を示している。中央にはひときわ高い旗。王国軍西部方面軍の主旗だ。
そして、その周囲に魔力が流れている。
見えるわけではない。
けれど、感じる。
空気の奥に、低い唸りがある。
水車小屋で川の水量が増えた時のような圧。
いや、もっと大きい。
水車どころではない。
川そのものが、巨大な歯車になって回っているみたいだった。
「すげえ……」
トマが呟いた。
カイも同じことを言いかけた。
だが口から出たのは、別の言葉だった。
「でかすぎる」
「え?」
「いや、すごいって意味」
ごまかした。
でも、本当は少し違う。
すごい。
確かにすごい。
でも同時に、怖い。
これだけ大きなものが動いたら、どこか一つの歯車が欠けただけで、どれだけのものが巻き込まれるのだろう。
そんなことを考えてしまった。
暗い。
初めて本物の軍を見た感想がそれか、カイ。もう少し感動しろ。ほら、軍旗! 魔法兵! 竜騎兵! あ、竜騎兵はまだ見てない。見たい。ちょっと見たい。いや、かなり見たい。
補充兵たちは、野営地の外れにある仮設広場へ集められた。
そこで配属が告げられる。
「トマ・ハルド。第三槍兵補充隊」
「はい!」
トマが前に出た。
「ユナ・セイル。第六弓兵補助隊」
「はい」
ユナは淡々と答えた。
「カイ・リンド。第七歩兵補充隊、予備線補助」
「はい」
予備線補助。
相変わらず安全そうな言葉だ。
後ろ。予備。補助。
この三つが揃って危険だったら、もう言葉を信じられない。いや、すでにあまり信じていないけど。
補充兵たちは、それぞれの部隊へ連れていかれた。
カイの配属先は、前線主力のさらに後ろに置かれる予備線だった。主に、前線の穴埋め、負傷者搬送、簡易防壁の運搬、場合によっては槍兵や盾兵の後詰めをする。
つまり、何でも屋。
もっと悪く言えば、便利な隙間埋め。
粉挽きから隙間埋めへ。成長しているのか、これは。
野営地の中を歩きながら、カイは周囲を見回した。
まず目についたのは盾兵隊だった。
分厚い盾を並べ、横列を作っている。訓練用の木盾ではない。本物の鉄縁盾。盾の表面には術式が刻まれ、兵士たちが同じ姿勢で構えると、盾同士の間に淡い光が走った。
《盾列共鳴》。
兵法書で読んだ部隊スキル。
個々の盾兵の魔力循環を、盾と盾の間で横につなぐ。成功すれば、ただの盾列が一枚の壁になる。
カイは胸が熱くなった。
ほんとにある。
本当に繋がってる。
いや、感動している場合じゃない。歩け。列から遅れるな。ほら、今ちょっと足が止まったぞ。完全に観光客だ。戦場観光客。最悪の職業だ。
次に見えたのはドワーフ工兵たちだった。
彼らは地面に鉄杭を打ち込んでいる。杭の頭には青い魔石が埋め込まれ、打ち込まれるたびに地面へ薄い光が広がった。
魔石杭。
軍団チェーンの反動を地脈へ逃がすための装置。
グレンから借りた戦記にも何度も出てきた。湿地では効きが悪くなる。岩盤なら強い。砂地では反動が散りすぎる。
今日の地面はどうだ?
カイは足元を見た。
少し湿っている。
昨日か今朝、雨が降ったのかもしれない。
魔石杭は大丈夫なのか。
いや、俺が心配することじゃない。ドワーフ工兵の専門だ。俺はただの予備線補助。黙ってろ、カイ。専門家に任せろ。
でも、気になる。
すごく気になる。
さらに進むと、エルフ弓兵の訓練場があった。
彼らは普通の弓兵とは違う。一本一本の矢に薄い魔力をまとわせ、風の流れに乗せて飛ばす。標的に刺さる前、矢がわずかに曲がった。
地形の魔力脈を読んでいる。
美しい。
正直に言うと、かなり格好いい。
あれは反則だろ。弓が曲がるのはずるい。いや、剣から火が出る世界で何を今さら言っているんだ俺は。
野営地の奥から、低い詠唱が聞こえてきた。
魔法兵団だった。
数百人が等間隔に並び、同じ術式を唱えている。彼らの足元には巨大な魔法陣。軍旗が陣の中心に立ち、詠唱のたびに旗布が光を帯びる。
声が重なる。
ひとつの声ではない。
だが、全体として一つの流れになる。
カイの胸の奥で、細い糸が震えた。
これが《詠唱斉奏》。
個人では扱えない大規模術式を、部隊レベルで成立させる技術。
魔法兵団の詠唱は、戦場の心臓だ。
カイはしばらく聞き入った。
低音。中音。高音。
声が層になっている。
水車と石臼と粉落としが、別々の音を出しながら一つの仕事をしているのと似ている。
似ている?
いや、規模が違いすぎる。俺の実家、急に比較対象にされて困っているだろうな。ごめん、父さん。うちの水車と王国魔法兵団を並べてしまった。
その時、風が変わった。
詠唱の高音部が、ほんの少し流された。
カイの眉が動く。
半拍、遅れたように聞こえた。
いや、気のせいか。
今のは風だ。
魔法兵団だって当然想定している。結界もある。軍楽隊もいる。
俺が気にすることではない。
でも。
あの高音、少しだけ濁った。
「おい、補充兵。止まるな」
先導の兵に怒鳴られた。
「す、すみません」
カイは慌てて歩き出した。
考えすぎだ。
本当に考えすぎ。
訓練場の火花事故で少し敏感になっているだけだ。そうに決まっている。俺は臆病。はい、解決。臆病で説明できることは全部臆病のせいにしよう。便利だな、臆病。
夕方、補充兵たちは自分たちの区画で休息を与えられた。
夕食は硬いパン、塩漬け肉、薄い麦粥。
豆がない。
カイは少し感動した。
豆がないだけで、人生はこんなに明るくなるのか。
いや、豆に失礼か。豆も悪くない。ただ連日だと敵に見えてくるだけだ。
トマが槍兵区画から顔を出した。
「カイ!」
「お、生きてた」
「まだ一日も経ってないだろ」
「戦場では一日が長いって本に書いてあった」
「本、本、本」
「俺の構成成分だからな。水、粉、本」
トマは笑いながら腰を下ろした。
少し疲れているようだったが、目は輝いていた。
「すごいぞ、槍兵隊。横に並ぶだけで、腕の動きが合うんだ。俺のスキルも反応してる。なんか、列に入ると体が勝手に拍を取る」
「《槍列適応》か」
「たぶん。隊長にも悪くないって言われた」
「よかったじゃん」
「お前は?」
「予備線補助」
「何するんだ?」
「何でもするらしい。つまり、何をするのか誰も分かってない」
「便利だな」
「便利って言葉で誤魔化すな」
ユナもやってきた。
彼女は弓の手入れをしながら座った。
「明日、会戦らしい」
その一言で、空気が変わった。
トマの笑顔が少し固まる。
カイはパンを持った手を止めた。
「明日?」
「第六弓兵隊の副長が言ってた。敵の本隊が近い。王国軍は明朝、新型の軍団チェーンで敵中央を割るって」
「新型?」
「多種族混成の七段連鎖だって。獣人斥候、盾兵、弓兵、工兵、魔法兵、竜騎兵、決戦術式」
カイの胸が跳ねた。
七段連鎖。
兵法書で読んだことはある。
だが、それは大国同士の決戦で使われる規模だ。
まさか初陣で見ることになるとは。
見たい。
正直、見たい。
でも、見たくない。
この二つが同時にある。
だから人間は面倒だ。もう本当に面倒。
「竜騎兵も出るのか」
トマが言った。
「見た?」
カイが聞くと、ユナは頷いた。
「西の区画にいる。近づくなって言われた。竜の魔力循環が強すぎて、普通の兵が近づくと酔うらしい」
「竜酔いか」
「何それ」
「今作った」
「作るな」
ユナは弓弦を指で弾いた。
細い音が鳴る。
カイの胸の奥の糸が、少しだけそれに反応した。
ユナがこちらを見た。
「カイ」
「ん?」
「顔、変」
「生まれつき?」
「そういう意味じゃない」
「よかった。いや、よくはないけど」
ユナは少し眉をひそめた。
「また何か気づいた?」
トマもこちらを見る。
カイは言葉に詰まった。
気づいた、というほどではない。
ただ、魔法兵団の詠唱が少し濁った気がした。魔石杭の地面が湿っていた。風が変わっていた。盾兵の訓練場の南側はぬかるんでいた。
一つ一つは小さい。
小さいのだ。
新兵の自分が口にするようなことではない。
「いや……明日、雨の後の地面で大連鎖って大丈夫なのかなって」
トマが首を傾げた。
「大丈夫だろ。ドワーフ工兵もいるし」
「そうだよな」
ユナがじっと見てくる。
「本当は?」
「本当も何も、俺はただの補助兵。軍の上の人たちが考えてるだろ」
「それ、答えになってない」
鋭い。
弓兵だからか? いや関係ないか。
カイは笑った。
「大丈夫。俺の心配はだいたい過剰。村でもよく言われた。石臼がちょっと鳴っただけで大騒ぎするなって」
「それで?」
「だいたい本当に小石が噛んでた」
「だめじゃん」
「だから困ってる」
三人は少し黙った。
遠くで軍楽隊の太鼓が鳴っている。
明日の拍を合わせるための練習だろう。
どん。どん。どん。
規則正しい。
なのに、カイの耳には少し重く聞こえた。
夜になっても、野営地は完全には静まらなかった。
鍛冶場の槌音。馬の嘶き。竜らしき低い唸り。魔法兵団の最終調整。治癒兵たちが薬草を煮る匂い。
カイは寝袋に入ったが、眠れなかった。
明日、会戦。
初陣。
しかも、新型の七段軍団チェーン。
兵法書の中なら、胸が躍る場面だ。
だが今は、胃が重い。
自分が参加する側になると、こんなに違うのか。
当たり前だ。
馬鹿か、俺は。
当たり前だろ。
誰だよ、戦場を見たいとか言ってた奴。俺だよ。ぶん殴りたい。過去の自分を呼べ。いや、呼んだら一緒に怯えるだけかもしれない。役に立たないな、過去の俺。
カイは鞄から『第五連鎖崩壊記録』を取り出した。
もう何度も読んだ箇所を開く。
――湿地における魔石杭の沈下は、解鎖反動の逃げ道を歪める。
――左翼の遅延は中央解鎖の成功率に直接影響する。
――軍楽拍の乱れは、詠唱斉奏に遅延を生む。
カイは指で文字をなぞった。
湿地。
遅延。
拍の乱れ。
明日の戦場にも、似た条件がある。
いや、だから何だ。
王国軍には専門家がいる。
工兵も、魔法士官も、軍才持ちの指揮官もいる。
平民の補助兵が、古い敗戦記録を読んだからといって何ができる。
何もできない。
何もできない、はずだ。
カイは本を閉じた。
「寝ろ、俺」
小声で言った。
「明日寝不足で死んだら、死因が恥ずかしいぞ。戦場以前に自己管理不足。グレン爺に笑われる。いや、笑わないか。怒るか。どっちも嫌だ」
目を閉じる。
太鼓の音がまだ聞こえる。
どん。どん。どん。
その合間に、微かな軋みが混じっているような気がした。
翌朝、霧が出ていた。
薄い白い霧が、戦場予定地の草原にかかっている。太陽はまだ低く、空は淡い金色だった。
王国軍はすでに動き始めていた。
カイたち予備線補助は、主力の後方に配置される。
前方には盾兵隊。さらにその後ろに槍兵隊。左右には弓兵と獣人斥候。後方中央に魔法兵団。少し離れた高地に竜騎兵。工兵たちは夜のうちに魔石杭を打ち終え、地面には青い術式線が走っている。
軍旗が上がる。
王国軍の主旗。
その下で、総指揮官の号令が響いた。
遠くて言葉までは聞こえない。
だが、軍陣循環が動き出すのをカイは感じた。
大きな流れ。
村の川ではない。
水路でもない。
大河だ。
何万もの魔力循環が、軍旗と太鼓と号令に導かれ、一つの方向へ流れ始める。
カイは震えた。
怖いのか。
感動しているのか。
分からない。
たぶん両方だ。
「始まるぞ」
隣の補助兵が呟いた。
カイは前を見た。
敵軍は霧の向こうにいた。
黒と銀の軍旗。隣国ヴァルム連合軍。人間兵に加え、魔族傭兵もいるという話だった。
敵も軍陣循環を持っている。
霧の向こうで、黒い流れがうねっている。
王国軍の太鼓が鳴った。
第一拍。
獣人斥候が走る。
草原を斜めに切り、敵前衛を挑発する。速い。まるで風だ。敵が反応し、前列がわずかに乱れる。
始鎖。
第二拍。
弓兵隊が斉射する。
矢が空を覆い、敵の進路を縫い止める。エルフ弓兵の矢は霧の中で光り、敵結界の端をかすめていく。
接続。
第三拍。
盾兵隊が前進する。
盾が横に並び、淡い光が壁になる。《盾列共鳴》だ。敵の反撃を受け止め、前線を固定する。
カイの胸が熱くなる。
すごい。
これが軍団チェーン。
美しい。
水が流れ、歯車が噛み合い、石臼が回る。
すべてが順番通り。
けれど。
カイの耳に、ほんのわずかな濁りが入った。
左翼。
左翼の盾列が、遅い。
ぬかるみだ。
前夜の雨と霧で、左翼側の地面が重くなっている。
半拍。
いや、四分の一拍。
小さい。
小さすぎる。
でも、ずれている。
第四拍。
ドワーフ工兵の魔石杭が青く光る。
地面に反動逃がしの術式が広がる。
しかし、左翼側の杭の光が少し沈んだ。
湿っている。
地脈に抜けきっていない。
カイの喉が乾いた。
第五拍。
魔法兵団の詠唱が始まる。
低音が地を震わせる。中音が空気を満たす。高音が術式を結ぶ。
その高音が、風で流れた。
昨日と同じだ。
いや、昨日より悪い。
霧の湿り気が、詠唱の伝播を重くしている。
カイの胸の奥で、糸が強く震えた。
嫌な音。
壊れる前の音。
周囲の兵たちは興奮している。
「いけるぞ!」
「敵中央が押されてる!」
「大連鎖だ!」
誰かが勝利を叫んだ。
まだ早い。
まだ解鎖していない。
カイは前方を見た。
トマの槍兵隊は、中央寄りの第二線にいるはずだ。
ユナの弓兵隊は右翼側。
自分は予備線。
位置は後ろ。
安全なはず。
安全、なはず。
第六拍。
竜騎兵が動いた。
高地から、巨大な影が一つ舞い上がる。
本物の竜だった。
大きい。
翼が空を切るたび、周囲の魔力が震える。竜の背には鎧を着た騎兵。槍の先に赤い光が灯っている。
兵たちが歓声を上げる。
竜騎兵。
王国の切り札。
その魔力が、中央のチェーンに接続される。
瞬間、カイは顔をしかめた。
強すぎる。
竜の魔力循環が、周囲の流れを押し潰している。
魔法兵団の詠唱が、それを受け止めようと軋む。
左翼の遅れ。
魔石杭の沈み。
詠唱の濁り。
竜の過剰な魔力。
一つ一つは、たぶん調整可能な範囲だ。
だが、繋がっている。
全部が一本の鎖に乗っている。
このまま第七拍で解鎖したら――。
カイは息を止めた。
見えた、わけではない。
でも分かった。
敵中央に向かうはずの解鎖が、左翼側の歪みに引かれる。
反動の逃げ道が湿地で詰まり、魔法兵団の高音部が遅れ、竜の魔力が上から圧をかける。
そして。
自軍左翼に返る。
カイの手が震えた。
違う。
これは違う。
これは勝利の音じゃない。
壊れる音だ。
「上官に言え」
カイは自分に言った。
声には出ていない。
いや、出せ。
言え。
今言え。
でも、誰に?
予備線の小隊長か?
新兵の自分が?
何と言う?
「音が変です」?
馬鹿か。いや、でも言え。言わないと。
カイは近くにいた小隊長に駆け寄った。
「小隊長!」
「あ? 何だ!」
「左翼の反動が詰まってます。このまま解鎖すると、予備線まで返るかもしれません」
小隊長は一瞬、意味が分からないという顔をした。
それから怒鳴った。
「持ち場に戻れ!」
「でも――」
「貴様、軍才持ちか? 魔法士官か? 工兵か?」
「違います、けど」
「なら黙って命令を待て! 戦場で新兵が勝手に騒ぐな!」
正しい。
小隊長は正しい。
軍は命令で動く。
新兵が勝手なことを言えば混乱する。
分かっている。
分かっているけど。
音が、ひどくなっている。
第七拍が近い。
魔法兵団の詠唱が頂点へ向かう。
竜騎兵が敵中央へ降下する。
王国軍の兵たちが歓声を上げる。
敵中央が揺らいでいる。
勝てる。
誰もがそう思っている。
カイだけが、一歩後ずさった。
周囲の兵が怪訝そうに見る。
「おい、何してる」
隣の若い補助兵が言った。名前はたしかラッド。昨日、故郷に婚約者がいると話していた。もう一人、隣にいるのはミロ。豆が嫌いだと言っていた。いい奴だ。豆嫌いに悪い奴はいない。いや、いるかもしれない。今はどうでもいい。
カイは二人を見た。
そして、自分でも驚くほど低い声で言った。
「三歩下がれ」
「は?」
「今すぐ。三歩だけでいい」
「命令違反だぞ」
「命令より先に鎖が切れる」
自分で言って、ぞっとした。
何だ今の言い方。
誰だよ。
でも時間がない。
カイはラッドの腕を掴み、無理やり後ろへ引いた。
「来い!」
「お、おい!」
ミロもつられて下がる。近くにいた数人が、何事かと振り返る。
小隊長が怒鳴る。
「戻れ!」
その瞬間。
第七拍。
王国軍の大連鎖が解鎖された。
空が白く光った。
竜騎兵の槍が敵中央へ突き下ろされ、魔法兵団の第五階梯術式がそれに重なる。盾兵、弓兵、工兵、魔法兵、竜騎兵。すべての流れが一本になり、敵軍へ向かって弾ける。
はずだった。
光は、途中で歪んだ。
敵中央へ伸びる白い鎖が、左へ引かれる。
まるで、見えない手に掴まれたように。
カイの耳に、嫌な音が響いた。
水車の軸が折れる音。
石臼が割れる音。
軍という巨大な歯車が、内側から砕ける音。
次の瞬間、左翼の空が白く燃えた。
轟音。
熱風。
悲鳴。
カイは吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられ、息が止まる。
耳が聞こえない。
いや、聞こえている。
遠い。
水の中にいるみたいだ。
カイは咳き込みながら顔を上げた。
さっきまで自分たちがいた場所の前方が、白い煙に包まれている。
予備線の端が焼けていた。
完全な直撃ではない。
だが、反動の一部が確かに返った。
ラッドが隣で震えている。
ミロは尻餅をついたまま、口をぱくぱくさせている。
三歩。
三歩下がっただけ。
それだけで、直撃を外れた。
カイは自分の手を見た。
震えている。
ひどく震えている。
当たった。
また当たった。
嫌だ。
当たってほしくなかった。
「カイ……」
ラッドが呟いた。
「なんで……」
知らない。
知らないよ。
俺が聞きたい。
カイは答えられなかった。
前方では怒号が飛び交っている。
左翼が崩れた。
魔法兵団の詠唱が乱れている。
竜騎兵が旋回できずに高度を落としている。
敵軍の黒い旗が、霧の向こうで揺れた。
今度は敵の太鼓が鳴る。
低く、重く、正確な拍。
カイの胸の奥の糸が、冷たく震えた。
敵が来る。
王国軍のチェーンは失敗した。
そして敵は、その失敗を待っていた。
カイは立ち上がろうとして、膝をついた。
怖い。
怖い怖い怖い。
でも、ここで座っていたら死ぬ。
笑え。
いや、笑えるかこんな状況で。
無理だ。
でも喋れ。
黙るな。
カイは乾いた口を無理やり開いた。
「……なあ、三歩で済んだの、すごくない?」
ラッドが呆然とこちらを見る。
ミロも見る。
カイは引きつった笑みを浮かべた。
「次は、十歩くらい下がろう。たぶんその方が長生きできる」
声は震えていた。
笑顔もひどかったと思う。
でも、二人の目に少しだけ光が戻った。
カイは前を見た。
戦場は、兵法書の図とは違った。
矢印は叫ぶ。
数字は血を流す。
そして鎖は、美しく繋がるだけではない。
壊れる。
巻き込む。
焼く。
カイはその音を、確かに聞いてしまった。
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第三話 巻末資料
王国軍教範抜粋:七段大連鎖
分類:大規模軍団チェーン
使用条件:正規軍複数兵科、魔法兵団、工兵隊、軍旗、太鼓、反動制御杭の完全同期
推奨規模:一万以上の正規兵を含む会戦規模
基本構成:
1. 獣人斥候による始鎖
敵前衛を揺らし、初期反応を誘発する。
2. 弓兵による拘束
敵の移動経路を制限し、防御方向を固定する。
3. 盾兵による前線固定
敵圧を受け止め、軍陣循環の基礎を作る。
4. 工兵隊による反動逃がし
魔石杭により地脈へ反動を流す。
5. 魔法兵団による詠唱斉奏
大規模術式を軍団単位で成立させる。
6. 竜騎兵による高圧接続
圧倒的魔力を一点に加え、敵陣を裂く。
7. 決戦術式による解鎖
蓄積された連鎖圧を敵中央へ叩き込む。
利点:
成功時、敵中央の結界・士気・部隊レベルを同時に破壊可能。
会戦における決定打となる。
危険性:
長大なチェーンは、一箇所の遅延・沈下・詠唱濁りによって全体に歪みを生じる。
特に解鎖直前の干渉、地脈不安定、竜騎兵の魔力過多には注意が必要。
教範注記:
大連鎖は、長く繋がるほど美しい。
だが、美しさは安全性の証明ではない。




