17 恋の病?
リメイク版です。
ここからは旧版と展開が変わります。
真治のことは好きだが、父親のことを思うと気重になる。真治には、父親の現状を知られたくない。しかし、もし付き合うなんてことになったら、父親のことを知られてしまうだろう。そのため、父親のことを何とかしたいと思っているが、何もできないから、菜穂は困っていた。
「菜穂、何か悩んでいるのか?」
入学式後から一緒に朝食を食べるようになった父親に、朝食の席で聞かれた。
そんな気遣いができることに驚いた。思わず、悩みを口にしそうになったほどだ。しかし対面に座る父親を見て、ぐっと言葉を呑む。悩んでいる原因は、目の前の父親だ。
「そんなことないけど」
「そっか。でも、もしも何か悩んでいることがあるんなら、お経を読んだらいい」
「……うん」
相談しなくて良かったと心の底から思った。こんな父親に相談したって、あるのは後悔だけだ。
どうしよう。菜穂は考える。
思い切って真治に話すのも一つの手だが、内容が内容なだけに、距離を置かれるきっかけになってしまいかねない。賭けに出る挑戦心よりも、嫌われたら嫌だなという気持ちの方が強かった。
だから、真治も親のことで悩んでいると知ったときは、喜べるような内容ではないが、とても嬉しかった。真治も自分と同じ悩みを抱えている。真治の存在がより身近になった。
そしてさらに、真治はダンプから自分を守ってくれた。子供みたいだけれど、真治のこと、王子様かと思った。だから二人の出会いは運命なのかも、とか思ってにやにやしていたんだけど、恋のライバル? が登場で不機嫌になった。
そしてそれから、それから――
それから、どうなったんだっけ?
菜穂は顔を上げる。見慣れたマンションが目の前にあった。
あれ? 家? 何で?
辺りを見回す。暗かった。もう夜か。それに目が痛い。
何で目が痛いんだ?
ああ、そうだ。菜穂は思い出す。さっきまで泣いていたんだ。電車の中でみっともなく。見知らぬお姉さんに介抱されたんだっけ。本当に申し訳ない。あの馬鹿が、変なことを言わなければ。
あの馬鹿? ああ、そうだ。真治だ。あの馬鹿が最後にあんなことを言わなければ。あんな、私が悪いみたいな言い方をしなければ。そしたら、そしたら……ただ、勘違いした自分を責めるだけで済んだのに。あんな風に言われたら、私が逃げたみたいじゃん。逃げたいわけじゃなかったのに。ただ、一緒にいたかっただけなのに……。
菜穂の目に再び涙が浮かぶ。心の苦しみは涙でしか表現することができないのか。
「あの」
声を掛けられた。菜穂は振り返る。小太りで、疲れた顔のおじさんが立っていた。
菜穂は涙を拭って警戒する。おじさんの笑みが、少し気持ち悪かった。
「どうしたの? 泣いているみたいだけど」
「何でもないです。大丈夫なんで」
菜穂はすぐにその場から離れようとした。
「ああ、ちょっと待って。君、杉本義則君の娘さんなんだよね?」
「そうですけど」
男がじっと菜穂を見つめてきた。薄気味悪くて逃げ出したかったが、なぜか、男から目が離せなかった。
「――――」
男が何か言った。しかし菜穂は聞き取れず、男を睨む。いい加減にして欲しいと思った。
「ああ、ごめん」
男はまごつき、頭を掻く。
菜穂は背を向け、逃げるように部屋に向かった。
今日は運が悪い一日だ。菜穂はため息を吐きながら、部屋の扉を開けた。
「おかえ――どうしたんだ!」
玄関に父親がいた。菜穂は顔を伏せる。最悪だと思った。
「泣いているのか! ちょっと、待ってろ! タオルを持ってくる」
父親は不自由な足を必死に動かし、タオルをとって、戻ってきた。
「ほら、これ使え」
「……ありがとう」
菜穂はタオルを目に当てた。最悪……ではないかも。
「心配したんだぞ、電話にも出ないし。聞いたぞ、今日も事故に遭ったんだってな」
「うん、まぁ」
「なぁ、菜穂……」
と言って、沈黙が生まれる。菜穂がタオルから目を離すと、戸惑う父親の姿があった。話すのを躊躇っているようなそんな感じ。
「何?」
「あ、あのな。お、お経でも唱えるか?」
「は?」
やっぱり最悪だった。
「いや、菜穂は何も悪いことをしてないかもしれないけどさ、でも」
「……馬鹿なんじゃないの」
菜穂は低く冷たい声で言った。侮蔑を孕んだ目で父親を睨む。
「馬鹿だと? 父親に向かって、何てことを言うんだ!」
父親が珍しく、眉を吊り上げる。
「そうでしょ。お経なんて唱えたって、何も変わらないよ」
「そんなことない。お経を唱えれば、幸せになれるんだ! ここにも、そう書いて」
と父親が差しだした本を、菜穂は「ふざけんな!」と叩き落とした。
「ああ、馬鹿! お前!」
「馬鹿はお前だ! いっつも、いっつも、困ったらお経、お経って、馬鹿なんじゃないの! そんな、そんなお経を唱えるだけで幸せになれるなら、今頃皆幸せだよ! ママだって死ななかったし、お姉ちゃんだってこの家を出て行かなかった! それに、それに私だって……」
「ああ、そうだ。ママが死んでしまったのは、俺が悪いからだ。だから、お経を」
「お前の家族はママだけなのかよ! お姉ちゃんや私は違うのか!」
「そ、それは……」
「一生、自分のためにお経でも唱えてろよ、この馬鹿! あんたなんて、あんたなんて、私の父親じゃない!」
菜穂は乱暴に父親を押し退けると、自分の部屋に入った。
荒々しく部屋の扉を閉め、扉の前で崩れ落ちる。涙が止まらなかった。鼻水も嗚咽も、悔しさも怒りも、何もかもが止まらなかった。
菜穂は暗い部屋の中で泣き続けた。大声を出して、ただひたすらに泣き続けた。こんなに泣いたのは、久しぶりのことだった。
それからどれほど泣き続けたのだろう。時間はわからない。菜穂は体育座りになって、腕に顔を埋めていた。だいぶ落ち着いてきたが、嗚咽はまだ、止まらなかった。
コンコン、とノックがある。
「菜穂、俺だ。入っていいか?」
「……駄目」
「……そうか。なら、聞いてくれ。さっきは悪かった。俺も熱くなってしまった。すまん。菜穂のことも恵美のことも俺は大事に思っている。だから、その、すまん」
菜穂は何も答えなかった。
父親が部屋の前から移動し、足音が聞こえなくなったところで、「信じるかよ、ばーか」と呟いた。
やはり父親はいつもの父親だった。お経に頼れば、世の中のことが全てうまくと考えている単細胞。あんな男の目を覚ますためには、どうしたらいいのか。
そばに掃除機があった。掃除機を見て、自分が死んだら、さすがにあの男も気づくだろうと思った。お経を読んだところで幸福にはなれないことを。
菜穂は掃除機の電源コードを伸ばす。この前、ニュースで見た。人は掃除機のコードでも首を吊って死ぬことができる。掃除機ではないが、何かのコードで首を吊った人がいたらしい。
菜穂は自分の首にコードを巻き、扉の取っ手に結ぼうとした。が、菜穂の手が止まる。
悲しそうに自分を見つめる真治の顔が思い浮かんだ。真治は自殺した自分を怒ったりせず、ただただ、悲しそうに見つめている。
「どうして、あんたが、そんな顔をするのさ。私のことなんてどうでもいいくせに」
そうだ。真治にも見せつけてやろうと思った。枕元で、悲しむ真治を笑ってやろうと思った。そしていざ、結ぼうとしたが、できなかった。
真治だけではない。父親も悲しんでいる。自分を苦しめる二人が自分の死を悲しんでいる。そんな状況を笑うことなんてできなかった。
「はぁ……」と大きなため息を吐く。「私って本当に馬鹿というか何というか。しょうもない男しか周りにいないんだな……」
菜穂は苦笑し、コードを外した。
立ち上がり、部屋の電気を点ける。棚に飾ってある熊の人形とカバンのスマホを手に、ベッドに転がった。
菜穂は仰向けになって、人形を掲げる。その人形は恵美からもらったもので、サンタがこの世にいないことを教えてくれた人形でもある。
この人形をもらったとき、恵美とこんなやりとりがあった。
「部屋を掃除していたら、この人形がでてきたから、菜穂にあげる」
「わぁ、いいの。ありがとう! この人形、どうしたの?」
「あいつからもらったの。クリスマスプレゼントだって」
「あいつ? もしかして、サンタさん!」
「は? サンタさんなんているわけないでしょ。あいつって、パパのことよ」
それ以降菜穂は、現実を見ようと思った際、この人形を介し、自分と対話するのだった。
菜穂は人形を左右にゆらす。喋っているかのように。
「菜穂ちゃん、菜穂ちゃん。この世に自分のことを理解してくれる素敵な父親なんていないんだぞ」
「うーん。やっぱりそうなのかな。入学式のときは期待したんだけど」
「ただの気まぐれさ! ただの気まぐれに喜ぶなんて、菜穂ちゃんもまだまだ子供だなぁ」
「うん。そうだね。やっぱりパパには期待しない方がいいのかもね」
「そうだよ。あとね、菜穂ちゃん、菜穂ちゃん。菜穂ちゃんは悪くないよ。菜穂ちゃんを勘違いさせるようなこと言ったあの真治ってやつが悪いんだよ」
「うん。そうだね。あんな状況で、あんなこと言われたら、誰だって勘違いしちゃうよね」
「そうだよ! だから、気にしないで!」
「わかったよ、ありがとう、クマ吉!」
菜穂はクマ吉を枕の隣に置き、腹這いになって、スマホを起動した。確かに父親からの電話が何件かある。それに弥恵たちからもメッセージが。しかし菜穂はそれらを後回しにして、アルバムを開き、写真を探した。
「あった」
菜穂が見たかった写真は入学式のときに撮った写真だ。微笑む父親がいて、不機嫌な恵美がいる。そして、その間には満面の笑みの自分がいる。この写真を見る度に、口元がゆるむ。この時間がずっと続けばいいのに、と思う。
「でも、世の中そんなに甘くないんだよね」
菜穂は寂しげな顔で戻るボタンを押し、次の写真を探す。
次の写真は真治だった。一緒にアイスを食べに行ったときの、間抜け面でアイスを食べる真治。でも、ちょっぴり可愛かったりする。
菜穂はじっと真治の顔を見つめる。
「朝のお前は、最高にカッコ良かったのにな。王子様が現れたと本気で思ったのに」
つんつん、と爪先で真治の顔を突く。そうしているうちに、無性に腹が立ってきて、菜穂はお絵かき機能で落書きする。真治の顔にいっぱい線を描き、『バカ』と矢印で示す。描いているうちに楽しくなって、真治に見せてやろうと思い、写真を保存する。
メッセージアプリを開き、写真を選択する。あとは、『送信ボタン』を押すだけだ。菜穂は送信ボタンに指を伸ばすが、あと数ミリというところで指が止まってしまう。あと数ミリ動かせば写真が送れるのに、菜穂の指はホームボタンを選択し、菜穂は枕に顔を埋めるのだった。




