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第26話 もう俺を見つけなくていい

かつてないほど巨大な赤い靄が薄れていく。

火凛が何らかの代償を払っているのではないかと不安になる。


靄が晴れる。

少しずつ姿を現す景色より早く、濁流の音が届いた。

そこは地下施設のような閉塞感はなかった。

どどどと轟音を立てながら淀んだ濁流が不気味にうねる大河と、その岸辺に果てしなく広がる、ごつごつとした無数の巨岩。


「ここが地獄、…三途の川ってところか」


昔話とか絵本とか、人形劇とか、そういった世界に放り込まれたみたいだ。

ケージの中にいた異界人たちは身を寄せ合って不安そうにしていた。

彼らの言葉を聞き取れなかった。

この世界では、弥七たちと会話さえできないようだ。


「いらっしゃい、罪の重さを見せてもらおうね」


川岸の大きな樹から老婆が現れた。

俺は子ども時代の記憶を辿る。

あれは確か奪衣婆《だつえば》だろう。たしか衣服を脱がして亡者の罪の重さを量る仕事をしているとか読んだことがある。


老婆の隣にいるのは夫あるいは相棒とされる懸衣翁《けんえおう》だろう。

どちらも三途の川を構成の存在、世界における重要人物。おそらく神格に近い存在ではないか。俺の狙い通りだ。


そんな鬼たちすら驚くような甲高い笑い声が響いた。


「遠野君!期待以上だよ、次は祈里ちゃん。君の番だ!」


それを合図に、祈里の周りには簡易的な祭壇が用意された。

その様子を見ていた祈里が口元を押さえながら座り込んだ。


「祈里ちゃん、大丈夫だよ。今度こそ皆で帰ろう」

「あいつは何を言ってるんだ?」


九条父は帰りのゲートを祈里が作れると思っているようだ。

子どもの頃、両親の手だけを救って帰った祈里。

あの時、ゲートを作ったのは火凛だ。九条父は何も理解していない。


三途の川の河原、…賽の河原と思われる場所に地蔵菩薩《じぞうぼさつ》があった。

逃走の役に立てそうだと考えてしまう。

しかし、予想外のことが起こる。

九条父が地蔵菩薩を破壊したのだ。そして、その頭部を持ち、祈里の前に置いた。


「これで思い出すかい?」

「お父様!!!」


祈里は意識を失ったのか、地面に倒れた。

それを九条榛奈が抱き起こしている。


その時、河原付近にいた異界人から悲鳴が上がった。

そこには牛の頭をした鬼と、馬の頭をした鬼がいた。


「あれ知ってる。牛頭《ごず》と馬頭《めず》」

「ははっ、知り合いか」


火凛が変な頭の鬼の名を教えてくれた。

まるで近所のヤンチャなお兄ちゃんを見るような目をしていた。

そういえば、そんな獄卒がいたような気がする。

いずれにしても、俺には好都合だった。


「火凛。もう1度、祈里を助けてやってくれ」

「うん、わかった」


火凛は何も尋ねなかった。

ただ俺の袖をぎゅっと強く掴んだ。


「九条榛奈!祈里を起こせ!そして神を宿せと言うんだ!!」

「遠野君、何をしようとしているんだね」

「あんたは帰り道がほしいんだろ?」


俺の言葉を聞いて、九条父は怪異みたいに口を横に広げた。

もはや、あの父親が怪異だろ。

九条榛奈は必死に祈里を起こしている。


俺は牛頭馬頭のコンビを標的にする。


「おーい、鬼さん。こちら!!」


地獄で鬼を煽る。

逃亡Lv99だからこそできる芸術の領域ではないか。

少しだけ、感動した。

俺は火凛を背負って駆け出した。


「遠野さん!祈里が起きました!!」


祈里は気丈にも立ち上がっていた。

親殺しの再現みたいな馬鹿げた祭壇の前に立っている。本当に強い。



「榛奈!何をやっている!!この茶番を止めろ!!」

「お父様、祈里を解放してください」


そう言うと九条榛奈は父親に立ちはだかった。

白衣の痩せた九条父は娘の抵抗に驚き、足を滑らせた。

九条親子が三途の川へ落ちかける。


「榛奈ねえ!」


祈里が九条榛奈の手を掴んだ。

娘の服を掴んだ九条父が悲鳴をあげる。

川の中には無数の毒虫や牙を持つ魚が泳いでいた。罪人の肉を噛みちぎり、骨をかじり、血を吸い尽くすために群がっていく。

やがて力を失った腕が川へ沈んでいった。


「おい、祈里!!この牛と馬のどっちかへ宿れ!!」


祈里は言い返すことなく祝詞を唱え出した。珍しい。これはこれでムズムズする。

大太法師の時とは異なり、祈里の身体は地面に倒れた。


俺は【疑いの眼】を使った。


倒れた祈里の身体から魂なのか白い火球が浮かび上がり、牛頭へ向かって飛んでいく。牛頭は見えていないのか、その直撃を受けて後方へ吹き飛んだ。


祈里は神職として神童でありながら、自分を顧みない攻撃性がある。怪異からすれば天災みたいな存在だろう。


「祈里!聞こえてるかわからないが、聞いてくれ!」

「……」

「神殺しの後、お前は俺を見つけようとする。それはやめてくれ!」

「……」

「俺はもう逃げ疲れたんだよ、頼むから休ませてくれ!」

「……」

「お前は、救えなかった両親を取り戻すんだ!俺はいいから自分をやり直せ!!」

「……」

「いいか!お前は、もう俺を見つけなくていい!!」


祈里の意思なのか、なぜか牛頭が俺の方に走り出した。

すっげぇ怖い。

地獄で獄卒に追いかけられるなんて、泣けてくる。

もう前が見えないくらい、泣けてきた。


「遠野、大丈夫」


背中にいた火凛が俺の頬に触れた。

その手は魔法みたいに俺を強くする。

今度こそ俺は、世界から逃げられない。

おそらく、消えるだろう。


「火凛、祈里を救い出してくれ」

「わかった」


火凛が牛頭へ向かって手を挙げた。

赤い靄が牛頭の胸あたりに現れて、火球ごと空間ごと切り取った。

牛頭の胸には丸い穴が空いていた。

十分な致命傷だ。

神殺しは、あっさりと終わった。


再び、世界を構成する柱である神を殺した。

大太法師の時と同じように何も起こらない。

どのタイミングで世界変容が起こるかはわからない。

ただ今回は祈里に明確な意思を持たせた。

俺は自分のやることを粛々とやるだけだ。



「火凛、全員を地下施設へ戻せるか」

「やってみる」


どうせ帰ったところで世界は変容している。

何をしても意味はない。

わかってる。

俺は真っ白な空気にでもなっているかもしれない。

それでも、目の前にいる人々を逃がしたかった。


倒れている祈里のところへたどり着いた。

もうすぐ意識が戻るだろう。

俺は夜が延々と続くような景色を見回した。

自分が死んだら、ここへ辿り着くだろう。

神殺しを命じた逃亡者。


(まあ、ここなら逃げきれそうだが)


巨大な靄は地面から泡立ち、三途の川を赤く染め上げた。

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