最終話 それじゃあ、逃げようか
遠くから篳篥が奏でる笛の音が聞こえる。
俺は重い瞼を持ち上げた。そこはステージの出番を待つ楽屋といった感じの部屋だった。横に広い鏡、子ども用のリュックが置いてある。
「遠野、起きた」
「火凛」
俺たちは座敷のようなところで寝ていたようだ。
笛の音に導かれるように部屋を出ると、神社で見るような廊下が続いていた。
俺の記憶がはっきりしている。
祈里はちゃんと自分の望む世界を描けたのだろうか。
笛の音を頼りに長い廊下を進んでいく。
女性の叫び声が聞こえた。
俺は火凛を抱き上げ、足早に駆け出した。
突き当たりの丁字路、俺たちの目の前を小学生の女の子が駆け抜けていく。
巫女みたいな格好をして、鈴を鳴らしながら。
悲鳴が聞こえた方へ向かっているように見える。俺には出来なかった芸当だ。
「祈里、来るな!」
その声は少女に向かって投げかけられた。
俺は戸惑った。
まだ9歳前後といった少女だった。
(祈里なのか?)
それと同時に現状を理解した。
俺たちは祈里の親殺し事件に立ち会っている。
これは再現じゃない。
リアルタイムで進行している。
つまり、祈里は成功したのだ。
俺を消さずに、やり遂げた。
さすが神童と呼ばれた巫女だ。
俺と火凛は現在、8年前にいる。
神楽殿には赤いゲートが現れていた。
「火凛、どうして」
「祈里ちゃん、遊びにきた」
祈里と、火凛の写し身らしき少女が会話をしている。
九条父が舞台へ現れ、地蔵を投げつけた。赤いゲートが消失する。
(だから、さっきも祈里の前で地蔵を使ったのか)
祈里の父親と思われる宮司が祈りだす。
それに対して写し身が、少し黒の混じった赤い靄を放った。
宮司は靄に包まれていく。
俺たちは過去を見せられているのか。
それとも立ち会っているのか。
そして何をするために、ここにいるのか。
「火凛!私もパパのとこへ行く!」
祈里が写し身へしがみついている。
そこへ母親が近づく。
その願いを受け入れるように再び靄が広がった。
(なるほど、これが親殺しの真相か)
「火凛、いくぞ」
俺は火凛を抱えたまま赤い靄へ飛び込んだ。
◇◇◇
「ここは…地獄だな」
三途の川とは違う場所だった。
靴が溶け出しそうな熱を帯びた岩肌が続き、地平線まで草木ひとつ生えていない。生き物の気配がまるでなかった。
少し離れた場所に鬼と宮司がいた。素手で触れれば火傷しそうな石を積み上げて祝詞を唱えている。結界を作っているのかもしれない。祈里と母親を守っているのだろう。
それにしても地獄という場所柄か、鬼たちが少し大きく見える。
俺は【疑いの眼】を使った。
鬼たちが近づくたび、磁石で弾かれるように結界が揺れ、少しずつ破られていく。
俺が囮になれば時間は稼げるが、それでは問題は解決できない。
(さて、どうしたものか)
その時、いくつかの鬼が消えた。
正確には赤い靄で消された。
おそらく写し身が祈里を守ろうとしているのだろう。怯えた表情を浮かべて、祈里と手を繋いでいた。それは仲の良い友達、そう見えた。
「火凛、ここはお前の故郷で合ってるか?」
「うん」
「家族と会いたいか?」
首を横に振る。
しかし、火凛にとって故郷に変わりはない。
こんな俺でも故郷にはいくつか良い思い出があった。
(故郷によい思い出をつくってやるか)
「なら、俺とここで暮らしてくか?」
とても驚いた表情をした。
こんなにも心が戻っていたのだと嬉しくなる。
そして、微笑んだ。
「では、祈里を家に帰してやろうか」
「うん」
俺が駆け出す頃には、写し身が追い詰められていた。
鬼に吹き飛ばされながらも小さな赤い靄を作った。まさに最期の力といった感じだ。
両親が祈里を守ろうと庇っている。
母親も現役の巫女なのだろう、キラキラした靄は親譲りだった。
だが、相手が悪い。
両親は次々と薙ぎ払われた。
その時、空気を切り裂くような、幼い祈里の叫び声が聞こえた。
それと同時に、見えない衝撃が届く。
両親に最後の一撃を加えようとしていた鬼たちが吹き飛ばされていた。
(そりゃ神童って言われるわけだ)
祈里は倒れた両親を引きずってゲートを潜ろうとしていた。
俺は祈里に声をかけた。
「祈里、頑張ったな。あとは任せろ」
幼い祈里は泣き腫らした顔で振り向く。目から黒い涙を流していた。
神童と呼ばれた巫女、親殺しと非難された女の子。
地獄のような世界を繰り返してきた少女。
俺は彼女の両親を靄の中へ入れた。
火凛が何かを手渡している。
俺は祈里の肩に手を置いて、本心を伝える。
「祈里、俺のことはいい。もう見つけなくていいんだ」
その言葉に、少女は手のひらの折り鶴を見つめた。
「これで両親は生き延びた、お前は成し遂げたんだ。さすが神童だな」
赤い靄が小さくなりはじめた。
写し身の魂が尽きようとしているのだろう。
俺は後ろへ下がった。
(祈里は世界から逃げ切った)
「お前がもし、また俺を見つけたら」
少女は俺の顔を見上げる。
大切なものを取り上げられたような顔で俺を見つめた。
そんな顔をしないでほしい、と思う。
「その時は、茶飲み友達になってくれ」
俺の言葉が届いたのかはわからない。
赤い靄は、少女と両親を包んで消失した。
振り返ると写し身が息絶えている。
火凛が赤い靄で弔っていた。
鬼の群れが俺たちに照準を合わせたようだ。
愚か者どもめ、お前たちが相手にしているのは逃亡のプロだぞ。
「火凛、どこか行きたいところあるか?」
火凛は首を傾げて、場所を考えているようだ。
俺はポケットに残っていた不格好な折り鶴を眺めていた。
少し急いでほしいと思ったが、どうやら見つからないようだ。
「遠野と一緒がいい」
俺は笑ってしまった。
俺も同じだったから。
「ありがとな、俺に逃げ場を与えてくれて」
俺は火凛を背負った。
「それじゃあ、逃げようか」
「うん」
俺は、自慢の脚力で鬼の群れを引き離す。
地獄の果てまで逃げ切ってやるさ。
俺は主人公に憧れていた。
ロールプレイングゲームの勇者みたいに強くて格好良くて。
でも現実は違った。
学校から逃げた。会社から逃げた。友人から家族からも。
俺は憧れられるような英雄になれなかった。
でも、誰かの逃げ場所でありたい。
こんな奴でも生きながらえてるんだって。
死ぬのが馬鹿らしく思えるほどに。
だから逃げ回る。
逃亡のプロとして、火凛の保護者として。
————いつからか、遠野のドローンが起動していた。
オフラインのまま、どこにもつながらないまま。
誰にも見せることのない逃亡を、ただ記録していた。




