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5/10

あの夜、閣下はどちらへ

ある朝、ジークヴァルト様は旅装で現れた。


「二、三日、屋敷を空ける」


「お出かけ、ですか」


「ああ。片づけねばならないことが、少しな」


その言葉を、前にも聞いた気がした。


「わたしも、ご一緒しては」


「いや。君は、ここにいてくれ」


彼はわたしの頬に手を添え、いつものように微笑んだ。


「すぐに戻る。おれのいないあいだ、なにも心配しなくていい」


馬蹄の音が遠ざかると、屋敷は急に広くなったように感じた。


彼のいない夏は、ひどく静かだった。


   * * *


その静けさを破ったのは、翌日の午後に届いた一枚の報せだった。


マレナが青ざめた顔で、それを運んでくる。


「お嬢さま。王都で、たいへんな噂が」


「なにが、あったの」


「王太子殿下が――近く、廃嫡されるのではないか、と」


わたしは、思わず立ち上がった。


「殿下が? あの、殿下が?」


わたしを断罪し、婚約を破棄したあの人。


この国の次の王になるはずだった、あの人が。


「にわかには信じられません。けれど市中は、その噂で持ちきりだそうで」


わたしは、窓の外を見た。


リーゼが消え、証人が消え、そして今度は殿下までも。


わたしを傷つけた者たちが、上へ上へと順に崩れていく。


まるで誰かが、いちばん下の駒から順に片づけていくように。


「片づける」


ジークヴァルト様の言葉が、耳の奥でよみがえった。


その夜、わたしは眠れずにテラスへ出た。


風は、なかった。


夏の夜は、生あたたかく凪いでいる。


昼の蝉が嘘のように、あたりはしんと静まりかえっていた。


なのに。


ちりん、ちりり、ちりん、と。


軒の風鈴が、いっせいに鳴りはじめた。


ひとつではない。


いくつも、いくつも。


屋敷じゅうの風鈴が、まるで競うように鳴りわたっている。


わたしは、立ちすくんだ。


これまでの、ひとつきりの音とはまるでちがう。


まるで大きな、大きな“なにか”が、いま片づいたとでも言うように。


「マレナ……!」


駆けつけた老侍女も、鳴りやまぬ軒を見上げて言葉を失っていた。


その顔は、蝋のように白かった。


風鈴の音は、しばらくのあいだ夜のなかで鳴りつづけた。


やがて、糸が切れたようにふつりとやむ。


あとには、なにごともなかったような夏の静寂だけが残った。


   * * *


ジークヴァルト様が帰邸したのは、翌々日の夕刻だった。


「ただいま。……寂しい思いをさせたな」


わたしは、玄関で彼を出迎えた。


そして、気づいてしまった。


彼の乗ってきた馬も、磨かれたはずのブーツの先も。


乾いた赤黒い泥に、まみれている。


王都とは、逆の方角。


このあたりには、ない土の色だった。


「お帰りなさいませ。……あの、ひとつ、伺っても」


「なんだ」


「殿下の噂が流れた、あの夜。閣下は――どちらに、いらしたのですか」


ジークヴァルト様の足が、ほんの一瞬だけ止まった。


けれど、振り返った顔は、いつもと変わらず穏やかだった。


「野暮用だよ。君が気にすることは、なにもない」


「でも」


「セラフィーナ」


彼は、わたしの手を取った。


その指は、氷のように冷たかった。


「なにも知らなくていい。それが、いちばん幸せなんだ」


やさしい声だった。


なのに、それはまるで。


これ以上は踏み込むな。そう告げているようにも聞こえた。


わたしは、繋がれた手を見つめた。


――凶事の夜、この人はいつも、屋敷にいない。


もう、気づかないふりはできなかった。

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