あの夜、閣下はどちらへ
ある朝、ジークヴァルト様は旅装で現れた。
「二、三日、屋敷を空ける」
「お出かけ、ですか」
「ああ。片づけねばならないことが、少しな」
その言葉を、前にも聞いた気がした。
「わたしも、ご一緒しては」
「いや。君は、ここにいてくれ」
彼はわたしの頬に手を添え、いつものように微笑んだ。
「すぐに戻る。おれのいないあいだ、なにも心配しなくていい」
馬蹄の音が遠ざかると、屋敷は急に広くなったように感じた。
彼のいない夏は、ひどく静かだった。
* * *
その静けさを破ったのは、翌日の午後に届いた一枚の報せだった。
マレナが青ざめた顔で、それを運んでくる。
「お嬢さま。王都で、たいへんな噂が」
「なにが、あったの」
「王太子殿下が――近く、廃嫡されるのではないか、と」
わたしは、思わず立ち上がった。
「殿下が? あの、殿下が?」
わたしを断罪し、婚約を破棄したあの人。
この国の次の王になるはずだった、あの人が。
「にわかには信じられません。けれど市中は、その噂で持ちきりだそうで」
わたしは、窓の外を見た。
リーゼが消え、証人が消え、そして今度は殿下までも。
わたしを傷つけた者たちが、上へ上へと順に崩れていく。
まるで誰かが、いちばん下の駒から順に片づけていくように。
「片づける」
ジークヴァルト様の言葉が、耳の奥でよみがえった。
その夜、わたしは眠れずにテラスへ出た。
風は、なかった。
夏の夜は、生あたたかく凪いでいる。
昼の蝉が嘘のように、あたりはしんと静まりかえっていた。
なのに。
ちりん、ちりり、ちりん、と。
軒の風鈴が、いっせいに鳴りはじめた。
ひとつではない。
いくつも、いくつも。
屋敷じゅうの風鈴が、まるで競うように鳴りわたっている。
わたしは、立ちすくんだ。
これまでの、ひとつきりの音とはまるでちがう。
まるで大きな、大きな“なにか”が、いま片づいたとでも言うように。
「マレナ……!」
駆けつけた老侍女も、鳴りやまぬ軒を見上げて言葉を失っていた。
その顔は、蝋のように白かった。
風鈴の音は、しばらくのあいだ夜のなかで鳴りつづけた。
やがて、糸が切れたようにふつりとやむ。
あとには、なにごともなかったような夏の静寂だけが残った。
* * *
ジークヴァルト様が帰邸したのは、翌々日の夕刻だった。
「ただいま。……寂しい思いをさせたな」
わたしは、玄関で彼を出迎えた。
そして、気づいてしまった。
彼の乗ってきた馬も、磨かれたはずのブーツの先も。
乾いた赤黒い泥に、まみれている。
王都とは、逆の方角。
このあたりには、ない土の色だった。
「お帰りなさいませ。……あの、ひとつ、伺っても」
「なんだ」
「殿下の噂が流れた、あの夜。閣下は――どちらに、いらしたのですか」
ジークヴァルト様の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、振り返った顔は、いつもと変わらず穏やかだった。
「野暮用だよ。君が気にすることは、なにもない」
「でも」
「セラフィーナ」
彼は、わたしの手を取った。
その指は、氷のように冷たかった。
「なにも知らなくていい。それが、いちばん幸せなんだ」
やさしい声だった。
なのに、それはまるで。
これ以上は踏み込むな。そう告げているようにも聞こえた。
わたしは、繋がれた手を見つめた。
――凶事の夜、この人はいつも、屋敷にいない。
もう、気づかないふりはできなかった。




