わたしは、なにをしたの
わたしは証言書の束を握りしめたまま、ようやく振り返った。
ジークヴァルト様は、扉のそばに静かに立っていた。
その顔に、怒りも動揺もない。
ただ、いつもの穏やかな微笑みだけがあった。
「なぜ……なぜ、これを、あなたが」
「取り戻したのだ」
彼はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「それは君を陥れるために使われた、偽りの証だ。本来、この世にあってはならないものだよ」
「けれど、これは王城にあったはずで」
「ああ。だから、取り戻してきた」
彼はわたしの手から、そっと束を抜き取った。
まるで汚れたものから、わたしを遠ざけるように。
「君の無実を証すには、これが要る。……いや、要ると思っていた」
ジークヴァルト様は暖炉のそばへ歩み寄った。
そして、その束を迷いなく火のなかへ投じた。
紙の端がみるみる縮れ、赤い舌に舐められていく。
「もう要らないな。証すべき相手など、どこにもいないのだから」
「待ってください。燃やしてしまっては、わたしの潔白を、どう証すのですか」
「君の潔白は、おれが知っている。それで、じゅうぶんだろう」
炎に照らされた彼の横顔は、ぞっとするほど静かだった。
わたしは、それ以上なにも言えなかった。
たしかに、あんな偽りの証など、なければいいと思っていた。
なのに、すべてが灰になっていくのを見ていると、胸の底がひやりとした。
「こんなもの、君の目に触れさせたくなかった。すまなかったな」
彼はわたしの髪に、そっと口づけた。
その優しさに、わたしの疑いはまた溶けていく。
――どうやって、王城の奥のものを取り戻したのか。
その問いだけが、灰といっしょに胸へ残った。
* * *
けれど、その夜から、わたしのなかでなにかが狂いはじめた。
燃やされた証言書に書かれていた、あの言葉。
わたしが令嬢を階段から突き落とそうとした、というあの夜のこと。
思い出そうとするたびに、記憶が霧のようにぼやけるのだ。
わたしは、あのとき、どこにいた?
大広間の隅に、立っていたはずだ。
いいえ。庭のテラスに、出ていたかもしれない。
――あの令嬢と、階段で言い争った?
そんな覚えは、ない。
ないはずなのに、思い返そうとすると、そんな光景までうっすらと浮かんでくる気がする。
まるで誰かが、わたしの記憶にそっと絵を描き足したように。
わたしの本当の記憶と、世間の言う“罪”とが、どこかで、すり替わっている。
そんな心地さえ、した。
「わたしは……本当に、なにもしていないのよね」
鏡の前で、わたしは自分の顔にそう問いかけた。
鏡のなかの娘は、ただ、こわい目をして、わたしを見返すだけだった。
その夜、テラスでそのことをこぼすと、ジークヴァルト様はわたしを膝に抱いた。
「つらいことは、無理に思い出さなくていい」
「でも、自分がなにをしたのかも、わからないなんて。こわいのです」
「君は、なにもしていない。それだけを覚えておけばいい」
「ジークヴァルト様」
「忘れていいんだ。……つらい記憶は、ぜんぶ、おれが覚えておく」
その言葉は、たまらなく優しかった。
優しくて――どこか、こわかった。
覚えておく、とは、なにを。
問い返す前に、彼の腕がわたしを深く包んだ。
その胸のなかは、あたたかくて。
いつだって、それ以上考えることを、わたしにやめさせてしまうのだった。
* * *
夏が、深まっていった。
いいえ。深まる、というのとは、少しちがう。
幾度、夕立が空を洗っても、暑さは少しも衰えなかった。
まるで、この夏だけが、終わることを忘れてしまったように。
そして、奇妙な報せがひとつ、またひとつと屋敷に届くようになった。
わたしを断罪した、あの夜の証人たち。
そのうちの一人が、ある朝、家から忽然と消えた。
つづいて、もう一人。
夜のうちに荷物をまとめ、どこへともなく旅立ったのだという。
まるで神隠しのようだ、と、街の者は囁いた。
そして、その報せが届くたびに。
軒の風鈴が、ちりんとひとつ鳴った。
わたしはもう、それを偶然だとは思えなくなっていた。
名を呼べば、鳴る。
その者が消えれば、また鳴る。
風鈴はたしかに、なにかを数えている。
ある午後、わたしはマレナに尋ねた。
「消えた証人のなかに、ノラという侍女は、いて?」
「……はい。まっさきに、お姿を消されたと聞いております」
「そう。あの子も」
わたしは、うつむいた。
自分を陥れた者が消えて、なぜ、こんなにも胸が冷えるのだろう。
すると、マレナがめずらしく、ためらいがちに口を開いた。
「お嬢さま。ひとつ、お耳に入れておくべきか、迷っていたことがございます」
「なあに」
「証人のなかに、ゴードンという名の下男がおりましたでしょう」
「ええ。王城で、雑用をしていた者だと聞いたわ」
マレナは、声を落とした。
「あの男は――もとは、この屋敷に仕えていた者にございます」
わたしの息が、止まった。
「この、屋敷に」
「五年ほど前まで。閣下の手足として働いておりました。それが、いつのまにか王城へ移っていたのです」
風のない午後だった。
なのに軒の風鈴が、ひとつ、ちりんと鳴った。
わたしは、ゆっくりと顔を上げた。
わたしを陥れた証人と、わたしを救ったこの屋敷。
その二つが――細い糸で、繋がっていた。
まさか。
まさか、そんなことが、あるはずない。
そう打ち消そうとするのに。
胸の奥で、燃え残ったはずの証言書の灰が、かすかに疼いた気がした。
「マレナ。ゴードンは、今、どこに」
老侍女は、静かに首を横に振った。
「――あの者も、先月から、行方が知れません」
軒で、風鈴が、もう一度だけ鳴った。




